微睡の中
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【旅の記憶】
ラン……ディラン……。
なんだろう、懐かしい響き。誰かがぼくのことを呼んでいる気がする。なんだかひどく眠たくて、ぼくは目をこすった。
目を開くと少し視界がぼやけていた。でも、わかる。ああ、あれは母さんだ。暖かいミルクをもってぼくのことを呼んでいる。母さん、今行くから少し待って。ぼくまだ少し眠いんだ。
大きなあくびをするとあたりを見渡した。住み慣れたぼくの家だ。母さんは料理がすきでよく台所にこもっていて、今日もそのついでにぼくの大好きなミルクを温めてくれたのだろう。
父さんはどこにいるかな。また絵でも描いているのかな。ぼくはそれを見るのが好きだ。父さんのアトリエに向かってぼくは歩き出した。そこに向かう廊下からは中庭が見える。
──違和感。
あれ、この部屋、誰の部屋だっけ。
見慣れているはずの廊下。そこに誰の場所だったかわからない部屋があった。ぼくの部屋の隣だ。お手伝いさんでもないし、誰だっけ。
まあいいか、父さんの部屋はあともうすこし。今日はお馬さんの絵を描いてもらいたいな。黒いお馬さんがいい。たてがみを梳くと喜ぶかわいい馬なん、だ……あれ。なんでぼくは今想像しようとした馬のことを知っているんだろう。
それにあの部屋、ぼくにとって大切な人の部屋だった気がしてきた。でもダメだ、思い出せない。
不意に名前を呼ばれた。父さんだ。ぼくが来たのに気づいてきてくれたんだ。父さん! 今日はね!
父さんの顔は険しかった。しきりに何かを叫んでいるけど聞き取れない。あれ、耳がおかしくなったのかな。
耳を澄ませる。まだ言葉は聞こえない。目をつむると、それははっきりとぼくの頭に響いてきた。
──まだこっちにはくるな。
そう言っているのがわかったその時、僕はすべてを思い出した。
***
──暗闇。
ここはどこだ。
寒さや熱さ、頬を撫でる風、肩にかかるはずの髪の感触を何一つ感じない。無。それだけがすべてを支配していた。死んだのだろうか。最後の記憶はなんだ。どこか安らかな場所にいた気がする。しかしその前にも何かあった気がする。
恨みを持ち、白く濁ったうつろな瞳、強烈に焼き付いたあの光景。
そうだ、僕はあの魔物に襲われた後、気を失って……。やはり、死んでしまったのだろうか。
何もないその空間に一歩踏み出した瞬間、景色が変わった。
***
懐かしいにおい。湿り気があるその空気はディクライットの街のそれだ。
三角屋根が連なるその街を白く染めあげているのは冷たい雪で、さくさくとつぶす音が心地いい。エインとアメリアが連れ立って歩いているのが見えた。あの二人、そんな仲良かったっけ。その先にヴァリアやヴァス、カースティもいた。みんなでグレープレングスにでもいくのかな。甘いものが嫌いなレリエまでいる。
ただその中に僕が最も会いたい人の姿はない。 ティリスはどこにいるのだろうか。
僕は彼女を探して……いや、彼女がいる場所はわかっていた。城だ。彼女は大体城で自分の気が済むまで鍛錬をしてからみんなの待ち合わせにやってくる。僕は必ずそれを待って彼女と一緒に向かうのだ。
この坂を上り切れば、そこには……。
飛び込んでくる蒼──混じり気のないその髪がなびき、その人が振り向く。そして、愛しい笑顔がそこにあった。
彼女の陶器のような肌に触れようとしたとき。目の前のその姿が視界から消え失せた。どろりとしたなにかが僕の全身にかかる。
崩れる愛しい人の身体、それを支えようと延ばす、僕の短すぎる腕は届かない。
嫌だ、こんなの嘘だ。ちがう、僕は……!
ティリス、君を……必ず……。
──視界が、消えた。
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