終章

 リリイの店に行ってから二日後、恭太は岸野の研究室を訪ねていた。自分の研究について岸野の意見が欲しかったからだ。

「おもろいな。」

 恭太の書きかけの論文に目を通し、岸野はそう呟いた。

「ええと思うで。確かに井上君の理論は筋は通ってる。ただ、証明となると、ちょっと骨が折れそうやな。はっきり言って、今の井上君の知識量だけではこの定理の証明は無理かもしれへんな。」

 今の知識量では無理。その岸野の言葉に恭太は少し尻込みをした。しかし、今の恭太に引き下がる選択肢は無かった。藁にでもすがる思いで恭太は岸野の教えを乞うことにした。

「そうか。どないしたらええんやろ。岸野君はこの定理を証明するためにどの分野の論文を読んだらええと思う?」

「そうやなあ。」

 岸野はそう言いながら自分のパソコンを操作し始める。

「もしかしたら、この定理を証明するためにはトポロジーの分野の知識も必要かもしれへん。この先生な。その分野に関してはちょっと知られている人やねん。俺から紹介するけどちょっとこの人の研究室に行ってみる?」

 そう言い、岸野は自分のパソコンのモニター画面を恭太に見せた。モニター画面にはその研究者の顔写真とプロフィールが表示されている。京都の大学の研究者らしい。

「お願いしてもええかな?」

 恭太は岸野にその研究者への紹介を依頼した。

「ええよ。今日にでもその先生にメールを打っておくわ。」

「ありがとう。」

 恭太はそう言い、腕時計を見る。もうすぐでこの大学での岸野の講義が始まる時間になる。

「ありがとうな。忙しいところ、相談にのってくれて。ぼちぼち岸野君の講義の時間やし行くわ。」

 そう言い岸野の研究室を後にしようとする恭太に対して急に岸野が話しかけた。

「ええよ。ところで井上君。もうじき結婚でもすんの?」

 唐突に岸野に言われ恭太は驚いた。恭太には結婚の予定など全く無い。

「そんな予定無いよ。何で?」

 恭太は岸野に聞き返した。

「いや。いつも以上に研究に熱心になっているから。今まで研究に対して熱心でなかった訳ではないけど。結婚でもすんのかなと思ってん。」

 そして岸野はこう続ける。

「長いこと付き合っている彼女がいるんやろ。」

 岸野にそう言われ恭太の脳裏に梨央の顔が浮かび上がる。しかし恭太は結婚後のその先を今も思い描けずにいる。今、恭太が取り組んでいるこの定理が証明されたとき、梨央との未来が思い描けるかもしれない。

「いや。まだ早いわ。」

 恭太は、そう岸野に返事をし、彼の研究室を後にした。

 岸野の紹介を受けて、恭太はその京都の研究者と二週間後に面談することになった。一刻も早く恭太は教えを乞いたかったのだが、その研究者は海外に出張する予定になっており、直ぐにはアポイントがとれなかった。恭太は自分の研究が進捗しないことに苛立ちを覚えながら二週間過ごすことになる。

 リリイの店に行く日、その日は朝から雨が降っていた。5月も終わりに近づいており、湿った空気が町を包んでいる。恭太はいつも通り、リリイとの約束に間に合うように大学を出たが、雨が降っていたので、自転車を使わず歩いてリリイのいる色町を訪れた。雨の中、改めてこの町を眺めていると恭太は町の雰囲気がいつもより弱弱しく感じられた。それはこの町の建物のせいなのかもしれない。恭太が住む都会では最新の建築技術によって建てられたビルが立ち並ぶが、この町は都会の近くにありながら、古びた家屋しかない。今降っている雨が嵐になれば、この古びた家屋達は耐えられるのだろうか。

 雨が降っているので視界が悪い。その中でぼんやりとリリイのいる店が、か弱い光を放っている。店の前に立ち玄関を見ると、いつもの中年の女性が店先にいたが、リリイは座っていなかった。

「ユリちゃんですね。今、前のお客さんが入っています。予約の時間までまだ間がありますので、店の中で待っていますか?」

 そう言われて恭太は自分の腕時計を見てみる。予約の時間としていた午後8時の15分前であった。雨の中、外を歩き回りたくなかったので、恭太は店の中でリリイを待つことにした。

「はい。ほな中で待たせてもらいます。」

 恭太の言葉を受け中年の女性は立ち上がり、今回は一階の待合室では無く店の二階に恭太を案内する。二階に上がるとリリイの部屋が恭太の目に入った。当然だが部屋の襖は閉まっている。

「どうぞ。」

 中年の女はリリイの部屋から見て、向かいの部屋に恭太を案内した。中年の女が部屋の電気を点けたが、その部屋の電気は豆電球しか点灯しなかった。いつかはこの部屋にも女が居付くことになるのだろう。

「ここで待っていてくださいね。」

 そう言い残し、中年の女はその部屋から出て行った。部屋の奥に畳まれている布団の上に恭太は腰を下ろし耳を澄ましてみる。何も聞こえてこない。今、恭太のいる部屋の向かいの部屋ではリリイと他の男が共に過ごしている。その男に対してのリリイの仕事は終わったのだろうか。恭太が腕時計に目をやると午後8時の10分前であった。時計を見るまで恭太はリリイが他の男と何をしているのか気になっていたが、今は何も考えれらなくなっていた。10分後に恭太はリリイを抱く。恭太の思考はそのことのみに向き始めている。

 首を長くしながら、部屋の中でリリイを待っていると、バタバタと足音が部屋の前まで向かって来ている。リリイだろうか。コンコンと襖がノックされる。襖が開き、そこにはリリイがいた。

「ごめんなさいね。待たせてしまって。」

 少し慌てた様子でリリイは恭太に話かけた。

 恭太が自分の腕時計を確認すると午後8時の5分前だった。

「いや。また早くついてしもうたわ。」

 恭太はそう言い立ち上がる。

 今日はリリイの最後の出勤日である。そう思いながら恭太はリリイを見つめる。リリイの様子ははいつもと変わらなかった。

「こちらへどうぞ。」

 リリイは恭太をその部屋から自分の部屋へと誘い出す。廊下を跨ぎ、恭太はリリイの部屋に入った。先ほどまで他の男が居たはずなのに、部屋はいつも通り小奇麗に整理されている。恭太はいつも通りに部屋の奥に置かれている座布団の上に腰を下ろした。

「来てくれてありがとう。」

 リリイは恭太の太腿の上に自分の手を置きいつもの上目遣いで恭太を見つめる。

 ―リリイを抱くのも今日で最後。

 恭太はそう思いリリイを見つめた。自分でも驚くほど恭太には何の感慨も沸いてこない。早く金を払いリリイと事を始めたいとすら考え始めている。恭太はそのとき、お互いに愛情を持たない男女が見つめ合う時間は無駄な時間であることを悟った。

「雨ですね。」

 沈黙の中、リリイが恭太に声をかける。古い家屋の中では外の音が良く聞こえる。雨の音だけがリリイと恭太のいる部屋を満たしていた。この音とは他に何かの言葉で恭太はこの部屋に音を加えようとする。しかし、どれだけ考えてもリリイに話かけるきっかけとなる言葉が見つからない。長いこと通い詰めているが最後までこの調子だ。

 ―何も無かったのだ。二人の間には。

 恭太は以前、リリイから好意を持たれているかもしれないと考えたことがある。もし恭太がそのとき、その好意が確かなものなのかリリイに確認をしていたら、今の二人の間に何かの言葉が交わされていたのかもしれない。しかし、今の二人の間に流れる音は雨音だけだった。

「行こうか。」

 リリイが恭太を部屋の外にあるシャワー室へ誘いだそうとする。その言葉に従い、恭太は自分の服を脱ぎ始めた。

 普段通りにシャワーを浴び、部屋に戻った恭太は部屋に敷かれている布団に横たわる。外の雨音とシャワー室に残ったリリイがシャワーを浴びる水の音が混ざる。やがてシャワーの音は止み、部屋の中は雨音だけが残る。トントンと襖を叩く音がし、部屋の中にリリイが入ってきた。横たわる恭太の横でリリイは膝をつき恭太を見下ろした。普段浮かべているはずのリリイの顔には笑顔が無い。この薄暗い部屋で見えるリリイの表情を恭太は不気味に感じられた。

「どないしたん?」

 恭太は思わずいつもとは様子の違うリリイに声を掛けた。

「ううん。今日で最後だなって思っただけ。」

 リリイはそう言うと急に笑みを浮かべ始めた。その表情はいつも恭太に見せる表情だった。

「そうか。」

 恭太はリリイにそう言葉を返したが、それ以上の言葉も思いつかないし、先程より何かの感慨も沸いてこない。今、恭太の目の前には裸のリリイがいる。だから、恭太は目の前の女を抱くこと以外何も考えていなかった。もしかしたら、リリイには恭太が覚えていないだけで、何か感慨が沸いてくるような思い出がこの部屋の中にあったのかもしれない。しかし、今の恭太には過去を振り返ることは無く、僅か先のことで頭が一杯であった。相変わらず恭太の顔を見続けるリリイに対し、恭太は強引にリリイの顔を引き寄せ口づけをした。

 30分後、恭太とリリイは服を着始めている。ようやく過去を振り返る余裕の出来た恭太だったが、相変わらずリリイに対して掛ける言葉が見つからなかった。

 ―今日でリリイと会うのも最後

 また、そう考えた恭太はせめてリリイの顔を脳裏に焼き付けようと、リリイの顔を見つめる。服を着ていたリリイは恭太の視線に気づき、恭太と目を合わせた。ふと恭太はリリイから目を逸らす。そして少し考えたのち、リリイに

「いつ地元に戻るん?」

 とリリイに話しかけた。

「もう来週の火曜日には地元に帰るの。」

 今日が金曜日だからリリイが地元に帰るまで一週間もない。

「そうか、そんなに早いんや。」

 恭太はそれ以上の言葉が見つからない。

「うん。今までありがとうね。」

 そう言いリリイは恭太に笑顔を見せた。そのとき時間切れを示すブザーがリリイの部屋に鳴り響いた。何も感慨の無いはずの恭太だったが部屋を出ていくのが少し惜しく感じられる。リリイは恭太の手を取り、

「本当にありがとう。」

 と恭太に声を掛け、恭太に口づけをした。その手を恭太は握り返し、リリイに促され部屋を後にした。

 店の玄関先に出てみると、相変わらず雨は降り続いていた。

「雨降ってるね。」

 リリイは少し心配そうに恭太に話かける。

「まあ、この程度の雨やったら特に問題無いやろ。」

 恭太は靴を履きながらリリイにそう返した。靴を履き終えたので、恭太は立ち上がりリリイの方に振り返る。リリイは笑顔を浮かべてはいたが少し寂しそうだった。もう一度、恭太はリリイの顔を目に焼き付けようとする。

「じゃあ、元気で。」

 恭太はリリイにそう声を掛けリリイの店を後にした。傘を差し、雨の中を歩き始める。ふと振り返るとこの雨の中でリリイの店の玄関先から紫の光が放たれている。その光に人影が射す。それはリリイの人影だった。恭太はその影を見届け、先ほど別れたばかりのリリイの顔を思い浮かべようとした。しかし恭太はつい先ほど見つめていたリリイの顔をもう思い出せなかった。

 恭太が最後にリリイの店を訪ねてから半年が過ぎようとしていた。恭太が証明しようとしている数学の定理はまだ証明には至っていない。しかし、岸野が紹介してくれた学者との交流をきっかけに恭太が手掛ける論文の数も増えつつある。半年の間に恭太は何度か研究集会に参加したが、明らかに恭太の発表に対しての質問の数も増えてきている。そして恭太は梨央と入籍をした。梨央との結婚生活は同棲時代とあまり何も変わることがなかった。しかし、恭太にとっては梨央に対しての責任が明確なものとなったので、研究者として一人前にならなければならいという思いが以前よりも強くなっている。結婚の報告を岸野にしたところ、

「絶好調やな。」

 と岸野は笑いながら言い、恭太を祝福した。

 生活、研究に対して変化のきっかけはあったものの、結局のところ、大きな変化は恭太には訪れていない。人はそう簡単には変われないものなのかもしれない。しかし緩やかに物事が進んでいることを恭太は感じており、その緩やかな動きを生み出すことでさえ、自分は大きな行動を取らなければならいのだと、恭太は考え初めていた。岸野と違い圧倒的な数学の才能の無い恭太はこれからずっと、その緩やかな動きを生み出すために大きな行動を取り続けることになる。しかも家庭に対しての責任を抱えながら。少し気が重くなることもあるが、やはり恭太は楽観的であった。

 十一月も中頃を迎えたある日、恭太は研究室の飲み会に参加していた。飲み会が終わり、恭太は家に帰る前にふと、何となくリリイがいた店を見たくなり遠回りして帰ることにした。自転車を漕ぎながら、かつて通っていた色町の風景を眺めてみる。半年前から何も変わっていない。どんなに時代が変わろうと男の持つ欲望は変わることは無い。だからこの町も何も変わることなく在り続けるのだろう。やがて恭太はリリイの居た店の前に辿り着き自転車を止めた。店の玄関には相変わらず、かつて応対してくれた中年の女性が客引きをしている。そして玄関の奥には一人の女が座っていた。その女の顔を見たとき恭太はハッとした。

 ―もしかしたらリリイか?

 恭太は玄関の奥にいる女の顔を見返す。恭太の記憶の中でリリイの顔は姿を消しつつあったが、ぼんやりと残っている恭太の記憶の中のリリイの顔と玄関奥にいる女の顔が共通しているように見える。恭太はさらに店に近づき、近くでその女の顔を確認しようとする。恭太が店先に近づいたとき、恭太に気付いたその女は恭太に満面の笑みを見せた。その女の顔を近くで見ても、もう恭太はリリイの顔が思い出せない。恭太は客引きをしている中年の女の方を見る。中年の女も何も言わず、笑いながら恭太の方を見るばかりだった。

 ―結局大きな変化など訪れはしないのだ、特にこの町では。

 恭太は店先で微笑みを浮かべる女を見つめながらそう考えていた。そして恭太も女を見つめ笑みを浮かべる。それは女に対して愛想を振りまくための笑いでは無い。かつて恭太が浮かべていた自嘲の笑いである。

 恭太は自分の財布を出し、財布の中に手持ちがあることを確認すると、中年の女に話しかけた。やがて玄関の奥にいた女が立ち上がる。そして恭太は店に上がり、その女と共に店の更に奥へと姿を消した。

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男と女の間にある曖昧な言葉たち 七尾航平 @koheinanao

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