第12話

 一か月後、恭太は自分の研究室で自身の研究に勤しんでいた。ある日、自分の研究対象となっている数列について、ある規則性があることに気付いたのだ。この規則性が数学的に存在することを証明出来れば大きな結果に繋がるかもしれない。恭太は普段以上に自分の研究に対して大きなモチベーションを持っていた。ふと時計を見る。時刻は午後5時を過ぎようとしていた。今日はリリイの店に行くことになっている。なので、午後6時過ぎには大学を出なければならない。まだ、研究を続けたいところだが、研究は家に持ち帰ればよい。恭太はコーヒーを淹れ少し一息つくことにした。

 ―好き?

 恭太はあのとき、リリイが自分に対して言った言葉が耳について離れない。先月、お店に行ってからリリイからは何も連絡は来ていない。先日、恭太はリリイにアポイントを取るためリリイに連絡をとったが、帰ってきた返事はお店の空き状況だけだった。リリイはあの行為の中で、たまたま気分が盛り上がり、つい口走ってしまっただけだろうか。

 恭太が研究に没頭するようになってから、恭太は家で梨央の膝の上に頭を置くことが多くなっていた。恭太にとって、自分が不安を抱えていることを他人に見せることは恥だった。そして、性欲も恭太にとって恥である。恭太がこの自分の恥部を曝け出すことが出来るのは、梨央とリリイだけである。しかし、恭太は梨央を抱くとき、リリイを抱くときほど饒舌にはならない。そして、リリイに対しては自分が抱く将来への不安について彼女に語りはしない。

 ―二人の女に支えられてようやく俺は平静でいられる。

 恭太はまた自嘲した。もし、恭太が研究において大きな成果を上げているのであれば、恭太は自嘲したりはしないだろう。

 ―結果を出さなければ

 恭太は今ひたすらに結果を出そうとしている。結果を出している者が恭太と同様に性欲に溺れていたとしても、きっと人はそれを破天荒と呼ぶ。

 恭太はコーヒーを飲み干し、再び目の前の数式を見つめ、自分の研究に没頭し始めようとした。そのとき恭太のスマートフォンがアラームを発する。恭太は自分が大学を出なければならない時間を忘れないよう、スマートフォンにアラームを設定していたのだ。時計を見ると午後6時の少し前だった。恭太は鞄の中に自分の研究内容が書かれているノートを入れ、研究室を後にした。

 恭太はいつも通り、自転車を漕ぎリリイの店に向かっていた。リリイの店の前で自転車を降りる。

「あれ?」

 店の玄関は開き明かりも点いているが店の中には誰もいない。いつも客引きをしている中年の女性も姿がない。恭太は自分の腕時計を見てみた。時間は午後7時20分。今日は午後7時30分にリリイの店に行く約束をしていたので、約束の時間まで10分程ある。

 ―早く来過ぎたか。

 そう思い店の中を覗き込む。もしかしたら店の奥に誰かいるかもしれない。呼びかけてみようか。そう思ったが恭太は躊躇った。自分が店に呼びかけているところを誰かに見られたらせっかちな男と思われると考えたからだ。かと言って、この店の前で10分もリリイが下りてくるのを待つのも気恥ずかしい。もし待っているところを誰かに見られたら自分はこの店の女に依存している男に映ることだろう。玄関口を見ると男の靴は無かったので、恭太の前に誰かの相手をしている様では無さそうだ。10分後にまた来るかと恭太が店を後にしようとしたとき、

「あら?」

 と店の奥からリリイの声が聞こえてきた。

「ごめん。もう約束の時間?」

 申し訳なさそうにリリイが恭太に話かける。恭太はホッと胸を撫で下ろす。

「いや。俺が早く着き過ぎた。まだ、7時20分頃。」

「あ、そうなんだ。ごめんね。少し待たせたね。」

 リリイはそう言いながら少し申し訳なさそうに恭太の前で膝をついた。

「どうぞ。」

 リリイは恭太を店の中に通そうとする。

「こちらこそ、時間通りに来れば良かった。」

 そう言いながら、恭太は玄関口で靴を脱ぎ、店の中に入る。リリイの部屋に通されるまでの間、リリイが恭太に声をかけた。

「今日は仕事が早かったの?」

「いや、いつも通り。全速力でチャリを漕いだら思ってたよりも早くついてもうた。」

 恭太は遠回しに早くリリイに会いたかったことを伝える。

「あはは。」

 恭太の言葉を受けてリリイは嬉しそうに笑った。やがてリリイの部屋に入り、恭太はいつも通り、部屋の奥に敷かれている座布団に腰を下ろした。

「ありがとう、早く来てくれて。嬉しい。」

 そう言い、リリイは恭太の太腿に両手を置き上目使いで恭太を見つめる。その表情はいつものリリイの笑顔だった。恭太もいつも通りの振る舞いをしていたが、リリイがこの前来たときに言った言葉、そして、帰り際に見せた表情が気になっていた。しかし、リリイはいつも通りの接客を恭太に対して行っている。

 ―あの言葉は客に対してのリップサービスで、あの表情は俺の見間違いなのだろう

 恭太はそう考え、今日もいつも通りにリリイと過ごすことにした。

「今日はどの時間にしますか?」

 リリイは恭太の太腿から手を放し、ちゃぶ台に置いていた料金表をその手に持って恭太に見せる。

「じゃあ、30分で」

 恭太はそう言い、財布の中から金を出しリリイに渡した。

「ありがとうございます。すぐに戻ってきますね。」

 恭太から料金を受け取るとリリイはすっと立ち上がり、部屋から出て行った。

 それからの20分は普段と何も変わらない20分だった。その間にリリイは一言も恭太に「好き?」と問いかけたりしなかった。

 恭太の腕を枕にしリリイが横たわっている。

「私ね。このお店辞めるの。」

「え?」

 リリイが唐突に恭太に退職の意思を伝える。恭太は驚きリリイの方を向いた。いつもは上目遣いで恭太を見つめるリリイだが、今は恭太の脇の方を向き目を合わせようとしない。

「本当はね。先月、この前お兄さんが来てくれた時に辞めるって決めていたの。だけど、言いそびれちゃった。今日、お兄さんが来てくれて良かった。だって、直接辞めることを伝えることが出来たんだもの。もし、私がこの店からいなくなった後に私が辞めたことを知ることになったら、嫌でしょ。」

 ―先月辞めると決めていた。

 恭太はあのときリリイが見せた、悲し気な表情の理由が分かったような気がした。

「そうか。それは寂しなるな。」

 恭太がそうリリイに話掛けた瞬間、リリイはパッと笑顔になり、いつものように恭太を上目遣いで見つめだした。

「本当?寂しい?」

 リリイはどこか嬉しそうに恭太に話かける。

「うん。寂しいわ。」

 恭太のその言葉には嘘はなかった。恭太はリリイが店を辞めた後どうするのか気になったので

「辞めたあと、どないするん?」

 とリリイに尋ねた。

「実家に帰って農業をするの。」

 リリイは答える。そういえば、初めてリリイと会ったとき実家は農家をしていると言っていた。

「実家を継ぐん?」

「ううん。実家を継ぐのは弟。だけど、突然実家を一人で継ぐのは不安だから、私が暫くの間、弟に付いてほしいって実家のお祖母ちゃんから言われたの。私、お祖母ちゃん大好きなの。だから、断れなかった。けど、実家に帰るのは嫌じゃないの。また、好きなお祖母ちゃんと弟と暮らせるもの。私、美魔女なんかになりたくない。年を取ったら笑ったら皺くちゃになるお祖母ちゃんみたいになりたい。」

 恭太がリリイの方を見ると、もうリリイは恭太の目を見つめてはおらず、仰向けになり天井の方を見つめていた。先月リリイが見せた悲し気な表情はもうしておらず、どこか希望に満ちた笑顔を浮かべていた。それは今まで恭太が見たことのないリリイの笑顔だった。

 ―リリイは自分に対してこのような笑顔を浮かべることが出来るのか。俺もいつか自分に対してこのような笑顔を見せることが出来るだろうか。

 リリイの笑顔を見つめていた恭太はそのように思い、そして

「寂しくなるな」

 と再び呟いた。

 時間が来たので、恭太とリリイはシャワー室に入る。恭太の体をシャワーで流しながらリリイが

「ストレスの多い仕事よ。」

 と言ったことが恭太の印象に残った。いつもは笑顔を浮かべ、ムードを損なわないように努めているリリイだったが、今日はリリイの本来の姿を恭太は垣間見た気がした。しかし、恭太はリリイから恭太に対しての嫌悪感は感じ取れなかったので、恭太の中の寂しさは変わることはなかった。

 リリイの部屋に戻り恭太とリリイは服を着始める。

「それじゃあ行きましょうか。」

 服を着た恭太の手を取り、リリイは部屋の外に恭太を誘い出す。そして、恭太に軽い口づけをした。恭太がリリイの方を見ると、リリイは少し寂し気な表情だった。

「ちょっと待って。」

 恭太は思い出したようにリリイに話かけた。

「リリイの最後の出勤日はいつ?」

 恭太はリリイに尋ねる。

「再来週の金曜日。」

 リリイは恭太にそう答えた。再来週の金曜日。確か何も予定は無かったはずだ。

「じゃあ、再来週の金曜日。夜の8時にまた来るわ。」

「本当?来てくれる?」

 リリイは嬉しそうに恭太に返事をした。

「それじゃあ、おかあさんにその時間が空いているのか確認しなきゃね。下に降りて聞いてみましょう。」

 そう言い、リリイは恭太の手を取り再び部屋の外に恭太を誘い出した。

 リリイは玄関にいる中年の女性に恭太が希望する再来週の金曜日、夜の八時の予約が可能か確認をした。その時間帯は空いているらしい。恭太はその場でリリイを予約した。

 靴を履き恭太はリリイの店を後にしようとする。

「それじゃあ。再来週ね。」

 そう言い、リリイは恭太に対して手を振った。

「うん。」

 恭太はそう言い店を後にしようとする。リリイは相変わらず笑顔だった。そして、恭太は自分の表情が寂しげな表情に変わっていることを自覚していた。その表情をリリイに見られたくなかったので、恭太は早々に自転車に乗り、リリイの店を後にした。

 自転車を漕ぎ、恭太は自分の体が汗ばんでいることに気付いた。今日の夜はどこか蒸し暑い。二週間後には梅雨が始まっているのだろうか。リリイは二週間後にはあの町からいなくなる。今日その告白をリリイから聞いたこと以外、あの店で起きたことはいつも通りだった。リリイは確かに自分のこれからについて、希望に満ちた表情で語っていた。恭太を含めた男たちの存在など無かったかのように。

「好き?」かつてリリイは恭太にそう尋ねた。そして恭太も「好き」とリリイに返事をした。しかし恭太の存在は決してリリイを満たすものでは無かったのだろう。そして恭太にとってリリイの存在も恭太を満たすものではない。ふと、恭太が今取り組んでいる研究が頭をよぎった。自分を満たすもの、それは研究なのだろうか。それとも恋人である梨央なのだろうか。恭太には分からなかったが、いずれにせよ、恭太は自分を満たすものでは無かった己の性欲に長い時間、そして、高い費用を費やしてきた。リリイがあの町に何を求めているのか、それは恭太には分からない。しかし、リリイは自分を満たすことの出来ることを見つけ、あの町から出て行こうとしている。

 恭太は諦めかけていた。才能を言い訳にして、自分を満たす何かを探すことを。しかし自分に才能が無いことを嘆くより、自分の才能を磨いてこなかったことを悔やむべきだった。

 忘れまいとしていた恭太の二の腕にあったリリイの感触は既に消えていた。しかし、リリイがあの部屋から恭太を連れ出そうとしたときに掴んだリリイの手の感触は、何故か今、恭太の強く長く残っていた。

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