第11話

 リリイの店を出た後、恭太はそのまま真っ直ぐに家に帰った。もう梨央は帰宅しているのだろうか。恭太は家に入る前に玄関横にある窓から家の様子を伺った。窓から家の中の光が漏れている。どうやら梨央はもう帰宅しているらしい。恭太は顔を撫で回し、リリイのメイクが顔についているのなら、それを拭おうとしてみる。もし、本当に恭太の顔にメイクが付いていたら、そのようなことをしても取れる訳がないのだが、恭太はそれを分かってはいたが、念のためやるだけやってみた。手のひらを見ると何も手には付いていない。恭太がこのような心配をするのは、ほぼ思い過ごしである。恭太は意を決して玄関のドアを開けた。

「ただいま。」

 恭太は玄関先から家の中に声を掛ける。

「おかえり。」

 ダイニングの方から梨央の声がする。恭太は靴を脱ぎ、家の中に入る。ダイニングの扉を開けキッチンの方を見ると梨央は夕食の支度をしていた。恭太は素早くカバンをソファの上に置き洗面所に向かう。顔を洗い、洗面台の鏡で自分の顔をよく見てみる。思った通り自分の顔のどこにもリリイの化粧は付いていなかった。自分では気付いていないがどこかに落ち度があるかもしれない。女の勘とは恐ろしいものだ。だが、いつまでも洗面所の中にいる訳にはいかない。恭太は家に入る時と同じ覚悟で洗面所を出て、梨央のいるリビングに向かった。リビングに入り恭太はソファに腰をかける。ダイニング横のキッチンでまだ梨央は夕食の支度をしている。その姿を見て恭太は罪悪感を感じていた。それはリリイを抱いて帰ってきたことに対しての罪悪感では無く、梨央にも仕事があるのに夕食の支度をさせている罪悪感である。もし恭太が寄り道をせずに真っ直ぐ帰ってきていたら、梨央一人に夕食の支度を押し付けることはなかった。

「お待たせ。」

 そう言い梨央は野菜炒めの入った皿をダイニングのテーブルの上に並べる。

「ありがとう。」

 恭太はキッチンの食器棚の中から二人分の茶碗を取り出す。炊飯器から茶碗の中にご飯を入れ、その茶碗をテーブルに運ぶ。既にテーブルの上には野菜炒めの他に味噌汁の入った碗と箸が並べられていた。恭太はご飯の入った茶碗をテーブルに置いたあと椅子に腰掛けた。前を向くとテーブルを挟み正面の椅子に梨央は腰を下ろしていた。梨央と目が合う。その瞬間、恭太は固唾を飲んでいた。

「遅くまでお疲れ様。」

 梨央は何事も無かったかのように恭太に話しかけた。どうやら梨央は何も勘付いていないらしい。

「ありがとう。」

 恭太はそう言い、心の中の罪悪感が更に大きくなるのを感じていた。

「今日ね、」

 梨央が恭太に話掛ける。夕食のときの会話において、恭太から梨央に話掛けることは極端に少ない。梨央が恭太に話掛けてから恭太は梨央に適当に相槌を打っていた。梨央の話は恭太にとって大半が興味の無い話である。食事中、梨央しかほとんどしゃべらないので、恭太の方が早く食事を済ませることになる。

「ご馳走様。」

 恭太はそう言い、ダイニングの席を立ち、リビングにあるソファに腰を掛けた。そしてぼんやりとリリイのことを思い浮かべていた。恭太はリリイと居るとき沈黙を恐れていた。しかし、梨央と共に過ごしているときは恭太は無理に喋り沈黙を回避しようとはしない。

 ―身勝手なものだ。

 恭太は自分の身勝手さを心のどこかで恥じていた。そして梨央はその恭太の身勝手を知らぬ間に受け止めている。恭太がそのことに気付いたとき、彼は梨央とこのままずっと過ごすことになっても良いと感じていた。

 スマートフォンを眺めているとリリイから連絡が入っていた。

 ―今日はありがとうございました。また来てくださいね。

 チャットアプリにはこの一文と猫が笑っているイラストが表示されていた。さて、何と返事しようか。ダイニングの机の方に目を向けると、まだ梨央は食事をしている。ここならスマートフォンを覗かれる心配はない。1分程度恭太は考え、

 ―こちらこそ、ありがとうございました。また、遊びに行かせてもらいますね。

 この一文だけ文章を打ち、恭太はパンダのイラストを送信した。

 ―疲れた。

 恭太はそう感じながら、スマートフォンをソファの前にある机の上に置く。今日のリリイの「好き?」という言葉、そして、帰り際に見たリリイの寂し気な表情を恭太はまだ気にしていた。しかし、恭太はもうこれ以上リリイについて考える気力を失っていた。もう一度、恭太は梨央の方を見る。梨央は何も語らず食事を続けている。

「あのね、」

 梨央はまた恭太に何か話掛けてきた。そして1分程度喋り続けたが、恭太は何も聞かずに相槌を打つばかりだった。やがて、梨央も食事が終わり恭太の座るソファに腰を下ろす。

「大丈夫?」

 梨央は恭太に話掛けてきた。恭太があまりにも気のない返事を繰り返すので、梨央はどこか気になったのだ。そのとき、恭太の心の中で抱えている不安が噴き出してきた。研究者としての将来、そして、梨央との将来。

「ああ。ちょっと研究が行き詰っていて。」

 恭太がそう言ったとき、梨央は恭太の肩にそっと手を置いた。恭太は無言のまま、梨央の膝の上に自分の頭を置き目をつむる。そして梨央は何も言わずに恭太の頭を優しく撫でた。二人の部屋にまた沈黙が訪れる。恭太はその沈黙の中に安らぎを感じていた。

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