第10話

 4月9日、恭太は早めに大学を出た。電車に乗り、そして駅を出た後、駅の近くに止めてある自分の自転車に乗りリリイの店を目指す。所々、桜が咲いているが今日は肌寒かった。恭太は思い切り自転車を漕いでいるが体は温まらない。やがてリリイの店がある色町に辿り着く。日の入りから時間が過ぎ、辺りはすっかり夜である。太陽が沈む瞬間、この町は夜を待っていたかのように鮮やかな光を放ち始める。日中、まだこの町が営業を開始していない時間帯はどの店も玄関を締め切り、平凡な町並みの印象しか受けない。恭太が自分の腕時計に目をやると約束の時間まで少し余裕がある。恭太は自転車から降り、自転車を手押しし徒歩でリリイの店に向かうことにした。恭太がリリイの店に向かう途中、相変わらず各店の玄関にいる中年の女性達が恭太に呼びかける。恭太がある店の玄関の奥にふと目をやると女が腰を掛けている。その女は化粧に慣れていないのか、必要以上に頬紅を顔に付けている。そして強い蛍光灯の光に照らされ不自然に頬が赤く照らし出されている。その女は男を誘うために化粧を過剰に施しているのだろうが明らかに的を外している。目が合った瞬間、女は恭太に不自然な笑みを浮かべる。

「いい子でしょう。今日が初めてなんですよ。」

 玄関口にいた中年の女が、そう恭太に話しかけた。そう声を掛けられ再び恭太は女の方を見る。女の口元は口角を上げ笑みを浮かべているようではあるが瞳は全く笑ってはいない。そして下手な化粧が彼女を幼く感じさせる。実際に幼いのかもしれない。そして恭太はその女から全く知性を感じ取れなかった。

 この町は昼は平凡な古い町並だが夜になると一斉に姿を変える。この町を全く知らない者でも今の町の光景を見たらこの町は性風俗を業態としている店の集まりと判断出来るだろう。この町の真の姿は夜の方だ。そしてこの町は昼の方が暗い印象を受ける。それはこの町が太陽に照らし出されたとき、この町が放つ紫色の輝きが薄まってしまうからなのかもしれない。今日初めて店に上がると紹介されたこの女も、この町と同じく昼は夜の印象を全く感じさせない女なのだろうか。

 恭太はまたこの町の光景に不気味さを覚える。そして、何も答えることなく、恭太はその店をただ通り過ぎた。

「いらっしゃい。」

 リリイの店に近付いたとき、店先にいる中年の女が恭太に声を掛けた。玄関の奥ではリリイが笑顔を浮かべ座っている。先程の女と違いその笑顔には不自然さは全く感じられなかった。恭太の頭の中に渦巻いていたこの町から感じられる不気味さが消えていく。

「ありがとう!」

 そう言いリリイは素早く立ち上がり恭太を店の奥に誘い出した。

「元気でしたか?」

 客室に続く階段を昇りながらリリイは恭太に尋ねた。

「うん。元気。」

 リリイが優しく出迎えてくれたので恭太は素直に嬉しさを感じていた。そしてリリイの問い掛けに対して一言しか返事が出来ない自分の口下手さに恭太はどこか嫌気が差していた。リリイにそっけない印象を与えていないだろうか。

「変な季節よね。寒かったり暖かったり。もう、桜も咲いているのに。」

 恭太の心配をよそにリリイは会話を続けてくれる。

「うん。風邪をひかんようにせなあかんね。」

 恭太はそうリリイに返事したが、その先の会話が思い付かない。

「どうぞ」

 リリイは客室へ恭太を通した。部屋は相変わらず薄暗い。恭太は部屋の奥に置かれている座布団に腰を下ろす。恭太が座った後、空かさずリリイは恭太に話し掛ける。

「ありがとう。来てくれて!」

 そう言いリリイは恭太の胡座をかいている太腿に手を触れた。微笑みを浮かべながらリリイはいつも通り恭太を上目遣いで見つめる。

「うん。」

 恭太はそうリリイに返事をした。しかし、相変わらず適当な話題が見つからない。今日の恭太はいつもより、この部屋が沈黙で包まれることを恐れた。今二人の間で取り交わされる会話、そして、この後に行われる二人の行為において、恭太はそれが事務的な行為では無く、僅かでも心の通った行為であることを願い始めている。今は適当な話題が見つからない恭太だが、この後に行われるその行為の最中、彼はきっと饒舌になる。

「ふふ。」

 リリイはクスリと笑いスッと立ち上がる。そして座っている恭太をじっと見下ろす。リリイは相変わらず微笑んでいる。恭太はリリイに自分の心の中を見透かされている気がして、どこか恥ずかしくなっていた。恭太がリリイに抱く感情は性欲しかない。だから、幾ら考えても恭太は適当な話題が見つからない。その恭太の心の中をリリイが知ったときリリイは恭太を軽蔑するだろうか。いや、リリイの下を訪れる男たちは恭太と同じ感情しかリリイに対して抱かないだろう。例外的に一部の男はリリイに対して恋愛感情を抱いているかもしれない。しかし客からの恋愛感情をきっとリリイも求めてはいない。リリイが恭太に求めているのは言うまでもなく金だ。そして恭太自身もリリイからの恋愛感情は求めてはいない。リリイが恭太に抱かれる理由は金しかなく、そして恭太がリリイを抱く理由も金を払ったこと以外存在しないのだ。しかし恭太はリリイが恭太に抱かれる理由として、そこに性欲があることを願い始めていた。そして恭太はその自分の願いが厚かましい願いであることを自覚していた。

「どうぞ。」

 そう言いリリイはいつも通り恭太にバスタオルを渡す。

「ありがとう。」

 恭太はそのバスタオルを受け取り床に置く。そして自分の服を脱ぎ始めた。ふとリリイの方を見るとリリイも服を脱ぎ始めている。特に何か変わった様子は無い。今までリリイに抱いていた感情と、どこか異なる感情を持ち始めた恭太はリリイのいつもと変わらない様子に少しがっかりした。服を脱ぎ終わったリリイは既に体にバスタオルを巻き付けている。リリイは恭太が服を脱ぎ腰にバスタオルを巻き付けたのを確認すると

「じゃあ。行きましょうか。」

 と言い恭太をシャワー室へと誘い出した。いつもと何も変わることのない丁寧で優しげな口調だった。

 15分程経った頃、恭太とリリイは体を重ねていた。恭太が予想した通り、恭太は少しだけリリイに対して饒舌になっていた。しかしリリイの方が恭太と体を重ねているときに恭太よりも饒舌になる。リリイが恭太に対して性欲を抱いているのではないかと恭太が錯覚する程に。恭太がリリイに口付けをしようとしたとき突然リリイは

「好き?」

 と恭太に囁いた。

 恭太は戸惑った。

 好きか嫌いかと言われれば恭太はリリイのことが好きだ。しかし恭太はリリイに嫌われてさえいなければ良いと考えていたし、そして、恭太がリリイに求めているものは体以外には性欲だけである。しかし「好きでない」と答えてこの場が白けてしまうのも恭太にとっては面白くない。

「好き。」

 恭太はそう答えた。そう答えた瞬間、恭太の中に恐怖が芽生えた。この発言がやがては面倒臭いことに繋がるかもしれない。しかしその恐怖もやがては恭太の性欲が掻き消してしまう。僅かに理性を保ちながら恭太はリリイの方を見てみる。リリイに恭太の言葉が聞こえたのだろうか。表情は全く変わることなく薄く目を閉じたままである。リリイは恭太に抱かれているとき、いつも薄く目を閉じている。そして恭太と目を合わせることは無い。恭太はリリイの問い掛けも自分がリリイに言った言葉も今は忘れることにし、リリイをまた抱き寄せた。

 そこからまた五分程経った頃、恭太の腕を枕にしリリイは横たわっていた。恭太はリリイが行為の最中に恭太に問い掛けた言葉を、今再び恭太に言わないことを願っている。恭太はリリイの方へ目を向ける。リリイはいつも通りの微笑みを浮かべながら恭太の顔を見つめていた。

「どないしたん?」

 恭太の顔を見続けるリリイに対し、恭太は照れ臭さを感じたので、それを紛らわせるためリリイに自分を見つめる理由を聞いた。

「可愛い顔をしているなと思って。」

 リリイは表情を少しも変えずに恭太にそう答えた。恭太は少し照れた。もしかしたら自分は本当にリリイから好意を持たれているのかもしれない。リリイの下に訪れる他の男に対しての優越感と娼婦から愛されているかもしれない恐怖。今恭太の心の中はこの二つの感情で包まれている。恭太はリリイに対しての照れ臭さを紛らわせるためと、先程リリイから恭太に発せられた会話が続くことへの恐怖から今の話題を変えようとしている。恭太がリリイの方を見てみるとリリイは相変わらず微笑みを浮かべ恭太の方を見ている。この部屋を包んでいる沈黙に対してリリイは全く気まずさを感じている様子は無い。

「この前、友達が主催したイベントに行ったんやけど。」

 恭太は突然リリイに自分が参加した木内主催のイベントについて話を始めた。恭太は何か話題になることはないか自分の記憶を遡ってみたのだが、ほぼ大学と家を行き来しているのみの生活を送っているので、特に変わった事と言えば木内が主催したイベントに参加したことしか思いつかなかった。

「それはどんなイベント?」

 リリイは恭太に言葉を返す。そして更に深く恭太に身を寄せてくる。実際にどうかは分からないが、恭太の話に興味があることを体を使って表現しているのだろう。リリイの本心がどうであれ、自分の話に興味を示されたことに恭太は少し気を良くしていた。

「イベントと言っても学園祭に毛が生えた程度のイベント。その友達の知り合いがライブとかDJとか演劇とか、いろんな演目をやってた。」

「へえ。」

 リリイは恭太に相槌を打った。しかし、恭太は自分の話を本当にリリイが興味を持ってくれているのか少し不安になる。恭太はあのイベントのことを思い返してみる。確かにイベント自体は面白かったが、どれも内輪ネタばかりなので事情を知らないリリイからすれば、よく分からない話だろう。あのイベントの中でリリイでも楽しめる出来事は何だろうか。少し考え恭太はこう切り出した。

「まあ内容と言ったら内輪ネタばかりで分かる人にしか分からんネタばかりやったんやけど、イベントの最後にその友達が女に思いっきり頬を叩かれた。」

「何それ?ネタ?」

 リリイは恭太にそう聞いた。リリイと恭太の顔の距離は近いままだ。

「いや。最初はネタかなと思ってたんやけど、主催者のヤツが婚約してたにも関わらず、他の女と二股を掛けていたらしい。ほんで二股を掛けられていた女がそのイベントに乗り込んで来て、そいつを思いっ切り引っ叩いて、すぐに帰ってった。」

「それはビックリね。」

 リリイは恭太の話に返事をしてくれる。

 恭太は取り敢えず話をしてみたものの自分の話がやはり取り留めのない会話だと感じていた。恭太は取り留めの無い会話が嫌いなはずなのだが。特にこの話題が盛り上がることなく再び沈黙がこの部屋を包む。恭太の胸を枕に横たわっているリリイの肌の感触に恭太は気付き始めている。

「女に嘘を付くとそう言う目に合うんだよな。」

 ボソッと恭太は呟いた。無意識の内に独り言を発したことは恭太自身にとって意外な事であった。そのような気取った言葉を発するのは、目の前にいるリリイに対しての見栄なのかもしれない。

「お兄さんも私に嘘を付いているくせに。」

 不意にリリイが恭太にそう言った。

 ―嘘?俺がリリイについた嘘。彼女がいるのにリリイに対して彼女がいないと言ったことか。仮にそうだとしたら、何故リリイは梨央の存在を知っている?

 恭太は内心驚き、そう考えながら、自分の胸に顔を寄せているリリイの方を見た。リリイは相変わらず微笑んだままだ。そしていつもの上目使いで恭太を見つめている。その表情を見たとき恭太は安堵した。きっと何かの冗談なのだろう。

「君に嘘なんかつく訳ないやろ。」

 一瞬驚いた恭太だったが、もう表情は元に戻っていた。

「そうね。そうね。」

 そう言いながらリリイは顔を恭太に近付けてくる。そのとき、部屋の中に時間切れをしらせるチャイムが鳴り響いた。

「時間ね。」

 そう言い、リリイは恭太の胸から自分の顔を離した後、立ち上がり、脱ぎ捨てた自分の服の方へ向かった。

 恭太は服を着ながら今日、この部屋での出来事を思い返していた。

 ―君に嘘なんかつく訳ないやろ

 恭太はリリイに対して確かにそう言った。ある意味、その発言はその通りなのかもしれない。性欲も恋愛感情の一種とするならば、先程、行為の最中に恭太がリリイに発した「好き」という言葉ですらも嘘ではないのだ。唯一、恭太がリリイに対してついた嘘は恋人はいない、と言ったことだけである。あの時、恭太が感じた後ろめたさが、再び恭太の心の中に生じ始めた。今、恭太とリリイの間にある明らかな嘘はそれだけだ。しかし、恭太とリリイの間に真実が何一つ無いことも恭太は知っていた。

 恭太とリリイはお互いの本当の名前すら知らない。

 ―曖昧なのだ。何もかもが。そして俺はその曖昧な世界から抜け出そうとしない

「準備出来ました?」

 物思いに耽っていた恭太だったが、リリイの呼びかけに我に返らされる。目の前のリリイは相変わらず優し気な微笑みを浮かべていた。

「うん。」

「じゃあ行きましょうか。」

 恭太が返事するとリリイは恭太の手をとり部屋の外へ誘い出す。恭太が拍子抜けするほど、リリイはいつも通りの接客だった。あのとき、リリイが恭太に「好き?」と聞いたのは何だったのだろうか。恭太は店の玄関まで下る僅かな時間の間にリリイがその理由について、何かを言うのではないかと複雑な心境だったが、何も語られることなく、二人は店の玄関に到着した。

「また来てくださいね。今日はありがとうございました。」

 リリイは恭太にそう言い、靴ベラを恭太に渡した。

「ありがとう。」

 恭太はそう言い、リリイから靴ベラを受け取り靴を履いた。靴紐を結んでいるとき、恭太はリリイの方を見た。リリイは何も言わずにいつもの微笑みを浮かべて恭太の方を見つめている。靴紐を結び終え、恭太は立ち上がり店を後にしようとした。

「またね。」

 恭太がそう言ったとき、リリイがいつも浮かべている微笑みが彼女の顔から消えた。いや、口元は微笑みを浮かべ、口角は僅かに上がっているのだが、目の表情はどこか寂しげだった。その表情は恭太がこの店に来る前に見た、今日からこの商売を始めると言われていた女の表情と同じだった。

「また、来てくださいね。」

 そう言い、リリイはそう言い恭太に手を振った。

「うん。」

 恭太はそう言い自転車に乗り、店を後にした。

 振り返り、店の方を見ると、まだリリイが居た。リリイはまだ、同じ表情のままだった。

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