第9話

 木内主催のイベントから二週間が過ぎ、恭太は大学で新学期の授業の準備に取り掛かっていた。なので恭太は少し忙しくなり始めている。そして梨央からの恭太への結婚に対しての要望は日増しに圧が増してくる。

 そんな中、恭太へ木内から花見の誘いがあった。どうやら恭太の予想通り、先日の件は木内の評判を落とすことにはならなかったらしい。この花見は先日のイベントと同様に沢山の人が集まり盛大に行われるだろう。木内の誘いに対して恭太は参加を保留すると返事をした。保留としたのは花見に対して乗り気がしなかった訳では無く本当に忙しかったからだ。木内とアプリを通じて連絡を取り合っていたとき、恭太はリリイと連絡先を交換していたことを思い出した。彼女と連絡先を交換してから一度もリリイとは連絡を取っていない。そう思いながら恭太は机の上にあるカレンダーを見た。再来週になれば時間が作れるか。いつもの欲望が恭太の頭を覆い始めた。午後6時に研究室を出たとすると凡そリリイの店に着くのは午後7時半頃だろう。そのような計算を頭の中で行いながら、リリイへ送るメールの内容を恭太は考えていた。

 ―こんにちは。4月9日の夜7時半にお店に行きたいのですが、空いてますでしょうか?

 恭太はこのような文章を打ちリリイに送信しようとするが思い止まる。少し冷たい印象を与えないだろうか。そう思いながら恭太は再び文章を考える。

 ―こんにちは。連絡先ありがとうございました。すぐに連絡が出来なくてごめんなさい。早速ですけど4月9日の夜七時半に遊びに行こうと思っていますが、空いていますでしょうか?返事頂けたらうれしいです。

 このような文章を打ったあと、恭太は自分の文章を読み返す。長くなったが少しは先程感じた冷たい印象は薄れただろうか。これ以上考えても無駄だと思ったので恭太は送信しようとするが、また躊躇してしまう。

 ―この文書を送信した後、変なことにならないだろうか。

 この連絡をきっかけにリリイに付きまとわれること、リリイに付きまとわれた結果、現在の同棲生活が破たんすること、リリイの背後には悪い男たちがいて彼らに恐喝されること、様々なリスクが恭太の頭をよぎる。しかし、それらの不安は恭太がリリイへ連絡を取らないようにさせることには至らなかった。欲望に捉われ冷静な判断が出来なくなってしまったのか、恭太は自己分析を試みようとしたが、自己分析が完了しないまま気が付けばリリイへ先程の文章を送信していた。

 リリイへ文章を送信した後、恭太は研究室に備えつけられている時計を見てみる。リリイへの文章を打ち始めてから30分程度経過していた。今日は大学に来てから何もしていない。恭太は相変わらず自分の集中力の無さに愕然とする。この30分の遅れを取り返そうと思い机の上に置かれた白い紙を見つめる。何から手を付けようか。新学期の講義内容の作成、次回の学会に向けた論文の作成、その他大学の事務処理など、やらなければならないことを恭太は思い浮かべる。本来であれば、これらの仕事に逸早く取り掛かるべきなのだが恭太は自分のスマートフォンをチェックしてしまう。先程リリイに送った文章はアプリの画面上でリリイが読んだことを示す既読のマークは付いていない。リリイからの返事が気になり仕事が手につかない。恭太は取り敢えず机の上に置かれたペンを握る。再び時計を見ると更に30分時間が経過していた。大学に来てから一時間経過したが今日は何も成果が無い。ここまで来ると流石に恭太も業務に集中せざるを得ない。頭を使わずに出来そうな大学の事務処理から手を付けることにした。

 一時間経ち大学に申請しなければならない事務業務が全て完了した。恭太はまたスマートフォンを確認する。相変わらずリリイが恭太の連絡を読んだ形跡は見られない。

 ―色町にある店の営業時間は深夜12時までだから、きっとリリイはまだ寝ているのだろう。

 恭太はそのようなことを自分に言い聞かせていた。時計を見ると時計は午前11時を指している。リリイが出勤する時間を考慮すると彼女から返事が来るのは夕方頃だろう。恭太はそのように考えることにし、次は新学期の講義内容を作成し始めた。講義で使用する教科書に手に取り内容を確認していると研究室のドアを叩く音がした。大学は春休み中なので大学の職員か教員が訪ねてきたのだろう。もしかしたら大学の職員が事務局に提出しなければならない書類を催促しにきたのかもしれない。そう思いながら恭太は自分の研究室のドアを開けた。そこには白川が立っていた。恭太は少し混乱した。今日は春休みなので大半の学生は大学には来ていないはずだ。それに成績を見る限り白川はそれほど勉強熱心な学生では無いように思われる。

「講義の質問?」

 恭太は白川がそれほど勉強熱心ではないと思いながらも、もしかしたら、学業に身を入れ始めたのかもしれないと思い、訪問の理由を聞いてみた。

「ううん。今日ちょっとサークルの用事があって大学に来てん。もうじきお昼やからランチでもせえへんかなと思って訪ねたの。」

 白川に言われ、恭太は研究室の時計を見てみる。時計は11時20分頃を指していて正午まではまだ時間がある。

「まだ、やらなければならないことが残っているから。」

 そう言い恭太は白川からの誘いを断ろうとした。

「そうか。まだ昼前やし。」

 恭太の後方を見て白川はそう言った。研究室の入り口から恭太の研究室に掛けられている時計が見える。白川はその時計を見て昼食をとるには少し早い時間であることに気付いたのだろう。

「うん。ほな仕事に戻るから。」

 恭太はそう言い研究室に戻ろうとしたとき

「ちょっと待って。」

 と白川に呼び止められた。

 恭太は振り返り白川を見る。いつもなら恭太の目を見つめてくる白川の目は泳いでいた。そして恭太は今日の白川が何故かとても幼く見えた。

「先生は彼女がいるんですか?」

 不意に白川にそう尋ねられたとき恭太は少し驚いた。質問の内容に対してでは無い。いつもは馴れ馴れしく話しかけてくる白川が今回は恭太に対して敬語を使ってきたことに対して恭太は驚いた。

「いる。」

 恭太は即答した。恭太は白川の方を見る。先程まで泳いでいた白川の目はもう泳いではおらず、恭太の目を見つめていた。恭太はリリイに見つめられたとき何かしら照れを感じる。しかし今、恭太は白川が幼く見えていたので彼女に見つめられていても恭太は何も感じない。恭太の目を見つめながら白川は話し始めた。

「そう。あの、私、先生のことが好きなの。だけど彼女がいるなら付き合うのは無理やね。」

 白川の言葉はどこか期待を含んでいるように聞こえる。白川は恭太に梨央と別れてもらい、白川と付き合い始めることを期待しているのかもしれない。

「無理だ。そしてもうこの話はよそう。」

 また恭太は即答だった。

「けど先生のことは好きでもいい?」

 白川は恭太にそのような申し入れをしたが、恭太には白川の申し入れが彼女にとって何のメリットがあるのかさっぱり分からなかった。恭太は自身が勤める大学の生徒と関係を持つつもりは無いので白川と付き合う可能性は無い。だから白川にとって恭太を想い続けることは彼女が他の恋愛に向かう機会を失うことになる。

「やめた方がええ。」

 恭太は白川にそう伝えた。その言葉は自分の考えしか含まれておらず、白川を思い遣った言葉ではなかった。

「そう。」

 力無く白川は恭太に言い、その場を後にした。

 昼過ぎ恭太は大学の売店で弁当を買い自分の研究室で昼食を摂っていた。先程の白川とのやり取りを思い出す。それが実らない恋だとしても好きになった人を好きであり続けたいと言う白川の感情を恭太は分からなくはなかった。かつては恭太も梨央に対して一途な恋愛感情があったのだ。しかし今の恭太にはたった一人の人を好きであり続けることが崇高であるとは思えなかった。そう考えるのは自分はリリイと言う梨央でない他の女に溺れかけてる自分を否定したくないからなのかもしれない。恭太が白川を振ったのは彼女が自分が勤める大学の生徒である事も理由の一つだった。もし彼女がこの大学の生徒で無かったら自分はどうしていただろう。恭太は先日のイベントで木内を殴り付けた女のことを思い出していた。もしかしたら、恭太は白川からの申し入れを受けいれてたかもしれない。しかし恭太は梨央とは別れはしないだろう。そして先日の木内の様にいつかは白川に二股を掛けていたことが発覚する。そのとき白川はあのときの女と同じように恭太を軽蔑し怒り殴りつけるだろう。好きであり続けたい、と言ったにも関わらず。好きであればそれで良い、と彼女は言ったが所詮人は、自分の愛情に対して何かしらの見返りを求めてしまう。だが白川が恭太に抱く恋愛感情はそれでも純粋なのだ。そして白川も恭太から純粋な恋愛感情を向けられることをどこかで期待している。しかし、もし性欲と言う感情が不純であるのなら、恭太が梨央以外の女に求めているのはその不純な感情である。なので、白川からの純粋な好意は迷惑以外に他ならない。

 ―今日学生に交際を求められたことは予め事務局に報告しておこう。

 やがて恭太は自分の保身について考え始めていた。

 午後3時を過ぎたころ、恭太は新学期の講義内容を作成していた。午前中はリリイからの返信について気が散り仕事に集中出来なかったが午後は何故か仕事が捗った。白川からの告白が衝撃であったので、リリイから返信が気にならなくなったのだろうか。恭太は机の上のコーヒーを飲み少し息抜きをしながらそのように考えていた。

 ―いや、実際は午前中を無駄に過ごしてしまった焦りなのだろう。

 もし、恭太が性欲に捉われこのまま仕事に身が入らなかったらどうなるか。言うまでも無く失業だ。今の恭太にとって自身を突き動かす原動力は失職への恐怖しかなかった。

 コーヒーを飲みながら恭太は自分のスマートフォンを手に取る。チャットアプリに自分への連絡が入っていた。リリイだ。恭太は早速リリイからの返事を確認した。

 ―連絡ありがとうございます。嬉しいです!4月9日の夜7時半は空いています!お待ちしてますね。

 リリイからの連絡はこのような内容だった。恭太はリリイからの文面を確認した後リリイに返事をしようか迷った。既に用件は済んでいるが、何も返事をしないとリリイに恭太はリリイに対して体以外に用件が無いと思われると考えたからだ。恭太はリリイに返事をしようと決め返信内容を考える。恭太は焦っていた。自分が想定していた息抜きの時間を超過していたからだ。リリイに早く返事しなければ今日やると決めていたことを達成出来ないかもしれない。そう思いながら恭太はスマートフォンの画面をタップした。

 ―連絡ありがとうございます!それでは4月9日に伺いますね。楽しみです!

 恭太は自分が作った文書があまりに短かったので少し拍子抜けした。他に何か付け加える必要は無いか考えてみたが、気が急いてしまい何も思い付かない。結局、恭太は何も付け加えることなく先程の文書をリリイへ送信した。

 リリイへ返信した後、恭太はまた自分の仕事に取り掛かる。恭太は先程とは違い冷静であった。仕事に追われているとき冷静になるためには仕事に集中するしかない。恭太はそう考えていた。そのまま三時間くらい過ぎた頃、恭太は席を立ち研究室に据え付けられているポットから自分のコップにお茶を注いだ。この調子で行けばあと二時間くらいで今日の仕事は片付くだろう。帰りが遅くなることを梨央に伝えるため恭太はスマートフォンを手に取った。チャットアプリを開くとリリイから連絡が来ている。確認すると猫とありがとうと言う言葉が描かれたイラストが表示されていた。このチャットアプリには自分の意思を伝えるために会話の相手の画面にイラストを表示させる機能がある。恭太はもうこれ以上、リリイと会話を続ける気は無かった。リリイは会話の締めのため、このイラストを送信したのだろう。恭太はこの会話が終わったことに安堵した。

 スマートフォンの画面に表示されるリリイとの会話を恭太は見返した。何と自分の発言が虚飾に満ちていることか。紳士的に発言したつもりでも恭太がリリイに伝えたかったことは「ヤらせろ、金は払う」だ。しかし恭太はその感情がリリィに伝わらないように言葉を選び文章を作っていた。自分の不純な感情を誰にも見られたくないのだ。そのような虚栄心を恭太は持っていた。見栄を張る対象はリリイも例外では無い。しかし、どれだけ自分の性欲を隠したところでリリイは恭太がリリイの下を訪れる理由は分かっている。

 ―娼婦との会話ほど欺瞞に満ちたものはないな。

 恭太はそう考え、自分に対して苦笑いを浮かべた。

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