第8話

 3月8日、恭太は木内に誘われたイベントに参加するため、大阪市内のライブハウスを訪れた。今日のイベントの会場となるライブハウスは大阪市西区の商業エリアにあり、恭太の家からも程近い。カフェやアパレルショップが立ち並ぶ通りにあるビルの地下一階にそのライブハウスはあった。ビルの正面には今日恭太が参加するイベントの看板が立てられていたので恭太は迷うことは無かった。看板の横にある階段を降りるとイベントの受付がある。恭太は木内から購入したチケットを受付に渡し、受付の横にある扉を開けた。そのライブハウスはイベント会場の隣にバーラウンジが併設されており、そのバーラウンジを通り抜けなければイベント会場に辿り着けない。バーラウンジには人で溢れており、恭太は通り抜けるのに難儀した。恭太はイベント会場に入り、自分の腕時計を見た。時間は午後5時半過ぎ。まだ、イベント開始まで30分程度あるのに、会場には4、50人程度の人がいた。大凡、このライブハウスのキャパシティは百人程度。バーラウンジの人達がイベント会場に入るとこのイベント会場は少し窮屈になるだろう。

 恭太はこのようなイベントには何回か参加したことがある。学生時代、友人が所属しているバンドのライブに誘われて何度かライブハウスを訪れたことがあった。その友人のバンドは人気が無かったので、いつも恭太が訪れるライブハウスは閑散としていた。

 ―大したものだな。こんなに人を集められんなんて。

 恭太は井上の営業力、集客力に感心した。

 ライブハウスの中を見渡すと何人か恭太の友人がいた。彼等のところへ行こうかと恭太は思ったが、どの友人も恭太の知らない人と会話していたので、恭太は遠慮してしまい、遠くにいる友人と目が合った時、会釈だけすることにした。ライブハウスの中にいる人達は、みんな個性的な格好をしていた。それは服装だけでは無く、髪にパーマをあてたり、髪の色を染めている者や、何人か体にタトゥーを入れている者までいる。彼等の年齢が若いかと言うとそうではない。恭太が見る限りでは、恭太の年齢と同じくらいか、それよりも上の世代そうである。恭太と同世代以上であるなら明らかに学生では無く自立してなければならない。一体彼等は何を生業としているのか。ぼんやりと物思いに耽っていると、先程目が合った友人の一人が恭太の元にやって来た。

「井上くんも来てたんや」

 そう言い、その男は手を振りながら恭太の元に近づいてくる。

「川野さん、こんにちは。いや、こんばんはか。」

「いや。どっちでもええやろ。」

 川野は恭太の細かさにツッコミを入れる。川野は恭太の飲み友達で恭太より歳は二つ上である。木内が勤めているバーで良く顔を合わせる。川野は今日もこのライブハウスの観客同様に個性的な格好をしていた。髪は側頭部のみを短く刈り込み、その他の箇所は長く伸ばしパーマをあてている。服装はストライプのシャツにベストを合わせ、そのベストには高級そうなガラス細工のブローチが付けられている。

「そう言えば聞きました?木内のこと。」

 恭太は不意に川野に話しかけた。「木内のこと」とは木内の結婚のことを指す。恭太は木内から彼が結婚することは口止めされていたが、川野は木内の親しい友人なので、木内の結婚を把握していると考えていた。

「ああ。身を固めるって話やろ。」

 川野は表情を変えずに恭太に答えた。どうやら川野も木内の結婚を把握しているらしい。そして川野はステージの方向を見ながら続けて言った。

「しかし、どうなるんかね。」

「何がです?」

 川野は良く思わせぶりな発言をする。恭太は不意に川野から問いかけられたので思わず返事をしたが、それ以上詮索をすることはしなかった。親が会社経営者とは言え、まともに働いているか不明の男が家族を養っていけるのかと言うことだろうか。その点に関しては恭太も同じである。何とか大学の講師として生計を立てられてはいるが、将来自分が研究者として人並みの生活を送られているかは分からない。恭太は他人の人生について考える余裕は無いし、他人の人生について何かを語る資格は無いと思っていた。

「まあ、何とかなるんとちゃいますか。彼は彼の親が経営している会社で働いている訳ですし。」

 恭太は木内の今後について楽観視していること川野に伝えた。自分のことでは無いが、恭太は今悲観的な事は考えたく無かった。自分の将来と重ねてしまうからだ。恭太が川野に返事した後、川野は不思議そうな顔をしながら恭太に顔を向け恭太に言った。

「井上くんは知らんの?」

「え?」

 恭太は最近、木内とはそれほど密接に関わっていない。川野は恭太が知らない木内の問題について何か知っているのだろうか。

「いや。何のことだか。最近彼とは会えてないので。」

 恭太は川野に自分が木内の状況について知らないことを伝えた。そして、これ以上、木内の状況について詮索することはしなかった。自分自身にも問題を抱えていたからだ。それは具体的な問題では無く、漠然とした未来への不安ではあったが。

 恭太が周りを見渡すとライブハウスの中には人が集まりだしていた。そして、恭太が予測した通り少し会場は窮屈になる。やがて会場の照明が消え、木内主催のイベントが始まった。

 ライブハウスのステージにスポットライトが当てられ、舞台袖から木内が登場する。木内はスポットライトに照らされたマイクの前に立ち、開会の挨拶を始めた。

「今日は皆さん。足元の悪い中お越し頂き、あざまーす!」

 ―足元の悪い中?

 恭太は外の様子を思い返したが、今日は晴れで雨は降っていない。恐らく木内が何かの催しに行ったとき聞いたスピーチをそのまま言ったのだろう。

「今日は晴れてんで!」

 会場から誰かが木内に野次を入れた。会場が笑いに包まれる。ステージを見ると木内も恥ずかしがること無く笑っていた。さっきの発言は狙って言ったのか、それとも素で言ったのか。十中八九、後者だろうが何れにせよ今会場は和やかな雰囲気になっていた。

「まあまあまあ。今日はオモロイバンド、オモロイ演者を集めたんで、皆さん最後まで楽しんでいってください!」

 木内がそう言うと会場から拍手が沸き起こった。拍手の大きさが、観客の持つこのイベントへの期待を示している。木内は観客からの拍手を受けながら、ステージから出ていった。

 木内から聞いていた通り、イベントでは寸劇やバンド演奏、弾き語り、多種多様な演目が催されていた。そして、どの演目の出演者も決して上手くは無かった。しかし観客は端から出演者達の演奏や演劇に対して上手さを求めてはいない。むしろ演奏力や演技力に対して拙さを求めているようだった。出演者が舞台で演奏を間違えたり寸劇で次のセリフを忘れたりしたとき、観客は出演者に対して喝采を贈る。出演者の中には恭太の知り合いも何人かいた。自分の知り合いが舞台上で拙い演奏を行い、演劇のセリフを忘れることは確かにどこか可笑しかった。何故、可笑しいと感じるのだろう。それは、舞台上で演奏や演劇のセリフを忘れることは本来有り得ないからだ。出演者達は皆その滑稽な状況を巧みに扱い、拙い内容ながら、自分の出し物を一つの演目としてやり遂げていた。バンドが歌う歌詞や寸劇の台本の内容は内輪の人間の悲喜劇を描いたものが殆どであった。例えばある男が女に安くは無いが、生活に支障をきたさ無い程度の金を貢いだ挙句、その女に捨てられてしまう。残念な出来事だが後々、笑い話になるような内容を彼らは歌い演じていた。また、それらは決してその場で初めて暴露された内容では無く、どれも演目の題材にされた本人達が木内の勤めるバーで自ら告白した内容であった。この会場は殆ど木内の知り合いで占められていたので、今回のイベントで演目と言う形で公表されても問題は無さそうだった。

 イベント中、会場の中の人達のほとんどは酒を飲み、ステージに向けて歓声を上げ冗談として受け取れるヤジを飛ばす。ライブハウスの中は暗くて見辛いが、もし、この会場が陽の光に照らし出されたなら、そこにいるのは、かつて若者だった者達の集団だろう。そして、彼等は若い頃など既に過ぎてしまったことを忘れている。いや気付いていないだけなのかもしれない。

 彼等と同世代の大人達が、この有り様を見たとしたら大人気無いと思うだろう。恭太はそう思いつつも、このイベントを楽しんでいた。ここでは自分と同世代、あるいは、それ以上の年齢の人たちが意味の無いことで笑い、騒ぎ、大いにはしゃいでいる。恭太はその様子を見て清々しさを感じていた。きっと彼等は恭太と違い自分の生き方を見つけているのだ。もしかしたら彼等もいつの日か遊んでいただけの日々を後悔する日が来るかもしれない。しかし後悔の無い人生など、どこにも存在しないのだ。

 全ての演目が終わり、会場が明るくなった。木内が今回のイベントについて何かスピーチをしている。イベント開始の時と同様に拙いスピーチだった。しかし相変わらず観客は木内に対して拙さを求めている様で、彼のスピーチに野次を飛ばし、そして笑っていた。恭太も他の観客と同様に笑っていたが、木内が何を言っていたのか、恭太はさっぱり覚えていない。そもそも木内の言っていることに意味が無い、と言う理由もあったが、明日からまた恭太はまた研究者として過ごさなければならない。このイベントが終わりを迎えようとしていたとき、恭太の頭の中に忘れかけていた将来への不安と恐怖が仄かに姿を表した。その恐怖を自覚したとき、恭太は木内が言っていることが耳に入らなくなった。

 改めて恭太はこの会場の中を見渡してみる。イベント会場の中の者達はイベント中のときと変わらず笑い、他の誰かと会話をしている。その中には、ステージから降りてきた木内と川野の姿があった。まるで、このイベントがまだ終わらず続いているようだ。

 ―こういう生き方も良いかもしれない。

 恭太の胸の中には彼らに対しての羨望の感情が芽生えていた。その感情は恭太が岸野に対して抱く感情に近かった。そして恭太はこの会場の中で孤独を感じていた。恭太には目の前にいる彼らの輪に飛び込む勇気は無い。かと言って、岸野のように己の才能を信じることが出来ない。後悔することを恐れ、時間だけが過ぎていく。恭太は心置きなく楽しんでいる人たちの中でただ立ちすくむだけだった。

 イベントが終わって暫く経ったが、まだイベント会場の中は人で埋め尽くされている。その人の中を掻き分けながら、木内の元へ進んで行く女の姿があった。女の顔は無表情であったが、どこか思いつめていることが感じ取られる表情である。明らかに、このイベント会場にいる人たちとは違う様子だったので、恭太はその女に対して違和感を感じ、彼女の行動を観察していた。その女が木内の肩を叩く。木内が振り返りその女を見た瞬間、木内は何か驚いたような表情を見せた。次の瞬間、その女は力いっぱいに木内を殴りつけ、足早に会場を後にした。女が会場から去るとき、人の群れは明らかに彼女を避けていたので、女は素早くこの会場から去ることが出来た。一瞬会場が静まり返る。恭太は驚き木内の元に近付いた。恭太は木内の傍にいた川野と目が合ったので、川野にこの状況について質問をした。

「川野さん。さっきの女は誰なんですか?」

 川野は特に驚いた様子は無い。不自然な位、冷静だった。そして、普段通りの口調で恭太に答えた。

「ああ。あの子は木内が働いているバーの隣のバーでバーテンやっている子。去年の夏、木内と一緒に旅行に行っていい感じになっていたんだけど、そのとき木内はもう婚約をしていて、それが最近になってあの子に知られたらしい。多分、今日は頭に来てここにやって来たんやろう。」

 ―木内は二股を掛けていたのか。

 その事実を知らされても恭太は特に驚きはしなかった。木内は優柔不断な奴だからあり得ると感じていた。そして恭太は今の状況が理解出来たので落ち着きを取り戻した。

 それにしても川野は冷静過ぎる。

「川野さん。もしかして、今日、彼女がここに来ること知っていました?」

 恭太は川野に自分の疑念について問い掛けた。

「ん?ああ、今日ここに来ることまでは知らなかったけど、いつか木内を殴りに来るということは人伝えに聞いて知っていたで。彼女が友達にそう言っていたらしい。今日、彼女の姿を見たとき、今日木内を殴りに来たんやと思ったわ。」

 川野は淡々と恭太に話した。そこまでの情報を掴んでおきながら木内に伝えなった川野に対して、恭太は共感を覚えていた。少しでも正義感がある者なら木内にお灸を据えたくなる気持ちは分かる。この状況は木内にとって因果応報と言えるだろう。会場の中は先程までとは全く異なり静まり返っている。小声で川野と同じ解説をしているらしい囁き声が恭太の耳に入ってきた。どうやら木内が二股をしていたことは、木内の複数の関係者には、知られていたことだったらしい。その情報がライブハウス内に伝わりきったころ、会場の中は先程と同様に笑い声が聞こえてきた。木内の方を見ると複数の人から今回起きた事柄について問い詰められている。しかし川野を含め木内を囲む人達は皆、木内に対して蔑みや怒りの表情はしておらず楽しそうに笑みを浮かべている。誰も木内に対して悪意を持っていないことが彼らの表情から読み取れた。誰しもが今回起きたことについて木内をイジっているのだ。それは今日行われた演目に対して観客が木内に対して発した野次と実によく似ていた。ここにいる人間の大半は一般的な大人が有しているはずの常識というものを有していない。先程起きた出来事を一つの見世物として捉えているのだろう。木内が女と二股を掛けていたこと、そして、女に殴られたことは当分は笑い話として語られ、一か月先にはきっとみんなは忘れ去ってしまう。今回、木内が失態を犯したからと言って、木内の評判は下がらないし、木内が勤めているバーに彼らはまた顔を出す。彼らにとっては木内がどの様な人間でも面白ければいいのだ。そして、木内は彼らにとって面白いことをよく起こす。

 恭太はまだまだこの騒ぎは続きそうだと感じた。

 ―これ以上ここにいると明日に響きそうだ。

 恭太はそう感じたのでもう帰ることにした。

 ―ここには自分の居場所は無いな。

 恭太はライブハウスを出るときそのように考えていた。

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