第7話

 研究集会が終わった後、恭太は色町に向かっていた。帰りの電車の中で岸野の研究に対する姿勢を思い浮かべながら恭太は窓の外に見える大阪の夜景をぼんやり眺めていた。岸野は他のことに目もくれずひたすらに自分の研究を推し進めている。彼が自分の研究の手を止めるのは家族と過ごすときだけだろう。それに比べ自分は学会が終わった途端に女を買いに行こうとしている。欲の無い岸野には有り余る才能があり、欲深い自分には中途半端な才能しかない。

 ―身の丈を超える欲望はいつか自分自身を滅ぼす。

 恭太はそう考えたが、その考え通りに行動出来ない自分に対して、嫌悪感を覚えていた。

 恭太は色町の最寄り駅からリリイのいる店を目指し歩いた。色町に入ると相変わらず町全体は紫色の光に包まれている。恭太が色町にある店を通過する度に、店先にいる老婆が「お兄さん」と言いながら手招きをする。玄関の中央には不自然な作り笑いを浮かべる女がどこか虚な目で恭太を眺めている。

 ―虚な目。

 今までは恭太がこの町を通過するとき、この町の女たちが不自然な表情をしているとは思っていなかった。何故か今日はこの町の女たちの表情がいつもと違って見える。快楽へ自分を誘い出すその笑顔が、今日は自分を破滅へ導く笑顔に見える。恭太は紫の光に浮かぶ女たちの笑顔を見て仄かな恐怖を抱いた。

 やがて恭太はリリイのいる店の前に着いた。いつも対応してくれる中年の女が恭太に声を掛ける。

「あ、お兄さん。」

 店の中にリリイは居なかった。

「ユリちゃんね。今、他のお客さんが来て上がってるの。」

 申し訳無さそうに中年の女が恭太に話し掛ける。もう、恭太がリリイを指名することは、この中年の女にも知られているのだろう。

「あとどれくらい掛かりますか?」

 恭太はリリイが空きになる時間について中年の女に訪ねた。

「さっき入ったところだからあと20分くらいです。どうします?ユリちゃんが降りてくるまで店の奥で待ってますか?」

 中年の女にそう言われたとき、恭太は自分の腕時計を見た。今、時間は夜の9時半。恭太が店を出るのは10時半頃になるだろう。

 ―梨央には帰りが遅くなることは伝えているので許容範囲内か。

 そのような考えを頭の中で巡らし恭太は

「ほな、待ちます。」

 と中年の女に返事をした。

「ありがとう。こちらです。」

 中年の女は立ち上がり、恭太を店の奥へ招いた。

「あ、少し待って。」

 そう言い恭太は自分の靴を慌てて脱ぎ始めた。恭太が自分の足元に目をやったとき、玄関の端に男の靴が見えた。今、リリイが相手している男の靴だろう。明らかに男の存在を確認出来る痕跡を確認したとき、恭太の心の中に嫉妬の感情が芽生えていた。

「こちらで待っててくださいね。」

 恭太を一階にある待合室に通した後、中年の女は部屋を出て行った。恭太は部屋のソファに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。腕時計を見ると9時45分。リリイが降りてくる時間まであと15分くらいか。部屋に備え付けられていたテレビに目を向けたとき、天井からリリイの声が聞こえた気がした。この部屋の真上がリリイの部屋なのだろうか。テレビの音量を消し耳を澄ませる。何も聞こえない。気のせいだったのだろうか。時間的に考えると、まさに今、リリイは恭太以外の男の相手をしているところだ。リリイは今、どのような感情で男の相手をしているのだろう。まだ二回しか彼女に会ったことがないが、嘘が無いように見えるあの笑顔が他の男に向けられていないことを恭太は願っていた。

 待合室の襖をノックする音が聞こえる。恭太がソファから身を起こした瞬間、リリイが襖を開け待合室に入ってきた。

「ごめんなさい。待たせてしまって。」

 襖を開けてリリイは真っ先にそう言った。

「いや。」

 恭太はそう言いリリイを眺める。リリイは少し慌てた様子である。しかし、リリイの服装も髪も化粧さえもこの前あったときと全く変わりなく、僅かな乱れも恭太は感じなかった。たった今まで別の男の相手をしていたはずなのに、リリイからは全く別の男の影が感じられない。

「ありがとう。今日も来てくれて。」

 リリイは恭太の太腿の上に手を置き、恭太に顔を近づけそう言った。リリイは不自然さを感じられない笑顔を浮かべていた。リリイに見つめられたとき恭太は意図的に作り笑いを浮かべた。

「うん。」

 恭太は戸惑いながらもリリイにそう返事した。

「それじゃ、部屋に行きましょうか。」

 リリイは相変わらず溌剌と恭太にそう答え、彼の手を取り、二階にあるリリイの部屋へ誘い出した。

 ―この後、俺以外の男が店に来たとき、リリイは俺の存在を全て消して、その男を自分の部屋に迎え入れるのだろうか。

 リリイの手の温もりを感じながら恭太はそう考えていた。

 30分後、シャワー室から戻ってきた恭太は服を着始めた。目の前には裸のリリイが足に保湿クリームを塗っている。その姿を恭太はぼんやりと眺めていた。ふとリリイの視線が恭太に向けられ一瞬、二人は見つめ合った。

 恭太は何か話をしなければならないと思い、ふとこんなことを聞いてしまう。

「君には彼氏がいるん?」

 その言葉を発したとき、恭太はすぐさま後悔した。このような職業をしている女に恋人などがいるはずがない。仮にいたとしても、その背景にはきっと複雑な事情が存在している。リリイの心証を悪くしたのではないか。

 しかし、リリイは恭太を見つめながら表情を少しも変えなかった。相変わらず笑みを浮かべている。

「ううん。いない。別に欲しいとも思わないし。気になるの?」

 そう言い、リリイはどこか嬉しそうに恭太に問いかけた。

「うん。ごめん。何と無く気になって。」

 恭太は自分の発言を申し訳ないと思いながら、リリイに返事した。

「そうなんだ。」

 リリイはそれ以上、恭太の発言について詮索することはしなかった。リリイは相変わらず笑顔のままだ。恭太がその笑顔に少し安堵したとき、リリイは恭太に問いかけた。

「お兄さんには、恋人がいるの?」

 リリイにそう尋ねられたとき、恭太の頭の中に梨央の顔がよぎった。恋人はいる。はっきりと自分の恋人の存在を認識しながら恭太は

「いない」

 とリリイに答えた。

 少しの後ろめたさを感じながら恭太はリリイに嘘をついた。嘘をついたのは恋人がいながら買春をしている自分についてリリイから軽蔑されたく無かったからだ。

「そうよね。彼女がいる人がこんなところには来ないわよね。」

 リリイにそう言われたとき、恭太の後ろめたさはより一層深くなった。その後ろめたさが梨央に対してのことなのか、それとも、リリイに対してのことなのか、恭太には分からなかった。

「ねえ。このアプリ持ってる?」

 恭太が次の話題を探していたとき、不意にリリイが恭太に話しかけてきた。リリイは恭太に自分のスマートフォンを見せる。そこには恭太が普段から使っているチャット用のアプリが表示されていた。

「うん。持ってる。」

「じゃあ。連絡先を交換しようよ。」

 リリイはそう言い自分のスマートフォンを触り画面にQRコードを表示させた。恭太がそのQRコードを自分のスマートフォンで読み取れば恭太とリリイは連絡先を交換することになる。

 恭太の心の中で期待と戸惑いが交差する。リリイは何故、自分と連絡先を交換しようとするのだろう。それは恭太とこの店以外でも関係を持とうとしているのか。制限時間無くリリイと関係を持てることは良い話だが恭太はリリイより性欲以外の感情を受け入れる気は無い。もし恭太に対してリリイが好意を寄せようとしているのであれば、恭太にとってそれは迷惑な話である。リリイの目的が恭太には分からなかったので、恭太は彼女と連絡先を交換するのを躊躇していた。

「ちょっと待ってね。」

 そう言い、恭太はリリイのQRコードを読み取るのに手間取っているふりをした。リリイはその様子を眺めながら、恭太に語りかけた。

「今日みたいに他のお客さんが来ていたら、お兄さんを待たせることになるでしょう。このアプリで予約を受け付けるので来たくなったら連絡してくださいね。」

 ―あくまで業務用か。

 僅かな間、リリイに好意を寄せられているかもしれないと考えた自分に対して、恭太は自嘲し苦笑いを浮かべる。

「どうしたの?おかしい?」

 恭太の心情を全く知らないリリイが恭太へ不思議そうに問いかけた。

「いや、何でもない。」

 そう言い、恭太はリリイのスマートフォンに表示されたQRコードを自分のスマートフォンで読み取った。リリイの連絡先が登録されたことが、恭太のスマートフォンに表記される。

「ありがとう!」

 そう言いリリイは恭太のスマートフォンを覗き込む。

「いや。こちらこそ。」

 恭太はリリイにそう答えた。もう夜も更けて来ている。帰りが遅くなれば梨央に詮索されるかもしれない。恭太は少し焦っていた。そして今の発言がリリイに対してそっけなかったのではないか、そのような心配も恭太はしていた。焦りをリリイに悟られないように恭太はリリイに気を使っていた。

「忘れ物はないですか?」

「無いよ。ありがとう。」

 恭太はそう言い立ち上がった。恭太が部屋を出ようとしたとき、

「ちょっと待って。」

 リリイが恭太を呼び止めた。そして、

「今日は待たせてごめんね。」

 リリイはそう言い恭太に軽く口づけをした。

 恭太は早く帰りたかったのでリリイの口づけを受け止めながらも、その口づけを煩わしいと感じていた。

 店を出た後、恭太は腕時計を見た。時間は10時半の少し前、予定通りか。恭太は帰りが思った以上に遅くならなかったことに安堵していた。家に向かいながら、恭太は惨めな気分になっていた。自分の性欲が解消されたとき、他に解決されてはいない様々な問題が自分の感情の中でくっきりと姿を現したのだ。恭太は自分の中で性欲がくすぶったとき、それを解消しようとする。そして、その間は本当に重要な問題はおざなりになってしまっている。

 今、恭太の頭の中を巡っているのは同世代の研究者と自分の間に生じている格差、そして、劣等感である。

 ―このままの状態で俺は収入面で問題を持たない程の研究者になれるのか。今まで数学の研究しかしてこなかった俺が今更企業に就職出来るとも思えない。

 恭太の明日には絶望は存在しない。しかし10年後に明らかに存在する不安に恭太は恐怖していた。

 そのような考え事をしながら、信号待ちをしていると

「井上さん。」

 と自分を呼ぶ声があった。振り返ってみるとそこには木内がいた。

「ああ。こんばんわ。」

 恭太は木内に挨拶をする。今日は木内は彼の妻とは一緒にいないらしい。

「どうしたんすか。何か元気が無いようっすけど。」

 木内が少し心配そうに恭太に話かけた。

「いや。今日研究集会があって、ちょっと疲れただけや。」

 恭太はそう木内に答えたのだが、彼が少し憔悴しているのは、彼の感情の中にくっきりと彼の抱える問題が姿を現したからだ。それを木内に言ったところで刹那に生きている彼にはあまり興味はないだろう。

「そうっすか。お疲れっす。話変わるんすけど、井上さん来月の8日の夕方の六時からって空いてます?」

「8日。何曜日やったっけ?」

 恭太は木内に聞き返した。

「日曜日です。」

「そうか。」

 そう言い、恭太は自分の予定を思い返していた。3月8日なら大学も春休み中のため、さほど繁忙では無いはずだ。

「多分、空いていると思うけど。何で?」

「その日、俺が主催でライブハウスを貸し切ってイベント組むんです。井上さんも良かったらどうかなと思いまして。」

 木内はそう言い、恭太にイベントの詳細が記載されたチラシを手渡した。そのイベントではバンド、DJの演奏、寸劇が催されるらしい。その出演者はほとんど、木内が勤めているバーの関係者ばかりだ。イベントと言っても個人のパーティーに毛が生えた程度のものだろう。恐らく観客も木内の知り合いばかりで占められているはずだ。

 ―相変わらず騒ぐのが好きな奴だな。

 そう思いながらも恭太はこのようなイベントが嫌いでは無かった。

「そうか。ほな行かせてもらうわ。」

 恭太は木内に参加する意思を伝えた。

「そうっすか。ありがとうございます。、また、チケット代お願いしてもいいっすか。」

 木内の発言は相変わらず無気力であった。恭太はチラシを確認する。チケット代は2千円だった。恭太は先程色町で散財したので財布の紐が固かった。先程の自分の発言を少し後悔しつつも、後で井上にチケット代を支払いに行くのが面倒だったので、

「いや。今支払うよ。チケット今持ってる?」

 そう言い、恭太は木内に自分の財布から2千円を差し出した。

「チケットあります。あざーっす!」

 木内はいつもより多少は感情を込めて恭太に礼を述べ、代金を受け取り、イベントのチケットを恭太に渡した。いつもより感情を込めて発言をしたのは、彼なりの配慮なのだろう。

「うん。楽しみにしておくわ。ほな。また。」

 恭太はそう言い、信号が青になったので、横断歩道を渡り、帰宅の途についた。

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