第6話

 それから一か月が経ち、恭太が参加する学会が始まった。学会が催される会場は恭太が通っていた大学院であった。恭太の通っていた大学院は大阪の天王寺から和歌山方面に電車で10分程度のところに位置している。恭太は自分の家を出て40分程度で学会の会場に到着した。

 ―母校の教員になれば通勤も楽になるのにな

 恭太はそう考えたが有名大学の教員になるのは今の自分には無理かと自嘲し苦笑いした。

 恭太が通っていた大学院には高層の建物がある。その建物の低層部は図書館、中層部は研究室、高層部は講堂で構成されている。恭太が研究発表を行う会場は、その建物の最上階にある講堂となる。建物の中に入ると関係者以外が侵入出来ないように、入館にIDカードを必要とするゲートがあった。恭太はもう大学院を卒業しているので入館のためのIDカードを持っていない。ゲートの近くに立っていた警備員に学会の参加者であることを伝え警備員にゲートを開けてもらう。そしてゲートのすぐ近くにあるエレベーターに乗り最上階に向かった。エレベーターを降りて直ぐ、真正面の部屋の扉付近にに学会の受付が設置されていた。

「おはようございます。」

 受付をしている若い男が恭太に挨拶をした。恐らく大学院の学生だろう。恭太も学生時代に学会の受付に駆り出された経験がある。

「おはようございます。」

 恭太も受付に挨拶をした。

「お名前をお願い致します。」

 受付の男が恭太に尋ねる。

「井上恭太です。」

「井上さんですね。」

 受付の男は机の上に置かれているリストを確認し恭太の名前が書かれている箇所にチェックを入れた。

「ありがとうございます。それでは学会が始まるまでこちらの部屋でお待ちください。」

 受付の男は恭太にそう言い待合室を指差す。恭太が待合室に入ると何名かの参加者がいる。待合室の中央には机があり、机の上にはコーヒーやお茶などの飲み物、そして、スナックなどのお菓子が置かれている。

「井上くん!」

 恭太が机の上に置かれたコーヒーに手を伸ばそうとしたとき、後ろから恭太を呼ぶ声が聞こえてきた。恭太が振り返ると恭太の大学院時代の学友が笑顔で手を振っていた。

「岸野君か。」

 恭太がそう言うと、恭太の学友である岸野秀平が笑顔でこちらに向かってきた。向かってくる岸野に対して恭太も笑顔で手を振った。普段は表情を顔に出さない恭太だったが、岸野に声を掛けられたとき無意識に恭太は笑顔になっていた。岸野は量販店で買ったと思われる一目で高級品で無いと分かるフリースとチノパンを着ている。恭太とは違い、無精髭は生やしておらず、髪は短く刈り込まれていた。

「井上くんは相変わらずお洒落やな。髪は長いし髭は生やしてるし。」

 岸野は自分の眼鏡の位置を直しながら恭太に言った。果たして今の自分の風貌がお洒落なのだろうか。今日学会で人前に立つにも関わらず、無造作に伸びた髪と無精髭。今朝、家を出る前に梨央にもう少し小綺麗にしろと注意されたところだ。一般的な美的センスがあれば恭太の風貌をお洒落とは判断しないだろう。しかし岸野は恭太の風貌を恐らく何かの流行に沿った仕上がりと判断したのである。相変わらず岸野は流行に無頓着だなと恭太は思った。

「いやいや。髪も髭も何も手入れしてへん。普通に考えたら俺の格好はおかしいで。」

 恭太は一応、岸野にツッコミを入れた。

「そうなんや。それでも様になっているから羨ましいわ。俺が井上くんみたいに髪のばして髭生やしたら浮浪者みたいになってまうもん。」

 岸野は自分の腹をさすりながら恭太に言った。岸野の腹はまるで中年男性のように丸々と肥えている。

 岸野が言った発言は御世辞では無いだろう。恭太がそのように判断したのは恭太が自惚れているからでは無い。岸野は学生時代から人に対しての自分の評価を自分が思ったままに伝えていた。そして、その評価は私情が全く加わっておらず正確だった。

 ―井上くんは楽しようとしてないか?

 かつて岸野が恭太に言った言葉である。学生時代、恭太は岸野達との学力差に悩んでいたが、思えばその差を本気で縮めようとはしていたかった。余りに大きな差であったため、どこか諦めがあったのである。岸野の恭太に対しての言葉はそれを見透かしてのことだったのだろう。それから恭太は必死で自分の研究を進めることにする。恭太は決して岸野の指摘が悔しかった訳では無い。研究室の中で自分の居場所を失うことが恐ろしかったのだ。人に見放される恐怖から逃れるように恭太は自分の研究に没頭した。そして、友人の力を借りながら恭太は博士課程に進学する実力をつけることが出来た。無意識に学生時代を思い出しながら、恭太は岸野の腹を指差して言った。

「また太ったんとちゃうか。」

「せやなあ。」

 岸野は腹をさすっていた手を止め、大きく腹太鼓を鳴らした。岸野は自分の容姿について全くと言っていいほど興味は無い。

「けどな。子供がよく俺の腹に乗って遊ぶねん。きっと痩せたら子供が残念がるわ。」

 そう言い、岸野は高らかに笑い出した。岸野は三年前に結婚し二年前に子供が生まれた。博士課程修了直後に結婚する岸野に恭太は経済的な懸念は無いのか問いかけたが岸野は

「数学者は紙とペンがあれば何とかなるわ」

 と言い、そのときも高らかに笑い飛ばした。現在の岸野の姿を見る限り彼は慎ましく暮らしているらしい。しかし、岸野が経済的に困窮しているのかと言うとそうでは無く、彼は恭太の勤める大学の何倍も多い数の学生数を持つ大学で常勤の講師をしているので、収入は安定している。このまま順調に行けば5年後くらいには准教授になっているのだろうなと恭太は考えていた。

 学会での恭太の研究発表は滞りなく終了した。参加者から二、三件程質問があったが、想定内の内容だったため恭太は詰まることなく答えることが出来た。一方岸野の発表は途中でタイムキーパーが打ち切る程、質問が殺到していた。質問の多さは公聴者の岸野の研究への関心の高さを表している。恭太は今回の学会で、岸野の研究成果に驚愕した。恭太が驚いたのは岸野の研究内容の質の高さだけではない。今回の学会では20名程の研究者が研究発表を行ったのだが、その中の2件は岸野との共同研究であった。今回の学会で岸野は共同研究と単独での研究を合わせて3件も発表を行ったことになる。質と量、両方を兼ね備えた研究発表を行わなければ一流の研究者にはなれない。恭太は学生時代に先輩から聞いた言葉を思い出していた。

 学会が終わった後、校内のカフェテリアで懇親会が催された。カフェテリアの机の上にはケータリングの料理が並べられている。中国の研究者が並べられた料理について日本の研究者に質問をしていた。日本でも小籠包を食べていることがその研究者は少々意外だったらしい。カフェテリアの中央では岸野が様々な研究者達と会話をしている。岸野の今回の研究発表について、学会では時間の都合で聞けなかったことを研究者達は岸野に聞いているのだろうか。恭太も懇親会の初めの方は他の研究者達と今回の発表について話しをしていた。やがて、恭太と会話をする者は途切れたが、岸野の周りには相変わらず研究者達が彼を囲んでいる。恭太は岸野を囲む人達を眺めながら、何も考えずぼんやりと烏龍茶を飲んでいた。

 懇親会も終わりに近付き、研究者達は帰りの身支度を始めた。恭太も帰りの準備を始めた頃、岸野が恭太に話しかけてきた。

「お疲れさん。さすが井上くんやね。この前聞かせてもらった研究成果から大分進捗していた感じがするわ。」

「ありがとう。」

 恭太は素直に岸野の評価を喜んだ。

 ―しかし君の研究成果の方が俺の成果より質も量も遙かに上回っている。

 恭太はそう言おうと思ったが止めた。岸野の方が恭太より研究者として遙か先を進んでいるのは事実である。それが事実だとしてもそれを認める発言をすることは、どこか岸野に対して遜るような行為のような気がした。研究者としてではなく、岸野とは友人として対等でありたい、その感情のせいで恭太は岸野の研究に対しての自分の評価を岸野に言うことが出来なかった。

 ほんの僅かだか、沈黙が二人を包んだ。何か岸野に言おうと思い、恭太が考えていると岸野は続けて恭太にこう言った。

「ただ何ちゅうか、君の研究には何か限界があるような気がする。いや、君の研究そのものはもっと広がりがある。それは間違いない。何か今回の発表は少し自分の殻に閉じこもっているような気がした。」

「それはどこから感じられたんやろ?」

 恭太は岸野に問いかけた。友人の忠告を素直に聞き取れるほどには恭太は謙虚であった。岸野は恭太にこう言った。

「そうやな。どこか研究の視点が偏っている気がした。多分やけど井上君の回りに研究に対しての意見を言ってくれる人はおらんのとちゃうか?あと、どこか、発表内容が淡々としていた。これは見せ方の問題やと思うけど、発表内容に抑揚が無いというか、いや、それは悪いことでは無いんやけどね。」

「どうすれば、ええんかな?」

 また、恭太は岸野に問いかけ、岸野は答えた。

「せやなあ。他の研究室に行ってみて、自分の研究について聞いてみるとか。まあ、忙しいとは思うけど、今の研究に対しての時間に更に外に目を向ける時間を増やしてもええんとちゃうか。」

「外に目を向ける時間。」

 恭太はそうつぶやいた。今日の学会において岸野は単独の研究だけでなく、複数の共同研究にも関わってる。そんな彼の恭太へのアドバイスは実に説得力がある。

 ―俺と岸野の差は何か。

 恭太にとって人と関わることは煩わしい。出来ることなら自分だけで物事を完結させたい。しかし岸野はそうでは無い。己の目的のためなら躊躇することなく人の輪に入っていく。その自分の進むべき道に対しての情熱が明らかに恭太とは異なっていた。所詮、才能とは情熱の違いに他ならない。そして、運とは自分の才能を伸ばしてくれる人に会えるか否かなのだ。岸野はそれに気づき、なるべく沢山の人に会おうとしている。恭太は改めてこの友人に巡り合えた己の幸運を実感していた。

「そうか。ありがとう。」

 恭太は友人に対して礼を述べた。

「うん。」

 岸野は恭太の目を見て力強く返事をした。

「岸野君はこの後、どうするんや?」

 恭太は岸野に尋ねた。

「今日はこのまま帰るわ。研究で忙しかったからな。たまには早よ帰らへんかったら子供に顔を忘れられてしまうわ。」

 そう言い岸野は高らかに声を上げて笑った。恭太が見た岸野の笑い顔に先程の学会で見せた学者の姿は薄く、父親の顔が色濃く写っていた。その岸野の姿を見て恭太は岸野に対して羨望の感情を抱いていた。

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