第5話
夕食を終えた恭太は店を出て自分の家へと自転車を走らせた。自転車を漕ぐたびに冷たい空気が顔を刺す。恭太の家はカレーを食べたカフェと色町の中間に在るので恭太は西の方向に向かい自転車を漕いでいた。恭太が店を出たのは午後9時前だったが、大阪の夜はまだ明るく人通りも多い。やがて、恭太は自分の家があるマンションに着く。梨央は恭太が夕食を済まして帰ることは知っているので、多少遅くなっても勘繰られないはずだ。マンションのエントランスに備え付けられている鏡を使い自分の顔を見る。どうやら自分の顔にはリリイの化粧や口紅は付いていないらしい。一通り確認し終わると、恭太はエレベーターのボタンを押した。エレベーターを降り自分の部屋へと向かう。マンションの通路側にある自分の部屋の窓からは光が漏れてきていない。どうやら梨央はまだ帰宅していないらしい。恭太は自分の部屋の鍵を開け家の中に入った。案の定、部屋の中の電気は付いていない。恭太は部屋に誰もいないことを確認すると、少し安堵した。
―今日、帰宅が遅くなったことを梨央から詮索されることはない。
恭太はそう考えながら靴を脱ぎ、リビングへと進み部屋の電気を点ける。鞄をソファの上に置き、その後、洗面所で手洗いをする。このときも恭太は洗面所の鏡で自分の顔をよく確認した。一通り確認し終わると、恭太はまたリビングへと向かった。ソファの上に置かれた鞄を床に置き、恭太はソファの上に腰を掛けた。そして鞄の中から自分のスマートフォンを取りだしチャットアプリを起動した。チャットアプリに梨央からの連絡が来ていないか確認をするためだ。どうやら梨央からの連絡は来ていない。まだ梨央は彼女の友人たちと食事をしているのだろう。恭太は梨央に対して帰宅した旨をチャットアプリ通じて連絡をする。恐らく彼女が帰宅するのは一時間後だろう。そう考えながら、恭太はぼんやりとスマートフォンを眺めていた。すると、そのチャットアプリに誰かから連絡が来たことを示すアラートがスマートフォンの画面に表示された。梨央からだろうか。恭太はそう思いアプリを起動した。梨央からの連絡では無く木内からだった。
―お疲れっす。今日話した俺が結婚すること、これは秘密ということでお願いしたいです。
木内からの連絡は木内が結婚するということを周囲には内密にして欲しいと言う内容だった。何故木内は自分の結婚を周囲に隠す必要があるのだろうか。恭太以外の友人を驚かせたいのか。それとも、まだ遊びたいのだろうか。少し恭太は考え込んだが、深く考え込むほどの問題では無いと思い、詮索することは止めにした。そして、
―了解。
と木内に返事をした。スマートフォンを眺めている場合では無い。あと一カ月足らずで学会が始まる。恭太は床に置いた自分の鞄から学会で発表する資料を取り出した。恭太は発表予定としている自身の研究について結果は出していた。しかし、その研究結果が評価されるかは、学会での発表にかかっている。当然、結果に至るまでの証明に落ち度があってはならないし、限られた時間の中で、公聴者に対して分かりやすく、かつ、過不足無く証明に至るロジックを説明する必要がある。自分の発表が長すぎないか、また、説明が不足している箇所は無いか、恭太は自分の発表資料を読み返した。
ふと時計を見ると時間は10時半を少し過ぎていた。帰宅してから、もう1時間程度過ぎている。僅かな時間だが、どうやら集中していたらしい。
―それも当然か。
と恭太は思った。先程恭太は色町に行った。だから今は恭太には性欲が無い。
恭太にとって性欲とは絶望そのものである。何か集中しなければならないときに妨げになる感情。それにかまけている場合ではないのだが、どうしてもそれに意識が傾いてしまう。恭太は集中力が途切れた時リリイの体を思い浮かべる。そして自分のことを怠惰な人間だと思う。更に自分の将来を思い浮かべ、研究者としては元より、社会人として自分の生活は大丈夫なのかと心配になる。しかし、今は自分の性欲は薄らいでいる。研究の妨げになる感情は自分の中には無いはずだ。
―それでもたった一時間しか集中出来ないのか。
恭太はそう考え、自分のことを本質的に怠惰な人間だと思い知る。そのとき、玄関のドアの鍵が開かれる音がリビングに届いた。
「ただいま。」
梨央がそう言い家に入ってきた。
「おかえり」
恭太はソファに座りながら梨央に返事した。梨央は着ていたコートを脱ぎ恭太が座っているソファにそのコートを置いた。
「今日何食べたの?」
梨央が恭太に尋ねた。恭太はそれを答えるのが面倒くさいと思った。
「カレー」
恭太はそう答えた。
「美味しかった?」
「うん。」
恭太はとりとめの無い会話が好きではなかった。それならばまだ沈黙している方がましだと思っていた。しかし、恭太が沈黙を続けていても梨央は恭太の興味が無い話を言い続ける。恭太にとってそれは騒音でしかない。なので、恭太は自分の話をすることにする。
「そう言えば今日、木内に会ったで。彼な、」
―結婚するらしいわ。
そう言いだそうとしたとき、恭太はハッとした。木内が結婚することは梨央に言わない方が良い。これは決して木内から彼が結婚することを内密にするようにと頼まれたからではない。梨央は口が固いので他人に木内の秘密を暴露することは無い。恭太が梨央に木内の結婚を伝えなかったのは梨央に「結婚」という言葉を思い出させたくなかったからだ。梨央が「結婚」という言葉を思い出せば、恭太は梨央からいつ二人は籍を入れるのか迫られることになる。恭太はいつかは梨央と結婚するつもりではいたが、それがいつになるのか、全く考えていなかった。恭太はしょっちゅう梨央に結婚の時期について問い詰められている。適当に「来年」と嘘をいたこともあったが、結局その発言は実行されなかったので、更に面倒くさいことになった。
「彼な、元気そうやったわ。」
恭太は結局そう言った。そして、これこそ実にとりとめの無い会話であると恭太は自責の念に苛まれた。
「ふーん。それは良かった。」
梨央は気のない返事をした。そして梨央は更に話を進めた。
「私の友達も元気やった。久しぶりに会えて良かったわ。それでな、今日あった友達やねんけど、来月結婚するねんて。」
恭太は梨央からその話を聞いた瞬間、気が遠くなった。
「そうか。」
恭太はそう返事をしたが、頭の中は凄まじく試行錯誤を繰り返していた。次に梨央が切り出す会話を予測出来たからだ。どのようにして上手く結婚をはぐらかすか。恭太は必死で考えていた。
「私たちももう30歳やし、結婚を考えた方がええと思うの。恭太、去年も来年考えるって言ってなかったっけ?同棲のままでも良いと思うけど、やっぱり世間の目と言うか、この年になってまだ同棲と言うのも少しおかしい気がするし、多分結婚しても今の生活が変わるわけでもないから、もう籍を入れても別にいいような気がするんやけど、どう思う?」
恭太は梨央が何を言っているのか全く聞いていなかった。発言の内容は長いが、結論はいつ結婚するのかと言う問い掛けだからだ。結論を知っていたので、恭太は会話の内容は聞かずにその問い掛けについての回答を考えることに集中していた。
どう思うと言われても。梨央と結婚することは今の彼にとってすれば優先順位が低い。なので、梨央との結婚を考えている暇はない、というのが彼の感想だった。
「いつかは結婚したいとは考えている。」
また、恭太は不明確な回答をした。
「いつかっていつ?」
「来年」
そう言い、恭太はまた来年面倒くさいことになるだろうなと落ち込んでいた。
「ごめん。学会が近いから今そのことで、いろいろ抱えてんねん。学会が終わったら、ちゃんと考えるから。」
恭太はそう言い訳をした。
「そう。ちゃんと考えているんやったらええわ。こちらこそ忙しいのにごめん。」
そう言い梨央は引き下がった。
「もう遅いし風呂に入ってくる。」
恭太は梨央にそう言い残しリビングを出た。確かに来月学会が始まる。恭太はそのころに梨央が今回の話題について忘れていることを期待していた。
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