第4話

 前回、色町に行ったのは一か月前のことだろうか。そう考えながら恭太は自転車を漕いでいた。恭太は仕事の帰り道の中にいる。腕時計を見ると午後7時前後であった。この前来た時より冬が深まっているはずだが、大阪の気候は奇妙なもので、前回来た時より寒さは若干和らいでいた。あの女はまだあの店にいるだろうか。そう思いながら、前回来た店を恭太は覗いた。見覚えのある女が口角を上げ、笑顔を浮かべながら店の中から外を眺めていた。

 ―恐らくこの前の女だ。

 恭太はあまりよく人の顔を覚えられない。ほぼこの前の女で間違いないだろうが、恭太は100%の確証を得られないでいた。もし間違えて、あの女よりもサービスが下回る女に当たってしまったら、高額では無い恭太の収入からしたら痛手だ。そんなケチなことを 考えながら店を覗き続けていると、店の中の女と目が合った。

 女は「あ!」と口を開け、作っていた笑顔を更に強調し恭太に向かって強く手を振り始めた。

 ―この女で間違いないな。

 恭太は確信しその店に入る。

「こんにちは。」

 恭太は女のに声を掛けた。

「また来てくれた。」

 女は恭太に声を掛ける。

「うん。」

 恭太はそう答え、

 ―君のことが忘れらなくてまた来たんや。

 などと気取ったことを続けて言おうとしたが止めた。店の玄関口には相変わらず中年の女が座っている。その中年の女に向かって恭太は

「上がります。」

 と伝える。

「ありがとうございます!」

 そう言うとリリイは立ち上がった。リリイはスカート丈が短く、胸元を過剰に強調したドレスと言うには余りにも安っぽい衣装に身を包んでいた。リリイの健康的な手足が見えている。かつて彼女が語っていたように、彼女の手足は細長くは無い。小柄な体型だが、その小柄な体型が彼女の魅力だと恭太は感じていた。恭太は靴を脱ぎ店に上がった。玄関を上がってすぐ目の前に二階に上がる階段がある。

「どうぞ。」

 リリイは恭太を前回と同じ部屋へ誘導した。階段を上がると正面に一部屋、向かって左の方向に二部屋、右の方にはシャワー室がある。最初に見える正面の部屋がリリイの部屋だ。部屋に入ると相変わらず中は薄暗い。恭太は部屋の奥にある座布団の上に座り、リリイを見た。薄暗い部屋の中では彼女の顔をはっきりと見ることが出来ない。その状況で恭太は彼女の顔を目に焼き付けようとしている。恭太は既に冷静では無かった。そしてリリイは恭太を見ると満面の笑みを浮かべて恭太に言った。

「ありがとう!嬉しい!」

 リリイはそう言うと、胡座をかいている恭太の太腿を掴み、自分の顔を彼の顔に近づけ、上目遣いに彼を見つめた。一秒程、沈黙の時間が流れる。恭太の視界全てが彼女の笑顔で満たされる。その時恭太はリリイは自分を彼女の虜にしようとしているのではと考えた。しかし恭太はその時冷静でなかったので、彼女の笑顔に嘘は無いと信じてしまう。

「うん。」

 恭太は少し狼狽えながら答えた。

「元気でしたか?」

 リリイは笑顔のまま恭太に尋ねた。

「うん。元気。」

「この前来てくれたのは一ヶ月前でしたっけ?」

「うん。」

 相変わらず取り留めのない会話だ。そう思っていると、突然リリイは恭太の太腿から手を離しちゃぶ台の上に置かれていた料金表を取り恭太に見せた。

「今日は何分居てくれますか?」

 リリイが恭太に料金表を見せたとき、恭太は僅かに冷静になった。二人の間に取り引きが介在していることを思い出したのだ。

「じゃあ30分で。」

 恭太はそう答え料金をリリイに渡した。

「ありがとうございます!直ぐに戻って来ますね。」

 リリイはそう言い部屋を出て行った。相変わらず感じのいい女だ。そう思いながら、恭太はリリイの仕事に対しての姿勢に好感を抱いていた。恭太がふと机の上を見てみると灰皿がある。ある男達は煙草をふかしながらリリイを待つのだろう。恭太は煙草を吸わない。煙草を嫌悪すらしている。煙草を吸った男はその口でリリイに口付けをする、恭太はふとそう考えると、どこか悍ましい気持ちになった。不意に襖を叩く音がする。恭太は視線を灰皿から襖へと移した。

「お待たせしました。」

 そう言いリリイが部屋に入って来た。手にはお盆を持ち、そのお盆の上にはお茶と駄菓子が乗っている。恭太は少し緊張していたので喉が渇いていた。お茶を差し出されると、一口だけ飲んだ。しかし飲み過ぎると後でトイレに行きたくなるので一口だけにした。恭太がお茶が入ったお椀をちゃぶ台に置くと、リリイはまた恭太の顔に自分の顔を近づけて恭太の目を見つめた。リリイは相変わらず笑顔だ。

「どうしたん?」

 照れながら恭太は言った。少し照れている恭太に対してリリイは堂々としてる。

「来てくれて嬉しいなって思って。」

 リリイは続けて言った。

「私の名前、覚えてる?」

「うん。リリイやろ。」

 恭太は即答した。人の名前を覚えるのが苦手な恭太だったが、また自分がこの店に来ることを予測していたので彼女の名前をその後、何回も思い返していたのだ。リリイの笑顔が少しだけ更に明るくなった気がする。そしてリリイはまた恭太に尋ねた。

「当たり!じゃあ、もう一つの名前は?」

「ユリ」

 恭太はこれも即答した。

「すごい!記憶力いいのですね。」

 リリイはそう言うと恭太の太腿から自分の手を離し、その手で恭太の手に触れた。リリイに手を触れられたとき、恭太は自分の手にくすぐったさを感じた。

「それくらい簡単に覚えられるよ。」

 恭太は謙遜して言った。謙遜と言う程、恭太は大したことをした訳ではない。しかし、リリイが褒めてくれるので、恭太は謙遜せざるを得なかった。

「それじゃシャワーに行きましょうか。」

 リリイはそう言うと、勢いよく立ち上がった。狭い部屋の中なのに、小走りにタオルが置かれている部屋の隅へとリリイは向かう。

「どうぞ。」

 そう言い、リリイは恭太にタオルを渡した。

「ありがとう。」

 恭太はタオルを受け取った。そして、受け取ったタオルを床に置き、恭太は服を脱ぎ始めた。目の前にいるリリイも服を脱ぎ始めている。恭太は服を脱ぎながら、時折、意識的に視線を逸らしつつ、リリイの方を見ていた。時折視線を逸らしていたのは、自分がリリイの服を脱いでいる様子を凝視していることを、リリイに悟られたく無かったからだ。自分は目の前の女を性の対象として見ている。それを悟った女は視線を放つ男に対して嫌悪感を抱くかもしれない。恭太はどうしても、そのように考えてしまう。恭太はリリイに金を払って一緒に過ごしているにも関わらず。

 しかし、リリイが下着を脱ごうとした瞬間、恭太は不意にリリイと目が合ってしまった。リリイは照れることなく、静かに口角を上げて恭太に対し笑顔を作った。

 ―今、私の裸を見ようとしてたでしょ。

 恭太はリリイからそう言われることを恐れたが、リリイは何も言わず下着を脱ぎ続けた。やがて、下着を脱ぎ終わるとリリイは自分の体にタオルを巻きつけた。恭太もいつの間にか裸になり、自分の腰にタオルを巻いている。

「準備出来ましたか?」

 リリイは穏やかな口調で恭太に尋ねた。

「うん。」

 恭太は少しばつが悪そうに返事をした。

「じゃあ、シャワー室に行きましょう。」

 そう言い、リリイは恭太の手を取り、部屋の外にあるシャワー室へ連れ出した。多分、リリイは恭太の性欲を含んだ視線を感じ取っていただろう。しかしリリイはその視線を感じながら、意識してか、あるいは無意識に恭太の性欲を指摘しなかった。

 ―今、私のことアホやと思ったやろ。

 かつて、白川という女子学生は恭太が敢えて口にしなかったことについて恭太に言い返した。恭太はそれを煩わしいと思った。男が敢えて女に対して口にしなかったことに対して、それを察したとしても何も言い返さない女が、男にとって都合の良い女なのかもしれない、リリイに手を引かれながら、恭太はそう考えていた。

 30分経った。恭太は服を着て、部屋の隅にある座布団に腰を掛けていた。リリイはまだ服を着ている。恭太は30分前の自身の失敗に学ばず、また時折視線を逸らしつつリリイが服を着る様を見ていた。と言うより、彼女の体を見ていた。リリイは服を着終えると恭太に尋ねた。

「今日はお仕事だったのですか?」

「うん。仕事の帰り。」

 恭太はリリイの質問に答えた。

「仕事は何をしているのです?工事現場か何か?」

 恭太はリリイに自分が肉体労働者と思われていることを少し意外に思った。しかし、自分の身なりを顧みるとそれも仕方ないかと思った。と言うのも、恭太は仕事にはスーツを着ていかず、私服である。また、恭太は二か月以上髪を切っていない。一般的な社会人と比較すると長髪の部類に入る。しかも、髭も二週間剃っていなかった。

「違うよ。大学で講師をしている。」

 恭太はこの程度の真実であれば、リリイに教えても構わないだろうと思った。

「え?大学の先生?それでそんな自由な恰好でいいの?」

 今度はリリイが意外そうに恭太に聞き返した。

「うーん。リリイが考えている学校の教師とは少しちゃうかな。学校の先生と言うより研究員と言った方がええのかも。服装も特に決まりが無いし。」

 恭太は自分が怪しい者で無いことをリリイに理解してもらうために、自分の職業について丁寧に説明した。

「そうなんだ。何か賢そう。だから記憶力が良いのね。」

 リリイはまだ驚いた表情でいる。

「いや。大学の講師と言ってもピンキリやし。」

 そう言いながらも、少し恭太は優越感を感じていた、訳では無かった。あと、一か月足らずで恭太が参加する学会が始まる。そこで、彼の学友達はどのような結果を話すのか。恐らく恭太の発表する研究結果よりも数段優れた内容だろう。リリイが恭太に抱いたであろうイメージと恭太の自己評価に大きなギャップがあることを恭太は自覚していた。

 ふと我に返りリリイの方を見る。リリイは笑顔で恭太を見つめている。

「来てくれて嬉しかった。また来てくださいね。」

 リリイはそう言い、恭太に軽く口づけをした。

「うん。また来るよ。」

 恭太はそう言い、立ちあがった。部屋の襖に手を掛けようとした瞬間、

「ちょっと待って。」

 そう言うとリリイはサッと部屋の座布団の向きを整列させた。

「待たせてごめんね。部屋を整頓しておかないと気になっちゃって。」

 リリイは恭太に言った。その様子を見て、恭太は改めて彼女の仕事に対しての姿勢に好感を抱いた。

 恭太はリリイに連れられて階段を下り玄関で靴を履く。大阪の冬とは言え、やはり肌寒い。恭太が振り返るとリリイは正座して恭太を見送ろうとしていた。玄関に冬の冷たい空気が流れ込んでくる。その冷たい空気が流れ込んでくる玄関口で、リリイは長時間座り、肌を過剰に露出した服で男を待っているのだ。

「寒ない?」

 恭太は無意識のうちにリリイに尋ねていた。尋ねた瞬間、無神経な質問をしたと少し後悔した。真冬の玄関口で、肌を露出した服装をしていて寒くないわけがない。

 リリイは少し笑い恭太に応えた。

「大丈夫です。膝掛けもあるし。私の背中にね、ストーブも置いてるから。」

 そう言われ恭太は玄関口にあるリリイが座っていた座椅子を見てみる。リリイの言う通り座椅子の上には膝掛けが置かれ、座椅子の後ろにはストーブが置かれていた。

「確かにこれやったら大丈夫そうやね。とにかく風邪には気をつけて。」

 恭太がリリイにそう告げる。

「ありがとうございます。また来てくださいね。」

 リリイはそう言い手を振った。恭太は店の前に置いていた自転車に乗り、リリイに手を振り店を後にした。もう一度振り返り店を見ると、既にリリイはいない。他の男が店の中でリリイを待っていたのだろうか。そう恭太は考えていた。

 店を出た後、恭太は腕時計を見た。時間は午後8時の少し前だった。今日、同棲している彼女は友人と外食する予定があるので、まだ帰ってきていないはずだ。恭太も外食することにした。この色町から東の方へ自転車で10分程進めばカフェがある。そこのカレーは評判が良いので、そこでカレーを食べようかと恭太は思った。恭太は自分の服の匂いを嗅いだ。少し、リリイの匂いが付いているような気がした。そこのカフェは常にカレーを煮込んでいる。だから店の中はスパイスの匂いで充満されており、店に30分も滞在すれば服にカレーの匂いが付く。そうすれば自分の服についているリリイの匂いはカレーの匂いで隠れるだろうと恭太は考えた。過剰な隠蔽工作だとも考えたが。

 目的のカフェに付き恭太は自転車を降りた。自転車に鍵をかけカフェの中に入る。案の定、カフェの中はスパイスの匂いで充満していた。

「あ、井上さん。うぃっす。うぃっす。」

 恭太は自分を呼ぶ声の方を見た。そこには細身で長髪の男がいる。しかし、恭太のように無造作に伸ばされた頭髪ではない。耳の上から頭の側面は丁寧に刈り込まれている。そして細身の体形がフィットするタイトだが窮屈では無い服をその声の持ち主は着ていた。声の持ち主は恭太の友人だった。

「ああ、木内か。」

 恭太は友人に返事をした。木内が恭太に対して、日本語としてはあまり正しく無い敬語を使うのは木内が彼より3歳年下だからである。木内は恭太がたまに行くバーでバーテンをしており恭太と木内はそこで知り合った。木内が働いているのは毎週の金曜日の晩のみで普段、彼は木内の父親が経営している会社で働いているらしい。らしいと言うのは働いている、と言うのは木内の主張であって、恭太を含めた木内の友人たちの中には誰一人として木内が働いている姿を目撃した者がいないからだ。そして、働いているにしては社会人にしては不自然な敬語しか彼は使うことが出来ないし、ラフな髪型をしている。そんな謎に包まれた生活を送っているせいか彼は友人からあまり尊敬されていなかった。しかし、何故か人望はあった。育ちの良さのせいか彼は人当たりが良い。木内が他人の悪口を言っているところを恭太は見たことが無い。

「今日、彼女さんは?」

 木内は恭太に尋ねた。

「彼女は友達と飯食いに行ってる。今日は一人でカレー食いにきた。」 

「あー。そうなんすねー。」

 恭太に対して木内はどこか無気力に返事をした。恭太がふと木内から目を逸らすと見覚えの無い女が木内と同じ席に座っていた。

「この人は?」

 恭太が訪ねる。

「ヨメです。」

 木内が淡々と答えた。

「あぁ。彼女さんか。」

 恭太がそう答えた瞬間、木内は少し考え事をしているような表情になった。そして何かを決心したように木内は恭太に言った。

「いえ。ヨメと言うのは彼女では無く奥さんと言う意味でして。言ってませんでしたっけ?俺、結婚するんです。」

「え?」

 木内から告白されたとき恭太は少し混乱した。恭太は木内のことを結婚とは無縁の男だと思っていた。結婚をすればプライベートは全て家庭に費やされることになり自由が無くなる。派手な生活を好まない恭太ですら、そのような思い込みがあり、同棲している彼女との結婚を躊躇している。そして木内は少なくとも恭太よりは奔放な生活をしていた。木内は心斎橋で夜から明け方にかけて催されるクラブイベントに頻繁に参加していたし、彼のsnsに毎週のように仲間たちとの行楽を載せていた。なので、恭太は彼を自分以上に結婚から遠ざかっている男だと見なしていた。どうやら恭太のその見立ては誤りだったらしい。

「そうか、それはおめでとう。正直、少し驚いた。」

 頭の中の整理がついたので、恭太は心から木内の結婚を祝福した。目の前に結婚することを告白した男と、男が自分の伴侶と紹介する女がいるのだ。理解し難いことでも、目の前にその事実が存在する以上、詮索するのは時間の無駄である。

「ありがとうございます。」

 相変わらず木内はどこか無気力そうに恭太に返事をした。相変わらず考えが読めない男だ。恭太は木内のテンションの低さに少し肩透かしをくった。

「じゃ。俺たちそろそろ行きますんで、ごゆっくり。」

 木内は恭太にそう言い席を立った。

「さようなら。」

 木内の後ろにいた、木内の婚約者はそう言い恭太に会釈をした。木内の婚約者は人見知りなのか伏目がちだった。恭太は店の外に出ていく木内とその婚約者の後ろ姿を見送った。その姿はこれから夫婦になる男女の姿そのものだった。その姿を見た恭太は二人に対してどこか心の中に羨望を抱いていた。そして、たった今見た木内の婚約者の顔を恭太はもう忘れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る