第3話
翌日、恭太は午前7時に目覚めた。ベットから起き上がると、そのまま洗面所に行き歯を磨き、顔を洗う。パジャマを脱ぎリビングに放り出していた前日来ていた服をそのまま着て、鞄の中に冷蔵庫で保管しているバナナを入れる。恭太は家では朝食を食べない。大体は勤務先である大学で、家から持っていくバナナと通勤途中に立ち寄るコンビニで購入するパンを摂るようにしている。恭太は朝食の時間に10分以上かけない。そして通勤の準備は15分以内に終わらせる。恭太は時々、普通のサラリーマンの生活は自分には無理だろうと思うことがある。何故なら、恭太にとってサラリーマンは朝に準備することが多すぎるからだ。恭太は朝、歯を磨き、顔は洗うが髭剃りも整髪もしない。玄関で靴を履いていると、奥の寝室から梨央が出てきた。彼女の勤務地は大阪市内にあり、彼らの家からは15分も通勤時間はかからない。8時に起きても充分に勤務開始時刻に間に合うはずである。恭太が毎日家を出る時刻は7時15分、あと、45分は眠ることが出来るはずなのに、彼女は毎日恭太を見送っている。恭太を見送ったあと、梨央はまた布団に戻り二度寝する。それを知っている恭太は見送りの度に梨央の行動を非合理であると思っていた。当然恭太も梨央からの愛情を求めていたが、梨央の見送りは求めていなかった。恭太は何事にも合理性を求めていた。
「いってらっしゃい。」
「ああ」
恭太は毎朝取り交わされる、この会話に飽きつつあった。
恭太は勤める大学まで一時間程度の通勤時間をかけている。彼が住むのは大阪市内、勤め先の大学は大阪市の郊外に在る。大抵の人達は大阪の郊外から大阪市内に通勤するので、彼はいつも通勤ラッシュに巻き込まれることは無い。対向車両の混み様を見て、恭太は自分が通勤に関しては恵まれていることを実感する。恭太が大学の最寄りの駅を降りると大学まで5分程度歩くことになる。その途中、自分が勤める大学の学生達と共に大学に向かうことになる。彼らもあと2、3年もすれば、自分が通勤時に見掛ける通勤ラッシュに巻き込まれることになるのだろう。恭太は同じ方向に向かう学生を見てそう考えた。しかし、学生達はそのことに気付いていない訳ではない。学生達もやがては、自分がいつも乗っている電車の逆方向に進む電車に乗らなければならなくなるのを知っているのだ。にも関わらず、大半の学生はやがて自分に訪れる過酷な運命に備えようとはしない。
「先生おはよう。」
後ろから、溌剌とした女の声が聞こえた。振り返ると、そこには恭太が担当している授業を受講している女子学生が居る。
「おはよう」
恭太も返事をした。
「元気ないやん。どないしたん?」
女子学生はそう恭太に話し掛ける。確か名前は白川だったか。恭太は人の名前を覚えるのが苦手だった。
「昨日、研究室の飲み会だったから。」
そっけなく恭太は答えた。
恭太がこの大学の講師になってから4年経つが、このように馴れ馴れしく話しかけてくる学生が少なからずこの学校にはいた。もう大学生なのだから、敬語は使えるようになって欲しい。恭太は度々この大学の学生に対して呆れることがあった。
この大学に就職する際に、この大学でかつて非常勤講師として働いていた先輩から、
「講義中に紙飛行機が飛ぶことはないけど。」
と聞かされていた。この学校では真面目に講義を聞く学生は少ない、彼の先輩はそのように彼にアドバイスをした。就職当初、彼はこの学校の学生の語彙力の無さに愕然としたものである。
「そうなんや。無理したらあかんよ。」
白川は言った。
「ありがとう。」
無感情に恭太は答えた。
恭太は白川に限らず、よく女子の学生に話かけられることが多かった。しかし話しかけて来たからと言って、彼女たちが恭太の受け持つ授業に対して興味を抱いていた訳ではない。恭太自身に興味を持って話しかけてくる女子学生がほとんどであった。恭太は女子学生が話しかけたくなる程度の容姿を有していた。そして、その程度の容姿を有していることを恭太も自覚していた。しかし、恭太は一度も女子学生と不適切な関係に陥ったことは無い。彼は女の性を買うくらい自分の性欲が強いことは自覚していたが、教員と女子学生と不適切な関係になっていることが周りに発覚したら、その教員は職を失うことになることも自覚していた。なので、彼は極めて高いリスクを伴う行為については決して関わらないようにしていた。恭太は人の名前を覚えない程、他人には興味が無い。女子生徒と不適切な関係を持ったところで、色町で女を買う支出が減ることくらいしかメリットが無いと恭太は考えていた。
白川は露骨に好意を恭太に押し付けながら言う。
「相変わらずそっけないんやね。」
そっけない。ノリが悪い。恭太はしょっちゅう、その様な事を知り合いから言われてきた。恐らく目の前にいるこの女は恭太に愛想良くして欲しいのだろう。
―他人が自分の期待する行動を取らなかったからといって、その人に当たらない方が良い
恭太はそう言おうとして、その言葉を飲み込んだ。それを言ったら白川は黙るか反論するか、いずれにしても恭太にとって面倒くさい事態になるだろう。恭太はもうこれ以上、白川と関わりたくはなかったので、代わりにこう答えた。
「ごめん。学会の発表が近くて発表の準備せなあかんねん。」
恭太はそう言い白川を残し大学まで足を速めた。
学会が近く開催されるのは本当だった。現在の恭太は発表資料の作成に追われている。
―今回も彼は来るのだろうか。
ぼんやりと恭太は学生時代の友人を思い出していた。
恭太は地方の大学の出身である。その大学は決して難関校ではなかった。進学先の大学生の大半は講義に集中することなく遊んでいた。その中でも恭太は思うような結果を大学受験で残せなかったので大学院は名門校へ進学しようと考え勉学に勤しんだ。その努力が身を結び恭太は大学院は大阪市内にある名門校に進学することになる。しかし、恭太はその大学院で大きな挫折を味わうことになる。恭太が在籍していた研究室には彼の他に二人の男子学生が所属していた。恭太にとっては難問である数学の問題を、その二人の学生はいとも簡単に証明してしまう。学部生のときは優等生だった恭太だったが、その研究室では劣等生になる。
―これが天才か。
一時、自分の才能と彼等の才能の差に恭太は途方にくれた。しかし幸運にも二人の学友は恭太に親切だった。
「井上くんにはもっと適した研究がある」
天才は指導力も天才的である。彼等は恭太の適正を見抜き、恭太でも成果を出せそうな問題を勧めてきた。彼等が示した道は決して容易な道では無かったが、大学時代以上に努力を重ねた結果、恭太が大学院を修了するころは、博士課程へ彼を勧誘したい研究室が現れるくらいには恭太は成長していた。しかし、それでも学友二人との差は縮まっていなかった。彼は親に頭を下げて博士課程に進学することにする。数学にまだ情熱と未練があった、と言えば全くその通りでは無い。彼は変化を好まない。修士課程で彼より優秀な学生が就職していく中でも、今更、新しいことを始める気にはならなかったし、就職して多忙そうな大学時代の友人の様子を見ていたので、働くことに戸惑いを感じていたのだ。
恭太は自分の親が彼を博士課程に進学させられるくらい裕福であり、そして、幸運に恵まれていた。
―恐らくこの幸運は一生続くだろう
恭太はぼんやりとそのように考えていた。実際、博士課程修了後、彼は現在の大学に就職することになる。生まれつきの幸運と楽観的な性格が彼から競争心を奪っていった。
学会での発表資料を作成していると、研究室のドアを叩く音がした。
「はい。」
恭太がドアを開けるとそこには白川が立っていた。
「講義で分からないことがあって、教えて欲しいことがあるの。」
―学会の発表が近いことは今朝話したはずだ。
恭太は今時間が無いので、白川には他の教員へ質問をして欲しい。恭太はこの学生の無遠慮さに少し辟易したが、自分は教員の立場なので生徒の質問を拒否することは出来ない。
「分かった。」
そう言い、彼は白川を自分の研究室に通した。研究室の扉を閉めようとする白川に恭太は
「ドアは閉めないで。」
と指示する。そして、廊下から研究室の中が見える位置に白川を座らせ彼女のノートを見た。
「ほんで。分からないとこはどこなん?」
「この問題。」
白川は鞄からテキストを取り出し、その問題を恭太に見せた。
―これは高校数学の範囲やないか。
そう言おうとしたが、恭太は何も言わなかった。早くこの学生の質問を終わらせたかったからだ。
「今、私のことアホやと思ったやろ。」
不意に白川は恭太にそう言った。
「思ってへん。」
恭太はそう答えたが、
「うそ、顔に出てるもん」
白川は会話を続ける。
―女の男の心を読み取る感性は恐ろしいな。
恭太はそう思うのと同時に、今、彼女に自分の研究室に来られるのは迷惑であることも読み取って欲しいとも思っていた。
「高校数学くらいはマスターして欲しいものだな。」
恭太は白状する。
「ひどいー。」
白川は何故か嬉しそうにそう言い恭太を小突いた。
「微分積分はどこまで覚えてる?」
白川に小突かれても恭太は表情を変えることなく白川に尋ねる。彼女の大学生としての数学の知識は絶望的だったが、恭太は何とか小一時間かけて彼女にその問題の証明について理解させることが出来た。白川は恭太がホワイトボードに書いた数式を書き写すと鞄の中にノートを入れた。
「先生、忙しいん?」
白川は上目使いに恭太を見つめながら尋ねる。今朝、彼女には学会が近いと言ったはずなんだが、それを分かって聞いているのか、それとも忘れてしまったのか。
「学会が近いから。ノート書いたな。」
恭太はそう言いながら立ち上がり、ホワイトボードに書いた数式を消す。
「ふーん。そうなんや。先生、ありがとう。」
そう言い白川は席を立ち恭太の研究室から出ていった。
―ようやく出ていった。
恭太はそう思った。意味の無い会話が多かった気がする。意味の無い会話を白川が恭太にするのは、白川が恭太に好意があるからだろうか。恭太はそう思ったが、どうしても確証が持てない。そう思う自分を自意識過剰とも考える。女は意識してか、それとも無意識か分からないが、男をこのように迷わせる仕草をする時がある。しかし本当に自分に対して好意を持っているのか、いくら考えても恭太には分かることは無い。だから、恭太はそのことについてはなるべく深く考えないようにしている。恭太がその問題を考えるのは自分の欲望に起因する。
そして恭太は少しだけ白川のことを思いながら、また近いうちに、あの色町に行くことになるだろうとも考えていた。
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