第33話 それはある日のSOS(前半)


 もう3年ほど前になるだろうか。


 その頃、丹原は会社でとある大型プロジェクトを任されていた。


 それは、今では珍しくもなくなったが当時は革新的だった新手法を取り入れた企画で、プロジェクトの進行は試行錯誤の連続だった。


 加えて丹原の所属する第一グループは、1名転職、1名産休、たまたまグループ長も交代、さらには古参が異動する代わりに新人が入るなど、新体制ほやほやの組織だった。


 そんな中だったからこそ丹原は気負った。主戦力となって走れるのが自分ともうひとりぐらいしかいないという状況で、プロジェクトの完遂のためには自分がどうにかしなければと、がむしゃらになって仕事に打ち込んだ。


 後にも先にもあんなに苦しかった期間はない。毎日の残業はもちろんのこと、毎週のように休日出勤を繰り返した。ついに人事から止められたときは、本当はいけないと思いつつも、こっそり資料を家に持ち帰ったりした。


 そうやって朝から晩、週の頭からお尻まで四六時中仕事だけに打ち込んでいたからだろう。さすがの丹原も精神的に追い詰められていった。


 変調に気付いたのは、丹原本人ではなく姉の夏美だった。


「うっわ。冗談抜きにひっどい顔してんだけど」


 ある日急に家に押しかけてした夏実は、丹原を一目見るなり思い切り顔を顰めた。


 顔色が悪い自覚はある。なにせ寝てないからだ。しばらくまともに食事もしていない。用意するのが面倒だからというのも理由のひとつだが、そもそも食欲が失せていた。


 そうだ。あの時の自分は、いっぱいいっぱいになって体調を崩しかけていた庭野を叱る資格なんかないくらい、自分のことに無頓着になっていた。


 机に齧り付いて資料をめくりながら、丹原は突然現れた姉を胡乱な目で睨んだ。


「なに? 忙しいんだけど」


「あー。千秋くん、いけないんだ。持ち帰り残業はダメなんだぞっ。ネットに呟いたら一発で会社が炎上するんだぞっ」


「呟かねえし。ていうか、残業じゃなくて自己啓発だし」


「はい、でました自己啓発~。明らかにソレ会社の資料なんですが~?」


 ふざけ半分にわあわあ言う姉に、丹原は顔を顰めてこめかみを押さえた。睡眠不足が祟ってか、朝から頭痛がひどかっだ。心配してくれるのはありがたいが、騒がれると頭に響く。


 姉にかまってやる暇はない。悪いが、用がないなら帰ってくれないか。


 そう文句を言ったが、逆に、無理やり夏実に部屋の外に引き摺り出された。曰く、これ以上この部屋にいたら負のエネルギーでおかしくなりそうだから、だそうだ。


 そうやって連れていかれたのは、近所のファミレスだった。昼時を外しているとは言え、やはり週末。小さな子供を連れたファミリー層や、わらわらと楽しそうな学生が多数見える。


 美人で出来る女オーラをびんびんに醸し出す大人女子、夏実は、店内である意味でかなり浮いている。そんな彼女が、なぜファミレスを行き先に選んだかといえば。


「きゃぁぁあああ! レオ君キター!! ダーリン―!!」


 ランダム配布の中身を確認した夏実が、黄色い声をあげてはしゃぐ。あまりに見慣れた光景に、丹原は動じることなくチューとストローを吸った。


 夏実が眺めているのは、とあるイケメン二次元アイドルのコースターだ。このファミレスは現在アイドルアニメとのコラボ真っ最中。キャンペーン限定コラボメニューを頼むと、ランダムでオリジナルコースターがプレゼントされる。


 ファミレスの衣装を身に纏ってウィンクをするイケメンキャラをこちらに掲げて、夏実はきゃっきゃっとはしゃいだ。


「見てみてー! 顔がいい、声がいい、存在が神! ファミレスの制服もめちゃくちゃ着こなしてるんだけど!!」


 声は聞こえないだろ、コースターなんだから。


 そう突っ込みを入れたいのはやまやまだが、その気力すら湧かないので言葉を呑みこむ。かわりに丹原は、そっと目を伏せて溜息を吐いた。


「姉貴はいいよな。いつ見ても楽しそうで」


「当たり前じゃん。推しが元気で今日も元気だよ、私は。むしろ推しが元気なのにへこたれてる暇とかないよ」


「すごいじゃん。レオ君さまさまじゃん」


「本当だよ。推しに生かされてるよ、全オタク」


 大真面目に夏美が力説する。その表情は、本人の宣告通りひどくイキイキしている。


(……姉貴も、結構仕事きつそうな時あるんだけどな)


 まさしく人生を楽しんでいそうな夏美と、疲れ切った自分。そのギャップがあまりにひどくて、丹原はひとり頬杖をついた。


 姉はイベント関連の仕事についていて、それこそ担当している企画の前後は終電近くで会社に粘ったりと忙しそうだ。だが、丹原の知る限り、夏美が今の丹原のように精神的に弱り切った様はみたことがない。


 いや。まあ、もちろん。仕事に不満がないわけではなく、毒を吐くときはものすごく吐くのだけれども。それはそれ、これはこれ。プライベートで見る姉は、いつも楽しそうだ。


 そういえば、いつから自分は聞き役に回ったのだろう。そんなことに、ふと気が付く。


 かつては丹原もアニメやらマンガを好んで見て、同じくオタクな姉は萌え語り仲間だった。社会人になって独立しても、連絡を取り合ったり実家、外と関わらずにたまに顔を合わせていたのも、直近の『萌え』について情報交換をしていたからだ。


 それがいつの間にか丹原から伝えられる情報がなくなって、一方的に夏美の話を聞くだけになった。それでも、姉のおすすめ作品に手を出したりしていたのだけれど、最近はそれすらも出来なくなって。


 いつの間にか、何かを面白いと思うことすら難しくなって。


「……姉貴。俺、もうオタクじゃないのかも」


 気が付けば、丹原はぽつりと零していた。


 ひとり限定コラボメニューを熱心に写真を撮っていた夏美が、手を止めて目を丸くしてこちらを見ている。その突き刺さるような視線に身を縮めながら、丹原は溜息を吐くように続けた。


「何を見ても楽しくない。何を見たいとも思わない。……もう、姉貴みたいに、何かに夢中になることは出来ないのかも」




「それは違うよ」




 ばっさりと。まるで切れ味のいい刃物で一刀両断するように、夏美に切り捨てられる。


 それどころか姉は、しかりつけるように力強く胸に手を当てた。


「萌えは心の養分なのよ! オタクが、簡単にオタクから足を洗えるわけないじゃない!」


「いや、でも……」


「もちろん人間だからね、趣味趣向が変わることはあるよ? だけど千秋の場合、『楽しめなくなった』じゃなくて『楽しむ余裕がなくなった』って感じがする。それって、千秋の心がSOSをあげてるってことじゃないの?」


「っ!」


 鋭い指摘に丹原は息を呑んだ。心のSOS。そんな風に思ったことは一度もなかった。けれども余裕がない。それは、まさしく今の自分を指す言葉だ。


 黙り込んでしまった弟に、姉は呆れたように眉尻を下げた。


「そういうときは休むか、無理やりにでも仕事以外の何かに目を向けたほうがいいと思うわよ? 我々オタクなんだし、何かに萌え散らかすとかさ。てわけで、あとでオススメリスト送るわ。履修必須のやつ」


「え!? でも、本当に見れるかどうか……」


「つべこべ言わなーい! お姉さまにまっかせなさい!」


 そんな風にして、夏美は何やらスマホにメモを取り始めたのだった。


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