第32話 新しい日常の中
「資料はこちらとなります。ご確認のほど、よろしくお願いします、と……」
独り言と共にカタカタとキーボードを叩き、送信ボタンを押す。上司への急ぎのメールを片付けた丹原は、自宅のダイニングテーブルでううんと伸びをした。
そう。自宅である。借りているマンションの一室で、丹原は仕事をしている。いわゆるテレワークというやつだ。
なぜ、こんなことになっているのか。理由は、ニュースをつければ一目瞭然だ。
『……今月7日、東京、神奈川、埼玉など7都道府県に発令された緊急事態宣言について、政府は本日にも全国に拡大をするとの方針を……』
「あぁ。やっぱり広げるんだ、緊急事態宣言」
それはそうか、と。テレビのアナウンサー相手に独りごちながら、冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを飲む。自宅勤務に合わせて、紙パックで常備するように変えたのだ。
年が明けてすぐの頃は対岸の火事でしかなかった新型ウィルスが、国内に広まったのはここひと月から二ヶ月の間だ。
あれよあれよのうちに状況は様変わりし、今月の頭には一部地域で緊急事態宣言が発令された。それも、先程のニュースによれば今日で全国に広げられるようだが。
そんな中、丹原のライフスタイルも変わった。
丹原の会社はいち早くテレワークへの切り替えを進め、先月からちらほらと在宅勤務をやりはじめた。そして今月。緊急事態宣言が出てからは、基本は在宅勤務をするようにと比重が逆転した。
取引先との会議も電話かテレビ会議、上司同僚とのやり取りもメールが大半と、仕事の進め方もだいぶ変わった形になる。
正直、初めは戸惑う部分もあった。だが、今となっては。
「楽だな、在宅勤務」
買っておいた冷凍のパスタを解凍しながら、丹原はぼんやりとつぶやいた。
時刻は正午。毎日の習慣が崩れないように、会議などがなければテレワーク中の昼食は正午からと決めている。だから画面を『立席』に変えて、ひとりランチタイムに移ったのだ。
あらかじめ冷凍食品を買っておいたり、前日の夕飯を多めに作ったり、はたまた話題の宅配を頼んだり。毎日何かしら昼食のことを考えなければならないのは面倒だ。
けれどもそれ以外で言えば、むしろテレワークは快適だ。
「誰にもヘルプ呼ばれないし、急に仕事も振られないし……。マジで仕事の進みが早いな」
そうなのである。
仕事に精通している丹原にとっては、いまの状況はむしろ天国。外的要因で業務を中座させられることが減った分、仕事の進みがぐんと早くなった。
当然、在宅勤務なので移動時間もゼロ。ひとによっては「ずっと家だと気が滅入る」とか「家族に気を使う」なんて声も聞くが、元がインドア派かつ一人暮らしの丹原に死角はない。
オタク大勝利、引きこもり体質万々歳である。
チンと電子レンジの音が鳴った。蓋を開ければ、ほかほかのミートスパゲッティが顔を出す。
最近は冷凍食品も進化したものだ。ぱくりと口にいれれば、トマトの酸味と肉の旨味が絶妙に溶け合う。昼のニュースを眺めながら、丹原はもきゅもきゅと無心に食べた。
(こんなに動かないと、太らないかだけ心配だな)
ぱくりとフォークを咥えたまま、丹原は眉を八の字にして自身の体を見下ろした。
なにせ毎日の通勤も無くなり、外出は近所のスーパーに行くだけだ。それも、基本は来店回数を減らして欲しいという店の方針に則って、なるべく3日に一度程度のまとめ買いを心がけている。
おかげで外を出歩く機会がめっきり減り、当然ながらスマートフォンのアプリが記録する毎日の歩数は、大幅に減少してしまった。
健康に気を使い、休みの日は簡単に筋トレを行うようにしている丹原だからこそ、やはり運動不足は気になる。
今日の仕事後、ひさしぶりにランニングでもしてみようか。しかし、いまや外を出歩くならばマスクは必須アイテムだ。
(ランニング中もマスクはしなきゃダメなのか……? けど、普通に考えて苦しいよな……)
そんなことを悶々と考えていたら、早々に食べ終わってしまった。空になった皿とフォークをキッチンでさっと洗って片付ける。
それから丹原は、会社と変わらず至福のネット小説更新巡りへと移った。
うきうきとスマートフォンをタップし、慣れた仕草で『モノカキの城』のページに跳ぶ。そして画面はブックマーク一覧へ。
けれどもご機嫌に一覧を確認した丹原の表情は、すぐに曇った。
「ポニーさん、昨夜も更新しなかったんだな……」
唯一気がかりなことがあるとすればコレだ。ポニーさん、すなわち庭野のWEB連載中の作品の、更新がこのところ止まっている。
小説が最後に更新されたのは5日前。転こい2巻のプロット騒ぎの時も更新が止まったが、あの時はSNSに告知があった。今回はそれもない。これは作家:ポニーさん史上初めてのことだ。
(なんて。更新をするのもSNSで報告するのも、ポニーさんの自由だけど)
いささか気落ちしつつも、丹原はスマートフォンを下ろす。
ポニーさんがマメな性質なので忘れてしまいそうになるが、『モノカキの城』はフリーの小説投稿サイトである。掲載作品が出版社の目に留まって書籍化される場合もあるが、作品の投稿はあくまで自由。更新が止まったところで、誰に責められるいわれはない。
だから一抹の寂しさを感じても、読者としてはそこまでだ。気持ちを切り替えて、フォローしているほかの作品を読みに行く。それだけの話。
けれどもポニーさんが相手だと、簡単に割り切れないのも事実で。
(ポニーさん……庭野の奴、どうしてるんだろう)
明るい茶髪と人好きのする屈託のない笑顔が頭に浮かび、丹原は自分でも気づかないうちに眉根を寄せてしまう。
今のような世の中になる前は、庭野は会社で顔を合わせるたびにちょっかいをかけてきて、丹原の心を大いに乱したものだ。けれども互いに在宅勤務が多くなるにつれ、さっぱり顔を合わせなくなってしまった。
違うグループに属しているため、業務上連絡を取るといった機会もない。おかげで、ここ2週間の動向はまるっきり不明である。
「まさか、例のウィルスに倒れたんじゃ……」
一瞬浮かんでしまった考えに丹原は顔を青ざめさせたが、すぐに首を振った。
グループは違うとはいえ、庭野とは同じ部署だ。部内に感染が出たとしたら、感染拡大防止の観点から何かしらの通達が流れてもおかしくない。現状、そういった連絡がないということは、庭野も無事と考えられるだろう。
けれども、だとしたらますますわからない。
普通に出勤していた頃も、積極的に小説を更新し続けてきた庭野だ。通勤時間がなくなり家時間が増えた今のご時世、喜んで創作に打ち込みそうなものだ。
(くっそ)
舌打ちをして、もう随分前から使っていない庭野とのLIMEのトーク画面を開く。けれども、文字を打ち込むべき指はどうしても動かない。
〝もしかして。俺を、意識してくれたってこと?〟
――庭野の爆弾発言により、自分では気づけなかった衝撃の事実を暴かれてから、早三か月が経つ。けれども丹原は、いまだに庭野に抱く感情を受け止めきれていない。だから顔を合わさずに済む現状は、正直ありがたくもある。
だけども様子が気になるときに、会えない以上にもどかしいことはない。といって自分から連絡することも出来ないのだから、ヘタレもいいところだ。
「……やっぱり、『転こい』2巻の発売のことが気になっているのか?」
悔しくも緊急事態宣言真っただ中となってしまった来週の金曜日。その日が、『転こい』2巻の発売日だ。
緊急事態宣言により、百貨店などの大型商業施設が軒並み休業となっている現状、中に入っている書店も同様に閉まっているという。今日で緊急事態宣言が全国的に拡大されれば、休業する書店の数もまた増えることだろう。
全国的に本屋が閉まるという異常事態の中、新刊が発売される庭野――ポニーさんの胸中は、決して穏やかではないだろう。いいや。きっと「穏やかでない」の一言では済まされない。このところ沈黙が続いているのも、そのせいじゃないだろうか。
大丈夫か。そのたった一言を送れず、丹原はひとり唇を噛む。
ままならない歯がゆさは、丹原に数年前――小説投稿サイト『モノカキの城』を知る前のことを思い出させた。
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