第31話 にやける顔が止まらない(後半)


(……っ、だめ。思い出したら、またにやけてきた)


 ひとりアパートの自室で顔の半分を覆い、庭野は身もだえした。


 自分で言うのもなんだが、丹原が庭野を好きすぎる。あまりに隠せてなくて、そろそろこちらが可哀そうになるくらいに。


(いつも完璧なくせに、こんなときだけポンコツとか可愛すぎでしょ。どこまで俺のツボをつくつもりなの、あのひと)


 にまにまが止まらなくて、庭野はふふっと肩を揺らした。


 おそらく本人が動揺している分、ポンコツ具合に拍車がかかっているのだろう。これまでの言動から鑑みるに、過去の恋愛対象は異性だったようだし。


 そういう意味では庭野もおあいこだ。過去に好きになった相手はすべて女性だったし、いまでもテレビや雑誌を見て魅力的だと思うのは女性だ。


 だから丹原は特別だ。あの完璧超人な丹原が、自分のことにうろたえて、わけがわからなくなって、奇行に走ってる。それがたまらなく可愛くて、この上なく愛おしい。


 本当に、ずっとずっと、かまっていたくなるくらいに。


(あー、もう。また、先輩に会いたくなってきたー!)


 すっかり浮かれた庭野がじたばたと足を揺らしていると、電話の向こうから加賀に呼ばれた。


『ポニー先生? おーい。聞こえてますー?』


「あ、ごめんなさい。何の話でしたっけ?」


『もう! 挿絵の話ですよ~』


 挿絵。その言葉に、庭野は心の尻尾を全力で振った。


 庭野の作品は、主に女性読者を対象としたライトノベルだ。レーベルによって違うのだろうが、『転こい』を出してもらっているレーベルだと1冊につきカラーの扉絵が1ページ、モノクロの挿絵が5ページ入る。


 イラストレーターさんとは直接の面識はないが、加賀を通じてラフ画やキャラデザの段から何度かやり取りをする。その工程が、一巻の作業の時も一番楽しかった。


 なにせ頭の中で思い描いていたキャラクターや景色が、神絵師様の手で再現されていくのだ。それはもうモノ書きにとっては感涙ものだ。


 1巻の作業の時も、何度も感動に打ち震えたことを思い出し、庭野はうっとりと宙を眺めた。


「挿絵かー。ぴよ先生の神作画がまた見られるんだね!」


『ぴよ先生もすごく張り切ってらっしゃいましたよ! というわけで、さっそく挿絵シーンの候補ですが……』


 その時、電話の向こうで加賀が小さくくしゃみをした。女の子らしい可愛らしいくしゃみにほっこりしつつ、庭野は眉尻を下げた。


「大丈夫? もしかして風邪ひいたとか……?」


『うー、少し冷えちゃっただけですよ。心配いただきありがとうございます』


 加賀の声と一緒に、電話の向こうでピッと電子音がする。電気ストーブか何かの電源を入れたのかもしれない。


 やがて電話口に戻ってきた加賀は『そういえば、』と話題を変えた。


『風邪と言えば、こわいですよね、あれ』


「あれって、海外で流行ってるウィルスのこと?」


『そうですよ!』


 きょとんと答えれば、食い気味に答えられた。


 新型ウィルスというのは、年が明け会社が始まった頃から世間を騒がせている、国外で発生した新手のウィルスだ。


 このところニュースを付けると必ずといって取り上げられており、国によっては感染者が爆発的に増えて大変なことになってるようだ。


 といっても国内の感染者はひどく限定的で、庭野はそこまで恐怖を感じていなかった。


 だが、電話の向こうの加賀はそうではないらしい。


『ポニー先生も気を付けてください。お仕事、都心ですもんね。人が集まるところは要注意と言いますし……。私、最近は電車に乗るときは必ずマスクをしているんですよ』


「そうなんですか?」


『そうですとも! 企業によっては時差通勤を推奨するところも出始めているようですし、自分の身は自分で守らなくちゃ』


 加賀が、電話口で手を握りしめている様が用意に想像つく。たしか加賀は、去年の暮れに甥っ子が生まれたと喜んでいた。そういうこともあって、新型ウィルスの話題に敏感になっているのだろう。


 とはいえ。


(新手のウィルス、か……)


 先ほど朝のニュースで聞きかじった情報を思い出す。


 件のウィルスはつい先日WHOでも国際的な緊急事態とされ、海外の駐在員は帰国をするように各社が働きかけているらしい。事実は小説よりも奇なりと言うが、たしかにこれは、物語に出てきてもおかしくないくらいの異常事態だ。


『よくゾンビものとかであるじゃないですか。初めは小さな異変なのに、おかしいなって思っているうちにあっという間に事態が悪化して大パニックって』


「加賀さんは、今がそれと同じだと思うの?」


『同じとは思いませんけど、そうなったらやだなって思うわけです。ですから先生も、油断せず気を付けてくださいね。せっかく『転こい』も2巻が発売されるんですから』


「たしかにね」


 ちょっと想像して、庭野は顔をしかめた。


 1巻の発売の時は丹原と遭遇した駅ビルの本屋はもちろん、SNSに告知をあげてくれた都内の本屋さんをこっそり巡って、自著が置いてあるのを見て喜びにむせんだものだ。もしも発売のタイミングで感染してしまったら、そういうことも出来なくなるだろう。


 そこまで考えたところで、加賀が慌てたように『あ!』と叫んだ。


『ごめんなさい! すっかり話が逸れてしまいました。で、挿絵を入れる箇所ですけど……』


「いいですね! けど、ひとつ、俺もお願いしたい箇所があって……」


 電話の目的を思い出した二人は、その後は書籍化に向けた打ち合わせに没頭する。


(そういえば、『転こい』の2巻が発売する頃には、ウィルスのことも落ち着いていたらいいな)


 ちらりとそんな考えが頭を掠めたりもしたが、庭野はすぐに忘れてしまう。


 ――その時の自分が、何もかも甘かったのだということを思い知るのに、時間はそうかからなかった。

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