第30話 にやける顔が止まらない(前半)
『ポニー先生、無事校正戻ってきましたよー!』
とある週末。転こいの編集者の加賀から電話があった。
季節は2月の頭。暦上は春の始まりが迫るが、寒さはいまが本番だ。そして庭野のアパートは寒い。
毎年愛用している半纏にもふっとくるまり暖をとりながら、庭野はにこにこと電話の向こうに返事をした。
「よかった! ごめんね、加賀さん。たくさん直したいとこ出てきちゃって」
『とんでもないです! どこもすっごくよかったですし、特に160ページ! 追記されてた王子様の心情の部分、ポニー先生の真骨頂って感じでサイコーでした!』
電話口からも伝わる加賀の楽しげな様子に、庭野も口元が緩んでしまう。
『そもそも最初にいただいた時点でも、終盤に向けて盛り上がりがすごくて、むずきゅん具合もマシマシで……。ポニー先生、最近絶好調ですねっ』
「へへ、そうかな」
手放しで褒められ、庭野は頭の後ろをかく。今はベタ褒めの加賀だが、展開がイマイチのときははっきり言ってくれる。だからこそ加賀に太鼓判を押してもらえると、いいものを書けたのだと実感できてすごく嬉しい。
照れ照れと笑う庭野に、電話の向こうで加賀がにやりと笑う気配があった。
『さては先生、何かいいことがありましたねー? 前にも言ったと思いますけど、作者さん自身がきゅんきゅんしているときは、いい作品が生まれやすいんですよ~』
「えー? どうかなー?」
『あ! 前と反応が違う。やっぱり何か隠してますねー?』
「さあねー」
くすくすと笑いながら、ふざけて食い下がる加賀をあしらう。
そんな庭野の頭に浮かぶのは、やはりというか丹原だ。
"ちゃんと、自分の中で整理がついたら。そのときは、きちんとお前に伝える。だから、少し時間をくれないか?"
神社でそう言われてから、早ひと月が経とうとしている。その間、丹原が仕事の山を迎えたり、庭野も原稿やら校正やらが立て込んだりして、いまだ踏み込んだ話はできていない。
だからといって、前みたいに不安になるかといえば、まったくそんなことはなくて。
(先輩、昨日もすっごい可愛かったもんな)
誰にも見られないのをいいことに、庭野は盛大に顔をにやけさせる。
12月いっぱいは庭野から逃げ続けていた丹原だが、年始休み明けは落ち着いたようだ。というより、諦めたというか。庭野を見るとびくっと逃げたそうな顔を見せるものの、一応は対応してくれる。
そんな丹原で遊ぶのが、目下、庭野の楽しみだ。
昨日なんかは本当に愉快だった。
別部署に顔を出した帰り、庭野はたまたまエレベーターを待っている丹原を見つけた。
時計を気にしているから、取引先へ向かうところだろうか。下を向いた端正な横顔に細い黒髪が落ち、いつものことながらひどく様になっている。
途端にむずむずといたずら心が湧いた庭野は、そろそろと丹原に忍び寄る。ぴたりと背後につけたところで、わっと声を上げた。
"せーんぱいっ。外出ですか?"
"うわっ!?"
突然響いた声に、文字通り丹原は飛び上がった。その拍子に、ドサリとクラッチバックまで落ちてしまう。
勢いよく振り返った丹原は、先ほどの澄ました立ち姿が嘘のようだ。顔を真っ赤にして目を白黒させる先輩に、思わず顔がにやけてしまう。一方の丹原は、動揺しつつも怒り始めた。
〝ば、ふざけんな! 仕事中に何をするんだ!〟
〝えー。外回りする先輩を甲斐甲斐しく見送ろうとしただけだよ。先輩が驚きすぎなんじゃない?〟
あえてとぼけて指摘すれば、丹原も尤もだと思ったらしく、グッと言葉に詰まらせた。
おそらく下手に反論すれば墓穴を掘ると判断したのだろう。しばらく目を泳がせた彼は、やがて諦めてクラッチバックを拾うために身を屈めた。
〝と、とにかく。さっさと仕事に戻れって〟
〝ひどいなあ。まるで俺がさぼってるみたいに〟
〝そういうこと言ってんじゃなくて……〟
丹原の声が途中で途絶えた。バックから零れた荷物を拾う手伝いをする振りをして、庭野が指を重ねたからだ。
ぴしりと固まる丹原に、庭野はそっと顔を寄せた。
〝俺、忘れてないからね? ずっとずっと、待ってるから〟
ガタガタっと丹原が崩れる。さっきより顔を赤くし、尻もちをついて唇を震わせる丹原に、庭野は「あーあ」と笑った。
せっかく拾った荷物が、また床に落ちてしまった。それを再び拾い、カバンに詰めてやる。それから庭野は、いまだ腰を抜かしたままの丹原に「はい」とカバンを差し出した。
〝取引先と約束してるんでしょ? あんまりのんびりしてると遅れちゃうよ? 〟
〝ば、ば、ばか、お前……!〟
〝あ。エレベーター来ちゃった。先輩ともっと話してたかったのに。ざーんねん〟
〝~~~~っ!!〟
しょんぼり(したフリで)眉を八の字にさせる庭野に、丹原はぱくぱくと金魚のように口を開け閉めする。やがて猛然と立ち上がると、勢いよくエレベーターに乗り込んだ。
〝今日は直帰する! ボードにそう書いとけ!〟
〝はーい〟
生真面目な丹原のことだ。どうせホワイトボードには既に予定を記入済み。だというのに、悔し紛れの捨て台詞にそんなことを吐いていく丹原がますます面白くて、庭野はにやにやと笑いながら手を振ったのだった――。
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