第29話 謎の逃亡の理由(後半)


「転こい2巻!?」


 その一言に、丹原は思い切り身を乗り出した。


"実は俺、出版社から『転こい』の2巻出さないかって声をかけられていて”


 絶対に他言無用だと念を押されつつ、庭野にこっそり明かされたのは随分前だ。


 それからなんなかんやで庭野とは気まずくなってしまったし、SNSのポニーさんアカウントもこの件については一切触れないしで、正式に決まったのかどうなのかずっとヤキモキしてきた。


 けれども、いいものに仕上がりますように、ということは。


「2巻発売、正式に決まったのか!?」


「ここだけの話ね。情報解禁はまだ先なんで」


 シッと唇に指を当てる仕草に、慌てて丹原も口をつぐむ。こういう不特定多数が集まる場では、誰が聞いているかわからない。もっとも周囲の人々はお参りやらおみくじに夢中で、他人の話など聞いてなさそうではあるが。


 ひそひそと声はボリュームダウンしつつ、それでも丹原は精一杯に喜びを表明した。


「よかったな! 編集会議の結果待ちって話だったから、どうなったかずっと気になっていたんだ」


「えへへ、おかげさまで。先輩と出掛けた直後くらいに出版社から連絡来て、それから原稿書いてきたんです。それももう、一応書き上がりそうなところで」


「すごいな! そっか、2巻でるのか。楽しみだな!」


 心配していただけに、自分のことのように嬉しい。純粋に――自分でも気がつかないうちに、丹原は声を弾ませた。


 すると庭野はわずかに目を瞠ったあとで、やがて安心したように大きなため息を吐き出した。


「っ、あー……! 緊張した〜……。先輩に、ちゃんと2巻のこと報告できてよかったー……」


「へ? なんで今更、そんなこと」


「だって先輩、俺のこと避けてたじゃん」


 あまりにストレートな言葉に丹原は固まった。


 庭野があまりに普通に話すからもしやバレていなかったと一瞬思いかけたが、やはりそんなことはなかったらしい。


 途端に冷や汗をかく丹原をよそに、庭野は困ったように――ほんの少し寂しそうに目を逸らし、頬を指でかいた。


「俺、小説のことを先輩と話せるのが嬉しくて、その話ばっかりしちゃってたから。いい加減、嫌になっちゃったのかなって思ってた」


「ち、ちがう。まさか、そんなつもりじゃ」


「……ていうか、俺のことも嫌われちゃったかもって、少し、ううん、だいぶ凹んでたんだけど」


「っ、そんなわけない!!」


 思わず遮るように叫んでしまった。


 ――馬鹿だ、自分は。少し考えればわかることだ。急に意味もわからず避けられたら、誰でも腹が立つ。けれども腹が立つのは、避けられたことに傷つくからで。


 まさか身勝手な自分のせいで、庭野を傷つけていたなんて。


 びっくりしたように目を丸くする庭野に、丹原は必死に言葉を探した。


「庭野は何も悪くない。俺の態度がおかしかったのは、あくまで俺の問題だ。本当にごめん!」


「けど」


「それに、これだけは断言できる」


 自分がなぜ庭野を避けてしまうのか。その理由を、うまく説明できる自信はない。けれども、たったひとつ伝えられる明確な答えならば。


「俺がお前や、お前の作品を嫌うことはありえない。……ぜったい。誓って、それだけはないから」


 お前が――ポニーさんが、物語を紡いでくれる限り。そう、心の中で付け足す。


 だって自分は、のだから。


 庭野は目を見開いた。明るい茶色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。


 まるで12月のあの日のようだ。そう思った途端、またいつものむず痒さが全身を襲う。


 耐えきれなくなった丹原は、ふいと目を逸らすと足を踏み出しかけた。


「っ、姉貴がお守りを買い終わってるかもしれない。ちょっと様子を見てくる」


 だが、その肩をぐいと庭野に掴まれた。決して痛くはないのに有無を言わさない手の強さに、丹原はあっという間に追い詰められてしまう。


 大きな木に背中を押し付けられ、まるで通せんぼをするみたいに前を塞がれる。背中に当たる木のごつりとした感触に、丹原は顔をしかめて後輩を睨み上げた。


「おい!」


「じゃあ、どうして俺を避けたの?」


 真剣な顔で問われ、丹原は言葉に詰まった。庭野の瞳に浮かぶ傷ついたような色に気付いてしまい、腕を振り払って逃げることも出来なくなってしまう。


 怯む丹原に、庭野はずいと身を乗り出した。


「俺、先輩と話せなくてすごく寂しかったんだよ。今日だって回れ右して逃げ出そうとして。俺、もうこんなふうになるのやだよ。先輩がなんで俺を避けたのか、ちゃんと話してよ」


「それは……」


 答えようとして、丹原は目を彷徨わせた。


 なにせ丹原自身が、ここひと月の庭野を避けてきた理由がよくわかっていない。それなのに、どうして後輩を安心させてやれるだろう。


(だけど、このままじゃダメだ)


 想いは、気持ちは、言葉にしなくては伝わらない。ぎゅっも手を握り、丹原は辿々しく口火を切った。


「俺もなんでこんなことになったのか、わからないんだ」


 口の中がカラカラと乾く。正面から見下ろす庭野の視線を、痛いほど感じる。


「気づいたら、体が動いて……よくわからないうちに、お前を避けてた。そしたら、どんどん気まずくなって、余計話しかけづらくなって。……本当は俺も、お前と前みたいに話したかった。自分で逃げておいて、勝手な奴だって自分でも思うけど」


「先輩……?」


 庭野の声音が変わって、丹原は思わず顔を上げた。すると庭野は、なぜか先程見せた痛みをこらえるような表情ではなく、どこか困惑した顔をしていた。


 わずかに目を泳がせ、頬を拭う庭野の耳はかすかに赤い。不思議に思っていると、庭野はついに明るい茶色の瞳を庭野に向けた。


「それって、もしかして。俺を、意識してくれたってこと?」


「へ?」


 言われた意味が分からず、丹原はぽかんと呆けた。


(意識? 意識って、どういう……?)


 戸惑う丹原は、まじまじと庭野を見つめる。


 否。正しくは、庭野をまじまじと見つめようとした。


 けれども丹原の青みがかった黒い瞳が庭野の明るい茶色の瞳と視線を交わした途端、丹原の胸はどくりと震えた。


 ――庭野もまた、丹原を見つめていた。いつもの人懐こい、少年のように無邪気な庭野ではない。ぞくりとする大人の男の色気を身にまとい、静かな熱を帯びて、丹原を腕の中に閉じ込めている。


 その表情を見た途端、丹原は『意識』の意味を理解した。


「ば、ば……!」


 馬鹿言え!


 そう叫びたいのに、声が上ずって上手く出ない。それどころか顔までが熱い、気がする。


 否定しなければ。早く誤解を解かなければ。焦れば焦るほど、異様に動揺する自分がますますわからなくなる。そんな丹原の様子に、庭野はなんども瞬きする。


「え、うそ。まさか、ほんとに?」


「ち、ちが!」


「そっか……そうだったんだ」


 丹原の声が耳に入らないのか、庭野はひとりで納得して、ひとりで頷いている。


 そして、真っ赤になって唇を震わせる丹原を見たかと思えば、何を思ったかへにゃりと笑み崩れた。


「どうしよ。俺、すっげーうれしい」


(!!)


 心の底から満たされた、柔らかくて温かい、幸せそうな微笑み。それをまっすぐに向けられ、丹原はさらに顔に熱が集まるのを感じた。


 ぱっと、右手で顔の半分を覆う。


 待ってくれ。もしそうなら。このひと月庭野から逃げ続けてしまった理由やら、今この瞬間胸の中を暴れまわる感情。それらが勘違いでもなく、間違いなく本物だというなら。


(俺は、まさか俺は、庭野のことを……?)


 衝撃の事実に、丹原が眩暈を感じてぎゅっと目を瞑ったその時だった。


「おまたせ、ジェントルマンたち! お姉さまのお帰りよ!」


「うわあ!!」


 文字通り悲鳴をあげて、丹原は夢中で庭野を突き飛ばした。庭野が「わっ!」と小さく声をあげて離れたのと、戻ってきた夏美が得意げにおみくじを突き出すのとが同時だった。


「聞いて驚け、見て讃えよ! 庭野くんの100円玉を預かり、見事ここに引き寄せたるは……って、あれ? 空気変じゃない? どうかした?」


「何も!」


 ヤケクソになって叫び、丹原は顔を背けた。まだバクバクと心臓が鳴っている。とにかく、一度冷静にならなくてはダメだ。冷静になって、自分の気持ちと向き合わなくては。


 当然、庭野はまだ何かいいたげだ。けれども夏美が戻ってきた以上、向こうも一応は空気を読んでいる。


 何度か深呼吸してから、丹原は改めて庭野を見た。


「……とにかく。今日はもう、この話はおしまいだ」


「けど……」


「今日は、って言っただろ」


 庭野が息を呑む。見なくても、その瞳が輝くのがわかった。だから、どこか負けた気がしつつも、丹原は精一杯これだけを告げた。


「いつか。ちゃんと、自分の中で整理がついたら。そのときは、きちんとお前に伝える。だから、少し時間をくれないか?」


「先輩……!」


みるみるうちに庭野の顔が明るくなる。やがて彼は、忠犬よろしく元気に声を弾ませて頷いた。


「うん。約束、待ってるね!」


「ん」


 むずむずと再び迫り上がる感情に、慌てて丹原は顔を背ける。けれども庭野は、満面の白王子スマイルだ。そんなふたりを、不思議そうに夏美がみやった。


「なに? え、なに、この感じ? 私がいない間になにがあったの?」


「秘密! 姉貴には関係ない話!」


「それよりお姉さん、今から飲みに行きましょうよ~。ここに来る途中、美味しそうなおでん屋さん見つけちゃってっ」


「お、いいねー。おっでん、おっでん!」


「俺は行かないぞ? 行かないからな!?」

 

 ――そんな風にして、ちょっぴり気まずかった一か月は、一応は収束したのだった。

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