第4話
急に寒さが和らいだ。瞼に眩しい感じがして、目を開けると、蝶が一匹、羽ばたいていた。温かい色に光っている。蝶はひらひらと上昇した。見上げると、橘の実が、燈籠のように光っている。その枝のひとつに、同じ色に輪郭を光らせた女が、しな垂れて煙管を吸っていた。
「揚羽さん……?」
頭上の光景を見つめながら、呆然と呟いた。女は微笑む。
ああ、そうか。俺は合点した。
「俺は、死んだんですね」
彼女は悠然と煙を吐き出した。
「弔いはご法度と言われただろうに」
彼女は煙管を放って、ふわりと地面に降りてきた。
「ああ、商売道具をそんなにしちまって、お前さんは本当に莫迦だねえ」
彼女は血と泥に塗れた俺の手を取った。感覚が徐々に戻っていく。温かい体温が混ざる。じわりと視界が滲んだ。次いで彼女は俺の顔を拭おうとする。俺は慌てて、自分の袖で顔を擦った。
「いい、いい。汚れるから」
「手前のことを棚に上げてよく言うもんだよ」
彼女は苦笑した。そして真面目な顔つきになって言う。
「いいかいよくお聞き。お前さんは死んじゃいない。町に帰っても、あたしの無実を晴らすなんてことを、考えちゃあいけないよ」
死んでいない。とすると、ここは何処なのだろう。今語らっている人は……いや、それよりも、もし本当に生きているのなら。
「そいつは、できねェ相談だ。あの噂は間違いなんだろう。あんたが、不貞なんてはたらくはずがねえ」
「勘違いだったのサ。うちの旦那は早とちりでねえ。うっかり斬られちまった」
さっぱりとした顔で言われて、愕然とした。
「なんでそんなに簡単に割り切れるんだ。俺は耐えられねえ。あんたがあの噂と共に、世に残るようなことは」
「簡単には割り切れなかったサ。でも随分時が経っちまった。いつまでも昔のことを根に持つ女は、流行らないからね」
「時が経ったって……」
つい先日、亡くなったばかりじゃないか。
「死者と生きてる人は、時の流れが違うのサ。あたしはお前さんの弔いのおかげで、悪鬼に堕ちずに済んだ」
彼女は柔らかく笑って、俺の顔に触れた。
「あたしみたいに誤解で斬られた女なんて五万といる。でもあたしは救われたんだ。だから大丈夫だ。釈明をしに行くなんてお止し。取っ捕まって死ぬよりも、お前さんにはやることがあンだろう。お前さんが結ってやらなきゃ、流行りの髪にしたい娘たちが困るじゃねえか」
「でも、」
「それともなにかい。あたしをおぞましい妖怪にしたいのかい。あたしがここに眠っていることは、お前さんしか知らないんだよ。お前さんが弔ってくンなきゃあ、あたしはたちまち悪鬼になっちまう。……後生だよ。生きておくれ。そして伝えとくれ。あたしみたいな莫迦な女が居たことをサ。悲しい話じゃなくて、明るい話がいい」
「……うん」
頷く。その拍子にまた、涙が落ちた。
「まったく、よく泣くね。いい男が台無しじゃないか」
彼女が涙を拭う。今度はその指の心地よさに、身を預けた。
「揚羽さん」
「ん?」
「俺は、あんたを好いていた」
彼女は一瞬目を丸くして、眩しく笑った。
「ありがとよ」
彼女の手が離れて、ふわりと上昇していく。
「あたしもお前さんが好きだよ、優しい髪結い。ここからずっと、お前さんを見守ろう」
橘の実が光っている。その木の元へ、蝶が一羽、悠然と羽ばたいていく。
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