MOTHER~子守歌の音色は優しく~

届き得ぬ場所

 修学旅行へと出発する日を間近に控えたある日のこと。


「よーし、荷物おっけー、と」


 わたしは特にそうする必要もないのに何度も荷物の整理を繰り返していた。別に強迫的になってるわけじゃない。ただ楽しみで仕方がないだけだ。ちなみに『パスポートを忘れていた』とかいう落ちはない。当然作ってある。日本国発行のやつ。わたしは日英二重国籍だから(どうでもいい話だけど、日本は二十歳になるまでは二重国籍を認めてくれるので)、どちらでも作れるんだけど、いちおう日本のにしたってわけ。


愛凜あいりー。来たでー」

「いらっしゃーい」


 ちなみに、私のパスポートの名だが、Airi KuronoではなくIrene Kuronoとなっている。Ireneの一般的な日本語での表記は、アイリーン。もっとも実際の発音としては、エリン、というカタカナに置き換えた方がだいぶ近いのだが、ともあれ私の英国人としての名はアイリではなくアイリーンである、ということになっている。父も、わたしがヨーロッパなどで暮らす日が来るかもしれないことを考えて、こういう日本でも英語圏でも通用可能な名前を付けたのだろうと思う。


「今夜は和風ハンバーグや」

「わあい和風。あいり和風大好き」

「はは」


 言い方は諧謔だけど、言ってることは嘘じゃない。私は外見だけ見れば金髪碧眼の、まるで耳の短いエルフのような外見をした人間だが、基本的に心根は日本人だ。ご飯に味噌汁、大好き。箸だって上手に使えますよ。この国で生まれ育ってるんでね。


 さて、ハンバーグを焼いているいい音と匂いがこちらに漂ってくる。もちろん言うまでもないことだが、レトルトのハンバーグなどではなく、パテを自分で捏ねて焼くのである。にーちゃんは調理と製菓の専門学校を出ていて、今の職業はパティシエだけど元々どっちも一通りはこなせるし。


 ただそれで一つだけ心配なのはね。わたしが晴れて十六歳なり十八歳なりになって、にーちゃんのお嫁さんにしてもらうじゃない? 実際、わたしが家事をするとして、絶対料理の腕とか、勝てないと思うのよね。どうしようかなー。どうしたものかなー。しんどいなー


 というのは冗談だが、実はしんどいのは本当である。なんか昼間からお腹が痛いんだよね。薬(薬局で売ってる市販のやつ)は飲んでるんだけど、あんまり効かない感じ。というか、またさらに痛くなってきた。いたたたた


「愛凜? どないしたんや?」

「ちょっと……お腹が……痛、いたたたた」

「なんや、様子おかしいな……病院、いっとこう。な。今から夜間外来調べるから、ちょっと我慢してな」

「う、うん」


 で、わたしはとうとう脂汗をたらたらと流すまでの状態になりながら、にーちゃんに車で病院へ送ってもらった。そして。


「急性虫垂炎です。即刻手術します。このまま入院です」


 え?


「あの……しゅ、修学旅行が……明後日出発で……」

「無理ですね。既に腹膜炎が起こりかけていますから、しばらくは入院が必要です。諦めてください」


 そ、そんなぁぁぁぁぁぁ


 あああお腹痛いぃぃぃぃ

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