人参は煮えたか

「ねー、にーちゃん」

「なんや。そろそろ出来るで。あっち座って待っとりや」

「それはいいんだけど、あたしのお皿、ニンジン抜いてもらえないかな?」

「あかん」

「にゃー!」

「にゃー言うても、あかんもんはあかんで。いい子はニンジンも食べなあかん」

「あたし、もう十四歳だもん。大人だもん。子供扱いしたらだめ」

「大人もニンジンは食べなあかん」

「にゃー」


 というわけで、たまねぎとジャガイモとニンジンが入ったシチューの皿が、わたしの前に出された。焼き立てのバターロールのいい香りがしている。


「Les carottes sont cuites.人参が煮えましたよ、っと」


 わたしの父は英国で洋菓子の修行をするという、今時の日本の洋菓子界隈では割と珍しい経歴の持ち主だったのだが、にーちゃんはごく無難にフランス風の菓子の作り方を修行しているので、多少だがフランス語を話せる。わたしも。いや、わたしがフランス語を少し分かるのはパティシエールを目指しているからというわけではないが。


「Les carottes sont cuites.つまり食べなきゃダメ、ってことだよね」

「せや」


 現代フランス語で『人参が煮えた』という慣用句にはいくつかの意味がある。今使ったのは、「お手上げの状況、もうどうにもならない」という意味の言い回し。他に、「バレてしまう」「解決策がない」「(人が)亡くなる」という使い方もある。


「あたしの父さんも、今頃どこかで人参を煮ているのかな」

「そうやなあ……」


 今の『人参を煮ている』には、二重の意味として最後のやつのニュアンスを込めた。これだけ探して見つからない以上、死んでいる可能性はもちろん高い。そうだとしても死体が出てこないのは不思議ではあるのだが。なお、「解決策がない、お手上げ」というのは分かり切ったことである。私立探偵その他、打てるべき手は全部打った。もうどうしようもない。七年もの間、わたしたちだって手をこまねいていたわけじゃあないんだ。


「おれは、叔父貴にはどっかで、まだ林檎でも煮ててほしいけどな。まだ、ヨークシャー・アップルパイの作り方を伝授してもらってないままなんや。どんな秘伝があったのか分からんけど、いくらやってもあの味が出ん。ウエンズリーデイルチーズがあるだけじゃあかんのやな」

「んー。ちなみに今日のデザートは?」

「ダンディーケーキ」

「オレンジの皮のやつか。材料を無駄にしない。主夫の鑑だね。感心感心」

「せやで。これは叔父貴の直伝やしな」


 父は林檎のスイーツが大の得意で、次いで得意なのはオレンジなど柑橘類を使った洋菓子だった。これにはちゃんと理由があって、父はセザンヌが好きだったのだ。フランス後期印象派の画家ポール・セザンヌの代表作と言えば『サント=ヴィクトワール山』がもっとも有名だが、あの山が彼の看板になるよりももっと前、若き日のセザンヌが描いて出世作となった作品に、『林檎とオレンジのある静物画』というのがあるのである。


 父の店、また同時に父が出した店の第一号店である『EARTHBOUND 本店』の壁には、今もその『林檎とオレンジのある静物画』が掛けられている。いや、いくらなんでもセザンヌ本人の肉筆のそれではなくて写しだけど。ちなみに、わたしが住んでいるこのマンションにも、セザンヌの写しが飾ってある。『エクスの風景、サント=ヴィクトワール山』。1906年、セザンヌの没年に描かれた最後期のサント=ヴィクトワール山連作の一つだ。


「しっかし、良かったな。修学旅行、希望のところに行けることになって」

「うん。がんばって根回しして、クラスメイトを説得して投票を制した甲斐がありました」


 わたしが通っている中学校はそのへんの公立ではなく、ぶっちゃければ金持ちが行く金持ちのための私立学校で、修学旅行先はヨーロッパである。ヨーロッパったって広いが、生徒たちの投票の結果として、南仏プロヴァンスを中心とした一帯を回ることになった。そしてプロヴァンスには何があるかというと、セザンヌの愛したサント=ヴィクトワール山があるのである。


「おみやげ、楽しみにしててね。にーちゃん」

「おみやげはいいけど、おれはだいぶ心配やけどな。フランス、菓子はいいけど正直あんま治安はよくないしなー……心配や」

「もう。にーちゃんってば、ほんと、お父さんみたいだったりお母さんみたいだったりするんだから」


 わたしのためにそうしてくれてるってことはもちろん知っているけど、それはそれとしてたまにウザいし、子供扱いされているようでムカつく部分もあるのであった。

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