サント=ヴィクトワール山は遥か遠く
きょうじゅ
サント=ヴィクトワール山は遥か遠く
EARTHBOUND~地球への郷愁~
二人のクロノ
一流のパティシエとして世に広く名を知られていた父が失踪したのは私が七歳になる直前のことだった。それはあまりにも突然のことで、世間の人はみな驚いたし、私たち家族、つまり私と母はもっと驚いた。父が自発的に失踪するような理由は、家族の眼で見た限りではまったく一つもなかった。
何しろ著名人で社会的成功者でそれなりに金はあったからそっちの角度から見れば何か他害的な何かがあって失踪するような理由はあった可能性はゼロではないが、もちろん失踪後にいろいろ調べはしたものの手掛かりも行方も杳としてつかめなかった。少なくとも誘拐の脅迫状などはどこからも来なかったし、それに類するような事件性も何もなかった。
あれは私の身体に半分流れている日本人の血の感覚で言わせてもらえば、ほとんど神隠しのようなものであった。さっきまで店で仕事をしていた人間が、ちょっと倉庫にものを取りに行くというていで外に出て、そのままいなくなる。財布は持っていたようだが、それにしても、コックコートを着たまま、片手に麺棒を持って(父が愛用していたはずの麺棒は一緒に行方不明になりどこからも見つからなかった)、ふらりと失踪する物好きがあるものだろうか。いったい何があったのか、いまだに分からない。ちなみに私や母に対する書置きのようなものも一切なかった。遠くから手紙が来たりなんかしたこともまったくない。
日本の法律上、完全な生死不明の失踪状態から丸三年が経過すると、その配偶者には法律上の離婚を宣言する権利が認められる。だが、母はそれをしなかった。それでも時間は容赦なく流れゆき、さらに四年が経過した。同じく失踪状態が丸七年継続すると、その人間は法律上死んだのと同じ扱いになる。葬式はやらなかったが、法律的には、私は既に父親を失った身である。そして、その時、母と相談したのだ。
「エリ(母は私を呼ぶとき、いつもこう呼ぶ)。マムはヨークシャー(母の故郷)に帰ることにするわ。もちろん、ユーは望むなら一緒に来ることができるし、そうすれば英国の市民権を得ることもできる。でも、強要はしない。ユーはどうしたい? もちろんまだ、今すぐに決めなくてもいいけれど――」
「ううん、ママ。わたしは日本に残るわ」
「……そう。でも、マムやエリのような、金髪碧眼の女が一人で暮らしていくには、日本というところはそれなりにシビアな国よ。それはアンダスタンしているわね?」
「大丈夫。ぶっちゃけると、お金はあるし」
父が法律上死亡したため、結構な額になるその遺産が、母と私で山分けである。遺言状というのは何にもなかったので。そもそもだいぶ以前からこうなることは分かっていてこうするつもりでいたので、今住んでいるマンションの所有権も私に帰する形にしておいてある。ビバ、自由。
「お金があっても、ユーは子供なのよ。これからのことは、一樹サンによくお願いしてはおくけれど」
一樹さんというのは父の兄。つまりわたしの伯父であるが、彼は純血の日本人である。菓子店の菓子店としての経営そのものには関わっていないが、しかし父のビジネス上のパートナーであった。
「うん。それもそうだし、だって、わたしには
「それも心配なんだけどね。いくら従兄だからって、あんまり世話をやかせすぎるものではないわ」
聖にーちゃんは一樹おじさんの息子である。一樹おじさんは違うのだが、聖にーちゃんはパティシエで、かつてはわたしの父の弟子だった。
「いーんだもん。だって、結婚したって名前変えなくていいんだよ?」
「つまりユーがそんな調子だからマムは心配なわけ。アンダスタン?」
「えへ」
そういうわけで、母は旅立っていった。わたしは14歳になったばかりであり、法律上は伯父の後見を受けている立場だが、事実上のことを言えば、たとえば聖にーちゃんがやっている店のオーナーはわたしである。
「
「にーちゃん! いらっしゃいっ。今日は何作ってくれるの?」
「ビーフカレーかビーフシチュー」
「じゃあビーフシチューがいいな」
「おっけ。じゃ、時間はかかるからのんびり待ってな」
「パンも焼いてくれる?」
「ええで。バターロールでええかな」
「うん。わーい」
この人がわたしの従兄、聖にーちゃんである。多分わたしの父に憧れてのことだと思うが、パティシエともあろうものが、短く無精髭を伸ばしている。失踪当時の父ほどの威厳が出てくるまでには、まだ当分かかるだろうとは思うけれど。
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