#003 水族館でアイスクリンを

 赤点だった。返却されたテスト用紙を開いてみる前から、それは分かってた。

 私は算数が苦手だった。数学もだ。それが高校の数学になるともう壊滅的だ。

 今回も、採点の赤ペンが私の回答用紙をメッタ切りにしていた。

 私はそれを眺め、にんまりとした。

「お母さん、本当に本当にごめんなさいだけど、今回も数学が……」

 家に帰ったらたまたまいた仕事帰りの母親に、さっそくと思ってテストを見せた。

 真っ赤っかなテストを見て、母はやっぱりという顔と、驚きの顔を両方同時にした。

「アンタこれ何点満点⁉︎」

「百点満点です……たぶん?」

 ヘラヘラ笑って言うと、母は暗い顔でいつも通り深いため息をつき、ポケットからスマホを取り出した。LINEで何か送信している。

 よーし予定通りだ。

「行って来な、水族館。どうせこうなると思って、先に頼んどいたし。ケンちゃん、今日も水族館にいるはずよ」

 重苦しく言う母の言葉に、私ははーいと頷き、制服を着替えてから行くか少し迷って、半袖セーラー服の制服のままで家を出た。

 ケンちゃん!

 私の幼馴染!

 幼児の頃から兄妹同然に育った近所のお兄ちゃん。うちの親が一戸建ての家を買って引っ越すまでは、マンションのお隣さんだった。

 ケンちゃんはとてもカッコよくて、頭が良くて、でもちょっと変な子だった。

 水族館が好きで。人間より魚が好きみたいだった。

 私だけは別だけどね。

 私はそう、ずっとそう思ってるけど、でも違うのかもしれない。

 もしケンちゃんが私を好きだったら、私はケンちゃんに会うのに赤点のテストなんか持っていかなくても良かっただろう。

 うちの娘ほんとにバカなのよって、お母さんはケンちゃんのママに愚痴る。また数学のテストが赤点だったのよ。お願いだからケンちゃんに勉強見てもらえない?

 塾の費用は高すぎる。ケンちゃんなら安上がり。うちのお母さんはそう思ってるみたいだけど、ケンちゃんには迷惑な話だろうな。

 もしも私のこと、好きじゃないんだったらだけど。

 私は水族館のチケット売り場で学生証を見せて、学割料金を払った。

 平日の夕方、水族館は空いていた。小さい子を連れた親たちが何人かいるだけ。

 ケンちゃんはいつも水族館にいる。

 水族館の人ももう、子供の頃からほぼ毎日来るケンちゃんのことは、友達か家族みたいになってる。

 スタッフさんに、ケンちゃんいますかって聞いたら、大水槽で見たよと教えてくれた。

 でっかいエイが何匹もいる大水槽で、ケンちゃんはぐるぐる回るイワシの群れを見ていた。真っ青な世界の銀色の竜巻みたいだ。

「ケンちゃん」

 私は小さい声で呼んだけど、ケンちゃんは気づかないみたいだった。

 でもそれは嘘だ。

 私はもう声はかけず、ケンちゃんが座ってる観覧用のベンチの隣に座った。

「もう来ないでくれない? 迷惑なんだけど」

 だるそうにケンちゃんがのんびり言った。

「本当に本当にごめんなさい」

 私はうつむいて、恐縮して言った。そして目は合わせないまま、黙って真っ赤な回答用紙をケンちゃんに差し出した。

 薄暗い館内ではテスト用紙はよく見えない。ケンちゃんの顔も。

 私はノーリアクションのケンちゃんのほうを、恐る恐る見上げた。

 苦笑いしたケンちゃんが、私にコーンカップに盛ったアイスクリンを差し出していた。

「来るの遅ぇから、ちょっと溶けてるよ」

「来てから買えばよかったのに」

「アイスクリンのおっちゃんが帰っちまうだろ。四時までなんだからさ」

 ケンちゃんはそう言って、私の手にコーンカップを押し付け、テスト用紙を受け取った。

 ケンちゃんは黙って問題を解き、私は溶けかけのアイスクリンを舐めた。

 子供の頃からの私とケンちゃんの好物だ。夏の間だけ、おじさんが自転車で売りに来る。

 いつだったか、小学生の頃の夏休み、ケンちゃんのパパが私とケンちゃんをこの水族館に連れてきてくれた。

 午後から仕事があるパパに、ケンちゃんはわがままを言って、どうしても行くって。私も喜んでついてきた。

 ケンちゃんのパパに急な仕事の電話がかかってきて、大水槽のベンチに私たちを座らせ、駐車場で電話してくるから、ここから離れるんじゃないぞ、と言った。私たちは買ったばかりのアイスクリンを食べていたと思う。

 私ももう、細かいところはよく憶えてない。でも、ケンちゃん家のおじさんが、絶対にこのベンチで待ってるんだぞって、何度も念押ししていったのを憶えてる。

 おじさんは戻ってこなかった。駐車場の車の中で仕事の電話をしてた時に、おじさんは急に死んじゃったんだ。心筋梗塞だって。

 ケンちゃんは自分がすぐに気づいて、救急車を呼べたら、おじさんが生き返ったんじゃないかと思ったみたい。

 でも、私たちにはどうしようもなくて、ただこの大水槽のベンチで待ち続けるしかなかったんだ。

 ケンちゃんが悪いんじゃないよ。

 私はそう言ったけど、ケンちゃんはそんなの聞きたくないみたいだった。

 毎日この水族館に来て、今もときどきお父さんを待ってる。

 そうじゃないってケンちゃんは言うけど、じゃあ何なの?

 魚が好き?

 おじさんが亡くなって、ケンちゃんが人間と話さなくなり、私は仕方なくあの手この手でケンちゃんに話しかけるため、水族館に通ったんだ。

 でも迷惑だったのかな。

 わかんないけど、私が算数の0点だったテストを持っていった時、ケンちゃんはびっくりした顔になって、お前バカだなって私に言った。一年振りに喋ったんだよ。

 そういう言い方ってひどくない? 私にも同情してよ。私だって、優しかったケンちゃん家のおじさんの死はショックだったんだから。

 勉強なんて手に付かないよ。

 手に付かなさすぎだろ。

 ケンちゃんはそう言って、私のテストに正しい答えを書き、つき返してきた。

 最初の頃、ケンちゃんはその時だけ喋ってたんだ。

 今はもう、ケンちゃんは普通に喋れて、大学にも通ってて、私としか喋んないなんて、そんなことないけど。

 懐かしいアイスクリンの味が舌で全部溶けるころ、ケンちゃんはいつもみたいに解き終わった答案を突き返してきた。

「解き方わかんなかったらLINEで聞いて。俺、今日友達とバイトのシフト替わったから、時間ないんだ。夜遅くでもいいし」

「わかった。ありがと」

 なんだLINEかと思って、私はがっかりして笑った。ケンちゃん友達いたんだ。バイトしてたの知らなかったな。だってケンちゃんは自分のことは全然なんにも喋らないんだもん。喋るのは算数の話ばっかり。つまんないな。

沙良さら

 ケンちゃんは私の名前を呼んで、もう立ち去るみたいだった。

「もう赤点のテスト持って来んな。今回が最後だぞ」

 厳しい声でケンちゃんはそう言った。

 私はしかめっつらでケンちゃんを見上げた。ケンちゃんもしかめっつらで私を見てた。

「お前、バカじゃないだろ。知ってんだぞ。いいかげんにしろよ。真面目にやれ」

「赤点のテスト持って来ないとケンちゃんが私を無視するからだよ」

「してないだろ、無視なんか」

「してるよ!」

 私が隣に座っても、いつも知らん顔するじゃん!

 なんでだよ! いいかげんにして。

 迷惑なら迷惑って言ってよ!

 ……さっき言ってたか。しまった。そんなこと言わないでよ、ケンちゃん。

 ちょっと怒ってたのが、急にしょんぼりしてきて、私はまた項垂れて言った。

「ほんとに迷惑? 私もう、来ないほうがいい?」

「お前の勉強の面倒はもう見ない。俺はお前の学校の先生でも、家庭教師でもないし」

 ケンちゃんはきっぱりそう言った。

「で、でも……友達でしょ?」

「はぁあ? 何言ってんだよ。友達じゃない」

 ケンちゃんは呆れたみたいに声を裏返して言った。

「彼氏だろ」

 三平方の定理だろ、みたいにケンちゃんは言った。

 私があんぐりして見上げると、ケンちゃんは分かってないなっていう目で私を見てきて、そして素早くキスした。

 ぎゃああ何やってんのよおお!!

 ファースト・キスなのに!?

「何やってんだ健太郎!? 通報するぞ!」

 大水槽にいた水族館のスタッフさんが、驚いて怒鳴ってきた。

「あっ……大丈夫です! 私、ケンちゃんの彼女なんで。大丈夫です!!」

 通報されたら大変と思って、私は真っ赤な顔でジタバタしてスタッフさんに伝えた。

「やっと正解だな」

 ケンちゃんは今さら恥ずかしそうに、小さい声で言った。

 通報するぞ……。

 私はそう言いたかったけど、声にならなかった。

沙良さら、次はテスト持って来るなよな」

「アイスクリン食べに来る」

 ケンちゃんはそれにも苦笑したけど、もう何も言わなかった。

 そして私をほっといてバイトに行ってしまい、私は暗い大水槽の部屋でひとりぼっちになった。

 自分の冷たい唇に触れると、胸が震えて、ため息が出た。

 アイスクリンの香りがする。

 私たちにはこの場所にやっと、新しい思い出ができたのだ。


END



●原案となったカード

『赤点を取った日に / 水族館で / アイスクリンを / 心待ちにしていました』

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