初乳

 元気な双子を、無事にこの世に生み出した。

 まさに、母子(じゃなくて父子??)ともに健康。


 ——なんという幸せだろう。



 無事分娩を終えた俺は、以前入院していた時と同じ静かな個室へと移された。

 これで、退院まで数日間ここで心穏やかに——そんな風に喜びを噛み締めているのも束の間だった。



 手術後1時間ほど経ち、麻酔が切れてくるに従って、手術痕の痛みと後陣痛こうじんつうがじわじわと俺を襲い始めた。

 後陣痛というのは、胎児が出た後の子宮が元の大きさに戻ろうと収縮することで起こる痛みだ。双子の場合は当然単胎児より子宮は大きく広がっており、その分収縮の度合いも激しくなる。——つまり、後陣痛の痛みも一層激しい、ということだ。


「ぐううっっ……痛い……半端なく痛い……

 後陣痛でこれほどって、本当の陣痛ってどれくらい痛いんだ……??」


 下腹部の内側をぎゅううっと絞り上げられるような強烈な痛みが、波のように繰り返される。

 予定された日時の帝王切開ならば、痛み止めの点滴を入れたりという準備もできたのだが、緊急だったためそういう処置もできず、処方された飲み薬だけで乗り越えるしかない。



「柊くん……そんなに痛くて、本当に大丈夫なの? 先生呼ぼうか?」

 唸りを上げる俺の横で、神岡がオロオロと椅子にも座らぬまま心配している。


「いや……きっとみんなこうやって痛みに耐えてママになるんですよ、俺も負けてられない……うぐっ」


 俺はなんとか笑顔を作りつつ、自分自身を励ますためにもそんなことを言ってみる。

 とりあえず俺的にはママになる気はないのだが、この際もうそんな細かいところを訂正する余裕などない。しかしとにかくあれだ、出産ってのは冗談抜きで猛烈な大仕事だ……ぐぬぬぬぬ。



「三崎さん、どうですか?」

 その時、病室のドアが静かにノックされ、処置用具をカートに載せた藤堂がにこやかに入ってきた。


「先生……痛いです……」

「うん、そうでしょうね。そろそろ麻酔が切れて、いろいろ痛みが強くなる頃だ。これも妊夫の仕事だと思って頑張りましょう。メインの大仕事は無事済んだのですから、あと一息ですよ。

 それから……もうひとつ、とても大事な仕事があってね……」


 そんな風になぜか少し言い澱みながら、藤堂はちらりと神岡の顔を窺う。


「大事な仕事……?」

「そう。

 ……三崎さん、可能ならば初乳をぜひ赤ちゃん達に飲ませたいと希望していたよね?

 妊娠中にも、胸がムズムズしたり張るような感覚があったようだし……先程見た感じでは、僅かではあるが乳房と乳首に明らかに発達が見られる。

 私の予想通り、恐らく君の身体は母乳を分泌する準備ができているはずだ。

 しかし、今の状態ではまだ下半身は動かないし、赤ちゃんたちに直接与えることはもちろんできない。

 なので……えーと……

 お二人の同意が得られれば、初乳の搾乳を試みようかと」



「…………搾乳……?」


 その瞬間、神岡の表情が鬼のように険しくなった。


「……まっ待ってください先生。

 だって今彼はこんなにも強い痛みに悶えてるんですよ? そんなことできる状況には思えないんですが……!?」


「うん。

 それどころか、搾乳のために乳首を刺激すると、それに連動して子宮の収縮が起こるため、後陣痛は一層強くなる。

 しかも多胎児妊娠の場合は、子宮収縮による切迫早産を避けるため、妊娠期間中の乳房や乳首のマッサージ等も行うことができない。つまり、母乳を赤ちゃんに与えるための外側からの準備が全くできていないという状況だ。搾乳はかなり痛みがあると思うが、ちょっと我慢しなきゃならないんだよね。

 ただ——母乳をどれだけ重視するかで、今の処置が決まる。

 初乳にもそこまでこだわらないし、今後も粉ミルク等で済ませるということならば、ここで敢えて痛い思いをする必要はないだろう。


 仮に分泌があっても、三崎さんの場合は、女性のように何ヶ月間もふんだんに赤ちゃんに飲ませ続けるというのは当然無理だ。出ても少量、分泌期間は長くても1〜2ヶ月程度……ではないだろうか。あくまで予測だがね。

 だが、積極的に出し、吸わせることで母乳の分泌は活性化するからね。できるだけ赤ちゃんに母乳を与えたいならば、頑張って出すことをお勧めする。


 ……ここからの方針は、三崎さんと神岡さんの判断に任せるよ」



「……どうする、柊くん?

 これ以上そんな大変な思いをしなくても……」

「やります、もちろん」


「…………」


「だって。多分出るんでしょう?

 赤ちゃんにとって欠かせない栄養素ですよ? 何もせずに無駄にしちゃうんですか?

 ——出せる限り、二人に与えてあげたいと思いませんか?」


 俺はぐっと神岡を見つめる。



「————……

 わかった。

 君は、言い出したら聞かないからな」


 そんな俺を見つめ返し、彼はふっと諦めたように微笑んだ。


「うん。私も三崎さんの意見に賛成だ。

 それに……愛する人の授乳風景なんて、これほど尊いものはないですからな。パパはしっかり見とかなきゃ損ですよ」


 藤堂のそんなひと言に、神岡はハッと重大な過失に気づいたような顔になる。


「……先生……なんでそんな余計な情報を……

 なんか急にむちゃくちゃ恥ずかしくなってきちゃったじゃないですか……」

 俺は今更湧き上がる羞恥心を堪えつつ、ギリっと藤堂を見据えた。

「ん? 余計な情報? むしろ最重要な情報だ。慈愛に満ちた眼差しで我が子を見つめる母親の姿は生物の種を問わず最高に美しい。私はごく普遍的なことを言ったまでだよ」

 俺の反撃に表情も変えず、藤堂はさらっとそう答える。

 真剣な顔でそれを聞いていた神岡も、何やら俄かに態度を変え始めた。


「……まさにその通りだ。

 母乳を諦めるなんて、僕はなんて愚かだったんだろう。

 ——先生、やはりここは是非ともよろしくお願いします」


 おい!!!

 だから何気にエロいって!!!!


「うん。そういうことでしたら、早速試してみましょう。——三崎さん、痛いと思うが、少し我慢してください。

 えーっと……で、神岡さんは、搾乳に立ち合われますか……?」

「イヤです!! それはダメです絶対っっ!! 樹さんは見ないでくださいっっっ!!!」

 俺は真っ赤になってその有り得ない事態を断固拒絶する。

「え……それはないじゃないか柊くん……なんで先生は良くて僕はダメなんだ……」

「先生は医師なんだから仕方ないでしょっ!? そういう子供みたいな駄々こねるのやめてくださいっ!!!」


「……ということですから。

 なんか申し訳ないですが、神岡さん。

 しばらくベッドサイドのカーテン閉めさせていただきますねー」


 落胆を隠さない神岡へ向けてニッと微笑むと、藤堂はシャッとカーテンを引いた。



「じゃ……少し触るよ?」

「……お願いします……

 ……って……ちょっちょっと待って先生っ、なに痛い!!! ぐあっ……下腹がぎゅううってーーーー!!!!」

「うん、乳首刺激してるから相当痛いよね……

 ……あ、でも……ほら、見てくれ……すごいぞ、やはり出る……!!

 ああ、なんと素晴らしい……!!

 よしっ、三崎さんこの調子だ! 乳房少しほぐすからね」

「ほんとだ……ほんと出てる……すげー……

 しかし異常に痛い……っっ」

「よし……じゃ、もう一度……今度は反対の方いくよ?」

「……っっっうぐぐぐ!!!! ぐああああーーーっっいっいだいってば勘弁してくださいぃぃっっ……」

「柊くんっ……ほんとに大丈夫なのか!!?? ここ開けちゃダメか!?」

「ううっ……ダメです絶対!!」

「いやあ〜驚いた、思ったよりちゃんと出てますよ神岡さん!! これは赤ちゃんたち大喜びだ!!!」

「だからっ樹さん覗かないでくださいってば!!!」



 ——そんなこんなで、初乳の搾乳は予想以上の収穫を得ることとなり……静かな個室は男三人の異様な熱気でいつになく賑わったのだった。



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