抱く

 緊急帝王切開による分娩を終えた翌日、朝8時半。

 俺と神岡は、心臓を半端なくバクバクさせながら病室で藤堂を待っていた。



 神岡は、昨夜遅く病院を出て家で睡眠だけ取ると、今朝早くまた病室へ戻ってきた。どうやら片時も俺と子供達から離れる気はないらしい。これも年末年始の休暇中だから叶うことであり……元日生まれの我が子たち、相当に親孝行だと改めて思う。


 昨日一日ついていた尿管カテーテルは、今朝外された。だが後陣痛は依然続いており、トイレまで歩くのも痛みに腰を折り曲げながらよろよろと一苦労だ。退院までは少なくとも1週間はかかるらしく、はっきり言ってまだまだ快調とは言い難い。

 ただ、自分の人生の中で間違いなく記憶に深く刻まれるだろう瞬間が、もうすぐそこに来ていた。



「よし。手術痕の出血も問題ないね。体温や血圧も安定している。——これならいけそうかな」

 今から約30分前、朝8時。

 手術後初めての水分摂取がやっと許され、久々のお茶の甘さを味わった後。

 回診に来た藤堂が、俺の様子を注意深くチェックし、明るい笑顔を俺に向けた。

「まだ痛みはあるかもしれないが、術後の経過はすこぶる順調だよ。

 もし三崎さんの体調が大丈夫そうなら、次の授乳時間に、ベビー達をここへ連れてこよう。私と助産師が介助するから、少しずつ授乳の練習をしてみようか。

 次の授乳時間は9時だね。……そうだ。神岡さんもいらっしゃるし、少し早めに来てお二人に赤ちゃんの抱き方なども教えよう。

 ——どうかな? 当然無理はしちゃダメだけどね」


「え……ほんとですか!?

 はい! よろしくお願いします!!」

 俺は当然、即座にそう答えた。

 実際のところ、この状態じゃまだしばらくは子供達を抱けないのかもしれないなあ……などと薄々思っていたのだ。


「柊くん、痛みとかは大丈夫? まだ辛そうだけど……」

 神岡が心配そうに俺の表情を窺う。

「ええ、大丈夫です。

 それに……今、二人に会えるんだと思った瞬間、何だか全身にすごい力が湧いて。いろいろな痛みなど一気に遠退いた気がして——なんでしょう、不思議ですね」


 俺の言葉に、藤堂も満足げに頷いた。

「うん。それが母性本能というものの力だ。

 男性である君が妊娠や出産をした場合、君の心理面に母性は生まれるのか……実は、そこはずっと気になっていた点だった。

 けれど、私の心配は全くの杞憂だったよ。

 さっき、朝6時の搾乳時に、助産師が双子くんの写真を君に渡しただろ? それを見た途端、まるで刺激されるかのように君の母乳の出が良くなったと、助産師から報告があった。——君は、それに気づいたかい?」


「……あ、そう言えば……二人の顔を見た瞬間、喜びと同時になんかきゅうっと胸が熱を持ったような……」


「うん、そうか。報告を聞いて私も驚いた。これほどに、子供たちを育みたいという本能が君の中に生まれているとはね。

 君の母性本能は、確実に動き出している。これは間違いない」



 ——母性本能が、自分の中で確実に動いている。


 これまでは、「だって俺は男だし」という気持ちで、何となく受け入れ難く思ったこともあったが……

 藤堂の言葉が、今は何よりも心強く胸に響く。

 新しい命を守り、育てるためになくてはならない本能が、俺の中でもしっかりと生まれ、働き出しているのだ。


「……よかった。

 嬉しいです。ちゃんと自分に母性が育ってるみたいで」


「うん。君ならばしっかりと子供たちを守り、深い愛情で育ててやれるはずだ。

 赤ちゃんたちの世話に関しては、君の回復の具合を慎重に見ながら進めていこうと思っているが、目下のところ気がかりな点などは全く見受けられない。若い男性の体力や回復力はやはり目を見張るものがあるな。いやあ本当に頼もしい限りだ」


 藤堂は、まるで宝物を目の前にした少年のように嬉々とした様子でそう話す。

 彼にとっては、今回の全く未知の事例に医師として立ち会うことで実証される事象の一つ一つが、大きな感動であり、喜びなのだろう。



「そうか……もうすぐ、二人を抱けるんですね……!」

 神岡も、ここでやっと大きな喜びに顔を輝かせる。

「そうですよ。——新しい命の感触に胸が震える瞬間です」

 藤堂は、自分自身のことのように嬉しそうな微笑みを浮かべた。








 8時半を少し過ぎた頃。

 新生児用の小さなベッドが二つ、病室の俺のベッドの横へと運ばれて来た。

 それぞれのベッドの枕上には、『三崎柊ベビー兄』『三崎柊ベビー弟』と記された可愛らしい名札が付けられ、二人の足首にも、同じ記入をされたゴムのリングがついている。

 柔らかなシーツの上で、生まれたての命がパタパタと小さな手足を動かしていた。


「おめでとうございます。本当に綺麗な双子くんですね。

 足のリングは他の赤ちゃんとの取り違えを防ぐための大事な目印ですので、退院まで絶対に外さないようにしてくださいね」

 助産師が優しい微笑みでそう説明する。



「——はい——……」


 そう返事をしたきり、俺と神岡はしばらく言葉も出ないまま、その愛おしい姿を覗き込んだ。


 手も足も、頭も。信じられないくらい小さく。

 まだシワシワと赤い肌の中に、黒く潤う瞳が輝く。

 晴の髪は黒く艶やか、湊の髪は栗色で柔らかそうだ。


「——今のところ、お兄ちゃんは三崎さん、弟くんは神岡さんにどことなく似てる気がするな」


 神岡の横から微笑ましげに二人を覗き、藤堂はそんなことを言う。


「——……そう思いました、俺も」

「まあ、子供の顔は成長に従いどんどん変わっていくけどね」

「……先生、触れてみてもいいですか?」

 恐る恐る問いかける神岡に、藤堂は微笑む。

「うん。赤ちゃんの手のひらに、指を当ててみてごらん。握り返してくるよ。把握反射といって、原始の記憶の名残の一つだ」


 藤堂の言うように、神岡が晴の小さな手のひらにそっと指を当てると、小さな小さな指が、その指をきゅっと握り返した。



「——あ……」


 それは、我が子と初めて交わす挨拶のようで——

 笑みを零した神岡が、思わず瞳を潤ませる。

 同時に、俺の視界もぶわっと熱く滲んだ。



「よし。じゃあ、抱っこと授乳のレッスンだ。

 最初はお兄ちゃんからだな」

 藤堂が近づき、晴を優しく抱き上げた。


「じゃ三崎さん、いいかな?

 先ずは赤ちゃんの抱き方だ。神岡さんも一緒に見ててくださいね」

 

 ベッドの上半身を起こし、胸をはだけた俺に、藤堂はゆっくりと晴を抱かせる。


「こうして……まだ首が座らないうちは、横抱きにします。肘の内側に赤ちゃんの頭を乗せるように、しっかり首を支えてあげてください。そしてもう一方の腕で、赤ちゃんのお尻と背を包み込むように身体を密着してあげて……

 うん、そう」



「——……」



 ああ——


 感動が何か言葉になるかと思ったのに——何一つ、言葉にならない。



 初めて胸に抱く、この温かさ。

 重さ。柔らかさ。


 自分自身の生を懸命に紡ぎ始めた、この小さな手足。

 俺を見上げる、瑞々しい瞳。


 この愛おしいものに、与えてやれるものは、全て与えたい。

 その手に、一つでも多くの幸せを掴ませてやりたい。 

 ——自分の全力をかけて。



 気づけば、また新しい涙が溢れた。


 俺たちの様子を見守る神岡も、堪えきれないものを誤魔化すように掌でぐしっと目尻を擦った。



「では、次は神岡さん。お手伝いしますので、弟くんを抱っこしてあげてください」

 頃合いを見て、助産師が神岡ににっこりと微笑む。

「はっはい……うあ……半端なくドキドキする……」

 神岡の表情が、喜びと緊張で見たこともない顔に強張った。


「腕はこう……身体をしっかり支えて。そうです。お上手ですよ!

 ……ああ、なんて……」

 丁寧に説明をしながら湊を抱かせた神岡の姿に、助産師の瞳が思わずキラキラとハートマークを零した。


 生まれたての小さな我が子をその広い胸に抱き、優しい笑みを注ぐ美しい男の姿が、これほどに甘く胸の高鳴るものだとは——

 ぶっちゃけた話、その圧倒的なオーラに俺も心臓をぐっさりと射抜かれた。



「湊……パパだ。わかるか?

 ——初めまして」


 湊を見つめ、優しくそう囁く神岡の表情が、ゆっくりと……「父親」へと変わっていく。



 間違いなく人生で一度きりの、この眩しい瞬間を、俺は深く深く心に刻み込んだ。









「じゃあ、次は授乳だが……先ずは、試してみようか。

 三崎さん、ちょっと胸触るねー」


 お腹がすいてきたのか俺の胸で口をもぐもぐし始めた晴を見て、藤堂が俺の胸のマッサージを念入りに施し、乳首を滅菌済みの脱脂綿で拭き取る。

 そして、晴の頭を優しく手のひらで包むようにして、その小さな口を俺の乳首に当てた。


「……っ、んむ……」


 晴は、その突起を夢中で咥え込もうとするが……うまくいかず、その努力があむあむと空回りしている様子が、見ていてありありと伝わってくる。

 当然と言えば当然だ。多少成熟したとは言え、女の子のそれに比べたら、俺のは乳房も乳首も明らかに小さいわけで……。

 俺の横で、神岡が「頑張れ晴!」と必死に熱いエールを送るその意気込みも、俺的にはなんだかひたすら申し訳ない。


「……ふ……ふっ……ふぎゅっ!」


 一刻も早く空腹を満たしたいもどかしさに動かされるように、晴の表情がとうとうくしゃっと歪み始めた。


「……あー……ヤバい……!! 泣いちゃう!!!」

「——んぎゃっ、んぎゃっ!!!!」

 晴が、「早く欲しい!!!」と駄々をこねるように手足をぱたつかせ、思い切り元気に泣き出した。

 初めて聞く我が子の勇ましい泣き声だが、感動している場合ではない。

「先生ーー!! 晴、吸えないみたいですよーーー!!!」


「そうかー、やっぱりそうだよねー。

 んーじゃ、これならどうか……試してみよう」


 激しくギャン泣きする晴とひたすらパニクる俺の様子に藤堂がおもむろに取り出したのは、何やら小さく透明なゴム製の器具だった。


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