悔いる

「スティックコーヒーでいい? 少し甘いけど」

「……いいよ別に」


 こじんまりとしたリビングのローテーブルに、湯気の立つカップが二つ静かに置かれた。



「……もう少し帰って来なさいよね、隼人はやと


「仕事で大体いないだろ、母さん」


「……まあ、そうね」


 そう言って、母は浅く微笑んだ。



「——そのあなたが、どうしたの、今日は」


「……いろいろ、聞きたいと思って」


 母の問いかけに、大島は俯き気味にカップを見つめ、小さく答える。


「何を?」


「……俺が生まれた時のこととか。

 母さんが俺を妊娠してた時のこととか……これまでのこと」



 予想をしていなかった息子の言葉に、母は驚いたような眼差しを向けた。


「——どうしたの、急に……?

 隼人……

 何かあったの?」



「——……

 会社で……

 妊娠中の同僚を、酷い言葉で傷つけて……

 そういうショックが原因で、その人は入院した」



「————」


 心の内を必死に抑え込むようにカップに手を伸ばす大島の指が、微かに震える。

 母は、言葉を失ったようにその指先を見つめた。


「彼は……俺の優秀な部下で。

 男だけど、特異な体質で、体内に女性の機能があって……その機能で、今双子を妊娠してる。

 入社したばかりの彼に、やっと築いた自分のポジションをあっさり取られて……その上、今度は妊娠とか理解できない理由で職場を引っ掻き回されて。

 そういうのが、全て許せなかった。


 頭に血が上って——散々、酷い言葉を浴びせた。

 そして……気づいたら、彼は俺の前に苦しそうにうずくまってた……。


 彼とお腹の子たちが、あの時もしも命を落としていたら、あなたは人殺しだと……俺のしたことを知ったある人から、そう言われた」



「————……」


 その告白に、母の表情が思わず青ざめる。



「自分には、何かが足りない……

 けれど……どうしたらそれが埋まるのか、わからない。

 こういう気持ちを黙ったまま抱えてるのが、だんだんと耐えきれなくなって……

 それで、来たんだ。母さんと話をしに」


 俯いていた顔を上げ、大島は強く母を見据えた。



「俺が、どんな風に生まれて……父さんと母さんが、俺をどんな思いで育ててくれたのか……

 子供だった俺と母さんを置いて出てった父親が、どんな奴だったのか。

 俺、そういうことを、何も知らないんだって……初めて気づいた。


 だから——

 いろいろ、聞かせてよ。母さん」



 硬く強張った表情で大島の話を聞いた母は、しばらくの間、静かに俯いた。

 そして——苦しげな色の混じり合う眼差しを、やっと大島へ向けた。



「……

 隼人、ごめんね。


 今、あなたに言われて、はっとした。

 ——私は、あなたに何も話していなかったね。……何一つ」



 これまで聞いたことのない母の静かな口調とその言葉に、大島は思わず膝にぐっと拳を握る。



「——自分が傷つかないように……苦くて痛いその部分を、見ないようにしてきた。

 自分が辛くなるのが嫌で……そんな話をすることを、今までずっと、避けてきた。


 あなたを一人で育てるために、朝から晩まで仕事に出て。

 ゆっくりと話をする時間など、少しも作ってやれなかった。


 でも——

 そんなこと、何の理由にもならないわね。


 あなたがここに生まれてきてくれて、どんなに嬉しかったか。

 私と父さんのその気持ちは……父さんが出ていってからのあんな毎日じゃ、伝わるわけがなかったのに」



 今まで涙など見せたことのなかった母の瞳が、堰を切ったように大きく潤み……いくつもの涙の粒が、次々に零れ落ちる。



「——あー。

 とうとう泣いちゃった。

 絶対に泣かないって、決めてたのにな。


 でも、これは……流さなきゃいけない涙だわ。母親として。

 私は、自分勝手だった。

 あなたの寂しさに、今まで少しも気づいてやれなかった。

 ——許してね。隼人」



「…………」


 熱く滲むような気持ちが、不意に大島の胸の奥に湧き出す。



 自分に足りなかった、何か。

 ——まるで、大きな穴でも空いているかのように。

 そんな風に、寒くてたまらなかった心のどこかが……今、微かに温かい。



 ぐすっと小さく鼻を啜ると、母は改めて声に力を込め、言葉を続けた。


「全部話すわね。あなたが生まれた時のこと。

 私と父さんが、あなたの誕生をどんな風に喜んだか。そして今、どれだけの思いで、私たちがあなたを愛しているか。

 私も父さんも、あなたへの愛情は少しも変わっていないのよ。あなたが私のお腹に宿った、あの瞬間から」


 濡れた眼差しをまっすぐに向け、母親は明るく微笑む。

 そんな母の笑顔は、自分の幼い頃の記憶にしか残っていない気がした。


 その懐かしいような笑顔に——大島は、自分の中にも何か明るい陽射しが差し込むような、安らかな温もりを感じていた。









 会社で倒れ、救急車でクリニックへと運ばれ、絶対安静を言い渡され、入院が決まり……

 そんな風にいろいろなことのあった週が明けた、火曜の午後。


 俺は、上半身を起こしたベッドの上で、手持ち無沙汰に捲った文庫本をパタリと閉じた。

 神岡は、洗濯物の取り換えやちょっとした買い物などで、さっき出かけて行った。



 社長命令として神岡に与えられた休暇は、今日までだ。

 彼が再び忙しい日々に戻っていってしまうのは、少し寂しい。

 だが……そんな感情にいちいち振り回されてちゃいけないことぐらい、よく分かっている。俺もまたビジネスマンなのだから。


 しかしなー……辛いのは、この「安静」の状態だ。

 子供達のためだ。もちろん、藤堂の言いつけは死んでも守る。

 だが、自由に歩き回れないこの状況が、こんなにも苦痛だとは。


 あーー、うるさい。黙れ俺。

 これまでも、藤堂のアドバイスを全てすっ飛ばして自分自身と子供達を危険に晒したことを、忘れたのか? ここでぎゅうっとそれを反省すべきなのだ。


「いいか俺! ここで母親としての自覚をしっかり育てろ!! 自分の感情よりもまず、子供の幸せ優先なんだからな!」


 自らを叱るようにそうひとりごちていると、病室のドアが小さくノックされた。



 ……ん、誰だ?


 神岡が入ってくる時は、ノックは3回と決めてあるし……誰かが見舞いに来るなんていう話は、神岡も特にしてなかったし……



「……どうぞ」


 俺の声に、静かにドアが開いた。



「——……」



 入ってきたのは——大島だった。



「……佐伯先生に、病院の場所を聞いて……

 ——体調は……?」


 俯いていた顔を意を決して上げたかのように、彼は小さくそんな言葉を絞り出す。



「——……」


 俺は、思わず顔がぐっと引き攣るのを感じた。



 あの日の強い不安感や緊張、激しい苦痛が、一気に蘇る。

 胸がぎゅっと息苦しくなり、掛布団のカバーを無意識に強く掴んだ。



「————」



「ごめん柊くん、ちょっと遅くなって……

 ……っ……!」



 その時、ノックと共にドアが開き、神岡が戻ってきた。


 病室にいる大島と、俺の表情を見た瞬間——彼は尋常でない形相でベッドへ大股に歩み寄ると、緊張で固まった俺の手をぐっと握った。


「……大丈夫だよ、柊くん。

 安心して」



 そして、強く鋭い眼差しで大島を見据える。


「……君は……

 何の用で……」



「……申し訳ありません。驚かせてしまって……


 今日は……謝罪に来ました。

 ——三崎くんと、副社長に。


 どうか、許してください」



 彼は、瞳を滲ませるような真剣な眼差しで俺たちを真っ直ぐに見つめると、深く頭を下げた。









「週末——母に、聞いてきました。

 自分が生まれた時のことや、昔家を出た父親のことを。


 両親が結婚後、二人の間にはなかなか子供ができなくて……俺が宿ったと知った時は、父と泣きながら喜んだそうです。

 俺は、何かと言えばすぐ風邪をひいたり高熱を出して、その度に二人で死ぬほど心配したんだと、母は言っていました。


 でも、父は……その後、会社の部下と恋をして……

 その女性は、父を随分強く想っていたようで。

 まだ若い彼女に、治らない病が見つかったことを知って——

 父は、その人のそばにいてやりたい、と母に言ったそうです。


 結局、母はそれを受け入れるしかなく……

 でも、俺のことは絶対に手放さない、と言い張って。

 離婚してから、母は俺を一人で育てるため、働きづめでした。

 父の恋人だった人は、そのあと間もなく亡くなり——父も、一人になりました。


 俺は、何一つ、知らなかった。

 ただ——こうして寂しいことが、当たり前なんだと。

 そうやって、今まで生きてきました。


 何も聞かされていなかったから、楽だった。

 けれど、大切なことは何一つ、俺の中に育っていなかった。

 愛するとか、愛されるとか……一番大切なはずの、そういうことが」



 ベッドサイドの椅子で深い痛みに耐えるように表情を歪め、力を振り絞るように大島は話す。


 その震える肩を、俺たちは黙って見つめた。



「——でも……

 父からは、時々思い出したように電話が来るそうです。

『隼人は、元気か。大きくなったか』……と。

 もうこの歳なのに、まだ『大きくなったか』と聞くんだって、母が笑っていました。


 ——今回、母に聞いた話は、俺の中の空洞みたいだった部分を、少しだけ埋めてくれたような……そんな気がします。


 そして、初めて思った。

 三崎くんと副社長が、どんな決心で寄り添い、この道を選択したのか。


 俺は、本当に愚かでした。

 何度頭を下げても、どうにもならないほどに……三崎くんを、深く傷つけました。

 どんな処分でも、受けるつもりです。

 けれど——

 自分のしたことを深く恥じ、悔いている今の気持ちだけは、お二人にお伝えしたいと……

 ただ、そう思っています」



 そこまで話し終えると、彼は込み上げる何かに耐えきれなくなったように、ぐっと言葉を詰まらせた。



 その様子に、じっと黙り込んでいた神岡が静かに口を開いた。


「……大島さん。

 君が三崎くんに言ったことを彼から聞いた時は——湧き出す怒りを、どう抑えたらいいのかわからなかった。

 すぐにでも、首を絞め上げてやりたい衝動に駆られた。

 三崎くんが、この話は伏せておいてほしい、と僕に言わなければ、僕は君に何をしていたかわからない。


 けれど……

 今の話を聞いて……君の心の内も、知ることができた」



 神岡は、俺の手を再び優しく握ると、穏やかな眼差しを俺へ向ける。


「——柊くんは、どう思う?」



「——……

 ……今の話を聞いてすぐ、穏やかに頷けるかと言えば……それは……


 済みません、こんな風で。

 あの時は、ぶっちゃけ相当痛かったので……心も、身体も。


 少し、時間をもらえれば、と。


 けれど……

 あなたの気持ちが、そんな風に救われたのならば……本当に良かった。


 ——心から、そう思います」



「————……

 ……ありがとうございます……」


 掠れるようにそれだけ呟くと、大島は抑えきれないように嗚咽を漏らした。



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