自分の幸せ、他人の幸せ

「おはようございます、副社長」


 社長命令で与えられた休暇を終えた翌日、水曜の朝。

 数日間顔を見なかった副社長の姿に、秘書の菱木さくらは嬉しげにパッと微笑んだ。


「おはよう、菱木さん。

 数日いろいろ君に任せてしまって、申し訳なかったね」

「いいえ。副社長不在の間の業務は、社長が全て調整をしてくださいましたし……むしろちょっと暇で、寂しかったというか……」


 つい漏れてしまった言葉に、さくらははっとして微妙に恥ずかしげに俯く。

 そんなさくらに、神岡は柔らかく微笑んだ。


「優秀な君に寂しいなんて言ってもらえて、嬉しいよ。

 普段は上司としてさぞ君をがっかりさせてるんだろうと思ってたから」

「そんなことは。副社長の有能ぶりは、私の秘書経験の中でダントツです。

 ——ところで、三崎さんのご様子はいかがですか?」

 さくらは表情を切り替え、どこか緊張したような面持ちで神岡に尋ねる。


「うん。お陰様で、体調は落ち着いてるよ。

 これ以上ないくらい恵まれた環境で過ごさせてもらって、彼もこれまでのストレスや不安を一気に洗い流しているようだ。短くなっていた子宮頸管の数値も改善してきているようだし……この調子を保てれば、恐らく心配はないだろうと、藤堂先生も仰ってくれたよ」


「……そうですか……

 ああ、よかった、本当に……!!」


 神岡の明るい表情に、菱木にも思わず笑顔が零れた。


「——それから。

 菱木さん。君には、お礼を言わなければならない」


「……え?」


 改まった調子で真っ直ぐに向けられた神岡の視線を、さくらは改めて戸惑い気味に受け止める。


「設計部門の大島係長に、厳しく忠告してくれたそうだね。

 ——彼が三崎くんに対してしたことを、深く反省すべきだと」


「——……」


「彼……昨日、病院に来たんだ。

 僕と三崎くんに、謝罪をしたいと。


 週末に、母親と話をしてきたって……そう言ってた。

 自分自身の生まれた時のことや、自分と母親を置いて出て行った父親のこと……そういういろいろを、ちゃんと聞くために」


「……出て行った……父親……

 ——そうでしたか……」


「自分が幼い頃、どんな風に両親に愛されたのか。

 父が家を出た理由と……その後、母がどんな思いで自分を育てたか。

 そこにあった、父親と母親のどうしようもない苦しみ。

 そして——両親の自分への愛情が、今も少しも変わっていないということ。

 そういうことを、初めて深く知ったそうだ。

 それらを知って初めて、僕と三崎くんがどんな思いで今の道を選択してきたかを深く思ったと……そう言っていた。


 今回、そういう話を母親とできたことで、自分自身の心にあった空洞のようなものが少し埋まった気がするって……

 ——話しながら、彼は泣いていた」


 幼い頃に、何らかの事情で離れていった、彼の父。

 その寂しさの中で、辛い思いを抱え込んだ母と過ごした時間。


 大島の心にあった……恐らく、常に冷たい風が吹き抜けていた空洞。

 これまで知らなかった事実を、やっと知り——

 その空洞が、何か温かいもので埋まって——


 そんな風に、彼が涙を流した。


 そのことが、さくらにも嬉しかった。

 心から。


「彼、謝罪の際は君も同席すると約束をしていたのに、矢も盾もたまらず一人で病院へ来てしまったと、そのことをとても気にしていたよ。

 そこまではいいんじゃないか、と何度も言ったんだが……改めて謝罪するからスマホで動画を撮って菱木さんにも見せてくれ、と必死に頼まれて。断れなかった。

 ——見るかい?」


「……いいえ。

 今のお話で——もう、充分です」


 神岡のそんな問いかけに、さくらは微かに瞳を滲ませるように微笑んだ。




 副社長室へコーヒーを運び、さくらが自席へ戻ると同時に、ドアをノックする音がした。


「——どうぞ」


 菱木の返事におずおずと入ってきたのは、大島だった。


「……大島さん……

 おはようございます」


「——おはようございます……。


 あっ、あの……」


 どぎまぎとした様子の大島に、さくらは柔らかく微笑む。


「先程、副社長からお聞きしました。

 昨日、三崎さんと副社長に謝罪に行かれたそうですね。

 ——私も嬉しかったです……とても」


 さくらの穏やかな言葉に、大島はどこか恥ずかしげに少し俯いたが、そんな思いを振り切るように顔を上げると、菱木を真っ直ぐに見た。


「——そのことで……

 あなたに、お礼を言いたくて。


 菱木さん、今回は本当に、ありがとうございました。

 ——あなたのお陰で、俺の中のいろいろが、少しだけ変わったと……

 ほんの少しですが……間違いなく、自分の望んでいる方向へ自分自身を向けることができたと……そんな気がしています。


 それだけ、どうしてもちゃんとお伝えしたくて……。


 あっ……えっと、お忙しい時間に失礼しました!!」


「あ、ちょっと待っ……」

 必死にそれだけを言い終えると、大島は深く一礼し、くるっと回れ右をしてだっと部屋を出て行った。


「……コーヒーくらい、お出ししたのに」


 真剣に思いを伝える表情と慌てて戻っていった背中を思い出しながら、菱木は優しくそう呟いた。









 その週の金曜日、終業後。

 社長の許可を得て、樹は社内の大ホールに本社社員を一堂に集めた。


「——突然このように皆様にお集まりいただき、申し訳ありません」


 大勢の社員に向かい、壇上のマイクの前で一礼をする。

 そして、樹は穏やかな口調で話を始めた。


「今日は、改めて皆様へ、私とパートナーである三崎柊くんのことをお伝えしたいと思い、このような機会を設けた次第です。

 ……本来ならば、もっと早くこうするべきだったと——深く反省しています」


 さわさわと微かな私語のあったホールは、その言葉に水を打ったように静まり返った。


「各部門の長からお聞きになっていると思いますが——

 私と設計部門の三崎柊くんは、パートナーという関係です。……つまり、異性間の婚姻に当たる関係です。


 そして、彼の身体が両性の機能を有していることを知った時、私達は新しい命を迎えたいと強く望みました。

 その願いが叶い、彼は今、二つの小さな命を体内に宿しています。


 この事実をお伝えした際には、全ての方を大きく驚かせたことと思います。

 そして、皆様の反応も、恐らく様々だっただろうと……そう想像します。

 賛同や共感、応援、そして非難、拒絶、不快感——」


 樹はどこか苦しげに、そこで言葉を一瞬途切らせたが……再び顔を上げ、新たな息を吸い込んで続ける。


「——否定的な感情を非難するつもりで、この話をしているのではありません。

 ものの感じ方は、一人ひとり違います。それを一方向に統一するために何か強い圧力をかけることは、むしろ不自然です。


 ただ——

 自分自身の幸せを大切にするのと同じ気持ちで、他人の幸せを静かに見守る。

 そんなことを、皆様にお願いできたら——強く、そう感じます。


 もしも皆様が、愛する人との関係を、他人から否定されるとしたら……

 さげすまれたり、白い目で見られ、陰口を囁かれるようなことがあったら……どう感じるか。

 どうか、それを考えてみてください。


 人を愛するということは、他人には決して踏み荒らすことのできない領域なのだ——

 そして、愛する人と新たな命を育みたいという思いもまた、同性異性の区別なく全く同じなのだと……このことを、皆様にご理解いただけましたら幸いです。


 三崎くんは、現在絶対安静を要する状態です。そして、あと約2週間後には、産前休暇を申請できる時期に入ります。

 出産前にここへ出勤してくることは、恐らく難しい状況です。

 なので——

 もしも、私達二人の事で何かご意見等がある場合は、今後は私へ直接お伝えいただきたいと思います。

 口頭でもメールでも、何でも構いません。

 その事により、発言者がペナルティを負うことは一切ありません。

 どんなことも、私と三崎くん二人で誠実に受け止め、私達から誠実にお答え致します。


 ——そして私は同時に、愛する人をあらゆる苦しみから守れる存在でありたい、と思っています。

 私は、この会社の副社長である前に、愛する人を守り、幸せにできる人間でいたい。

 私がそういう覚悟を持ってここにいる、ということも、皆様にお伝えしておきたいと思います」



 しんと張り詰めた空気は、しばらくそのまま続いた。


「——何か、この場でご質問等ある方は、いらっしゃいますか。どんなことでも構いません」


 樹が、穏やかに問いかける。


 手を挙げる社員の出ない中、挙手者にマイクを届けるために傍で待機していたさくらが、躊躇しつつもとうとう自ら手を挙げる。


「——どうぞ」


「ありがとうございます。

 秘書課の菱木さくらと申します。

 ——ひとつ、副社長にお願いをしてもよろしいでしょうか?」


「それは……どのような?」

「あの——

 可能であれば、『三崎くんファンクラブ』を発足したい、と思いまして。

 ずっと考えていたのですが、案を提示する良い機会がなく……副社長の許可を得られれば、この場をお借りして本日より会員を募りたいと思うのですが」


「……

 ファンクラブ……

 え……っと、それは三崎くんにも確認が必要かと……」


 その時、ホールの別の場所から挙手があった。

 マイクを手渡され、男が立ち上がる。


「——設計部門の、大島隼人です。


 あの……

 もしファンクラブができるなら……会員になりたいです」


 その発言に、周囲から驚きの視線が集まる。


「…………

 私は、今までの自分の言動を、深く反省しています。


 その分、何か彼の応援ができたら……

 そう思います」


 必死に絞り出すようなその言葉に——

 少しの間を置いて、小さくパラパラと拍手が起こった。


 やがて、それはホールを包む大きな拍手に変わっていった。



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