敵意(1)

 9月の下旬。

 外の空気も、次第に涼しく秋めいてきた。

 現在妊娠6ヶ月の半ばである。


 自分の妊娠の件を社内に報告して、約2週間が経とうとしている。

 社内には当然その情報が行き渡っているはずだが、表向きは以前と大きく変わらない通常通りの日々が続いている。


 ただ、腹囲が大きくなることなど、オープンにする前は常に不安だった周囲の目から解放された点は、だいぶ楽だ。

 事実を知らせたのだから無理やりスーツを着る必要はなくなったし、日に日にお腹が大きくなることを不自然に思う者もいない。

 そして、表立ってそれらことについて非難めいたことを口にする者も、今の所はいない。


 ——どういう目で見られているか、どんなことを囁かれているのか。

 廊下やエレベーターの前などでじっと無神経な視線を注がれたり、通り過ぎた背後で何か囁かれるような気配を感じたりは、しばしばだ。

 けれど、日々のそんなことは想定の範囲内である。


 それらの瑣末なことに変に気を取られないよう自分の視野を固定しさえすれば、目下のところ何とか平穏と言える。

 通勤も、身体への負担を考えた神岡が購入してくれた軽自動車のおかげでdoor-to-doorだ。


 これなら、なんとかやっていける——俺は、少しずつそんな気持ちになっていた。



「確かにお預かりいたします。副社長が戻られましたらお渡ししておきますね。

それにしても三崎さん、お腹の双子ちゃん、だいぶ大きくなりましたねー!」


 神岡の秘書である菱木さくらが、書類を届けに来た俺を見てそう微笑む。


「本当に、自分でも驚くほど毎日大きくなるんです。一回り上のサイズの服を選んでも追いつかない勢いで。重たいし、胎動ももうすごくてあちこち痛いし……自分の中に二つも命があるって、やっぱりえらいことだなあってしみじみ感じます」


 菱木の勧めてくれた椅子に重たい身体を預けてふうっと大きく息をつき、俺は思わず苦笑いして本音を呟いた。


「うふふ。そう言いながら、めちゃくちゃ幸せそうですね。三崎さん」

「え」


 ……本音と一緒に本心も漏れ出ていたのか?

 そんな菱木の言葉に、俺は思わず頬をさすって微妙に赤面した。


「妊婦さんって、みんなすごく綺麗なんですよね……びっくりするくらい。

 なんていうか、柔らかくて輝くような美しさを纏ってる。お腹で育つ新しい命へ注ぐ愛情が、そうさせるんでしょうか……不思議ですね」

「あ……それ、俺も思ったことあります。赤ちゃんを胸に抱くお母さんがまさに聖母に見える瞬間とか、ありますよね」



「——三崎さんだって、そうですよ」

 優しい眼差しで俺を見つめ、菱木はそう呟く。


「え、俺も……ですか?」


「ええ。

 男性だって同じなんだなあ……って。

 今、はっきりそう思いました。


 男の人のお腹が大きくなる様子って、想像したこともありませんでしたけど……性別なんて、無関係なんですね。

 なんていうんだろう、神々しいとでもいうのか……今の三崎さん、そんな特別な美しさが身体から溢れています。

 命を宿し、育てることって、こんなにも特別なんだ……そう思わずにはいられません」


 なんだかじわっと瞳を滲ませるようにそんなことを言う菱木に、俺は思わずわたわたと動揺する。

「えっ……まっ、え、泣いちゃってます? 菱木さん??」

「あーー、ごめんなさい。

 三崎さん見てると、なんだか自分の弟とかどうしてもそんな風に思えてしまって……

 涙もろくなっちゃって困りますね」

 そう笑いながら、彼女は慌てて指先で目尻の小さな滴を払った。


「……菱木さん。

 ありがとうございます、本当に。

 しっかりしろって自分自身に言いながらも、やっぱり俺、どこかでいつも不安なんですよね。

 男がこんな風に身重になるって、傍目からどうよ?とか。

 くだらない考えだって、分かってるのに……やっぱりどうしても、そんな弱気を拭い切れない。


 だから……今の言葉、すごく嬉しいです。

 そんな風に温かく見てくれる人もいるんだって……今初めて、そう感じました。

 菱木さんの言葉のおかげで——これからは、もう少し胸を張って歩けそうです」


 鼻の奥がつうんと熱くなるのをぐっと堪えながら、俺も菱木にそう微笑み返す。


「ええ、胸張っててくれなきゃ困りますよ! 今、社内の女子たち募って三崎さんのファンクラブ作ろうかどうしようか迷ってるんですから」

「えっ……ふ、ファンクラブ……??

 まっまさかそれは冗談ですよね……?」

「さあどうでしょう」


 そんなことを話しながら、明るく笑い合う。


 こういう風に温かく心を支えてくれる人がいるというのは、なんと有り難く、心強いことだろう。

 その幸せを、俺は改めて強く噛み締めた。









 その日の終業時刻少し前。

 パソコンの画面に長時間向き合ううちに、腹部の内側が収縮するような軽い張りを感じた俺は、少し休憩時間を欲しい旨部長に申し出た。


「三崎くん。終業時間まであと少しなんだし、このまま休憩室で休んでいなさい。……とにかく無理は絶対に禁物だからね」

「ありがとうございます」

 藤木部長の気遣いに、深く礼をする。

 直属の上司である大島係長へもその旨を伝え、俺は休憩室に向かった。

 終業直前のせいもあり、部屋には幸い誰もおらず、静かだ。


 お腹の張りは、妊婦にとって甘く見てはいけないサインの一つだ。

 腹部を圧迫しないよう背を椅子に預けて全身の力を抜き、大きく深呼吸を繰り返す。


 ペットボトルの冷たい水が喉を通ると、苦しさが少しずつ遠のいていく。

 不安感で緊張していた気持ちと身体が、漸くほっと緩んだ。


 その時、背後の休憩室のドアが不意にガチャリと開いた。


「体調、どう?」


 俺に向けて、そんな声が届く。


 大島係長の声だ。

 俺のいるテーブルへ近づくと、彼は様子を見るように俺を覗き込んだ。


「……大丈夫です。ありがとうございます」


「大変だね。男なのに」


 さりげない中に鋭い棘のようなものを含んだその言葉をいきなり浴びせられ、思わず俺の身体はぐっと固まった。


「————」


「君と仕事以外にいろいろ話したくても、なかなかチャンスがなくてさ。

 ——ここ、いい?」

 彼は薄い微笑を浮かべながら、返事も待たずに俺の向かい側に座る。

 俺より3歳ほど年上のはずだが、上司らしい思慮深さなどをこの人からは感じたことがない。


「……どんなお話でしょう」

「ん? わかってるでしょ大体。半端なく優秀なんだから君は。

 ——それに、普段から俺と君はあんまり相性が良くないこともね」


 そんな言葉に、俺は止むを得ずゆっくりと視線を上げて彼を見た。


 そう。

 この男は、俺の入社当初から、俺に対し強い拒否反応を示している。

 大学院時代の俺の研究内容が、当時神岡工務店の求めていた設計技術とうまく合致し——それを買われて俺が入社してきた経緯そのものを、彼は快く思っていないようだった。

 社会経験的に下っ端である俺に事あるごとに文句をつけ、干渉するような彼の態度を、俺はこれまでも黙って受け止め、時に受け流してきた。


 しかし——

 今日の空気は、簡単に受け流せるものとは少し違う気がする。

 俺を見据える彼の冷淡な目に、思わず背中がすっと冷える。


「——あのさ。

 君……社内でどんな風に言われてるか、知ってる?」


「——……」


「あれ、知らないの?

 そうだよね、君の前では誰も本音言わないもんなあ一言も。

 陰でこそこそ何話されてるか、不安だろ。——みんなの本音、知りたくない?」


「……仮に知りたくないと答えても、この話をやめる気などあなたにはないでしょう」

「あはは、やっぱり頭いいね」


 彼は楽しげに頬杖をつき、冷ややかな微笑で言葉を続ける。

「みんな言ってるよ。

 男が妊娠とかマジ趣味悪いって。キモくて信じらんねーって」


「————」


「副社長と男同士でそういう関係で、おまけに散々そういうことしちゃって、挙句の果てによくそんな身体で平然と出社できるよな? 普通はどう考えてもムリじゃない?」


「…………

 それで?」


「……は?」


「俺のしていることが、あなたには理解できない……だからどうだと言うんですか?」


 この瞬間——俺は、自分でも驚くほどの激しい怒りに駆られていた。

 自分の愛する人と、懸命に息づく新しい命を蔑むようなその言葉への、計り知れない怒り。

 俺の態度に意表を突かれたような大島を真っ直ぐに見据え、俺は必死に冷静を繋ぎとめながら言葉を続けた。


「俺は、あなたの生き方に口を出す気はありません。あなたの人生は、俺には全く無関係ですから。

 そして、あなたも自分の生き方におかしな干渉などされたくないはずです。

 お互い様、という言葉があるでしょう?

 俺の生き方に、なぜ全く無関係なあなたが口を出す?


 それとも、俺と副社長のことにそれほど興味がおありですか?

 ——詳しく知りたいなら、いくらでもお聞かせしますけど」


 そんな俺に、大島はかっと顔を紅潮させて声を荒らげた。

「ふざけんなっ!!

 だから、そういうのを想像させんのがキメーって言ってんだよ! ひとを不愉快にさせといて偉そうなこと言ってんじゃねーよっ!」


「想像させる俺たちがいけないんでしょうか?

 異性でも同性でも、実際やってることの気持ち悪さは全く変わりませんよ。

 むしろ、俺たちのことを脳内であれこれ思い描いて陰でこそこそ噂し合うあなた方の方が余程悪趣味だ」


「…………っ……」


 思わず言葉に詰まり、大島はぎりっと歯ぎしりでもするように俺を睨み据えた。


「……だから……

 だから頭に来るんだ……いっつもそういうムカつく顔しやがって」


「————大島さん。

 あなたは……」


 次の言葉を言いかけた瞬間——

 不意に、くらりと視界が舞った気がした。


「……」


 呼吸と鼓動が、激しく乱れる。

 思わずテーブルに手をつき、目眩をぐっと堪える。


 ひとつ深く息を吸い込み、俺は力を込めて彼の瞳を見つめ返した。



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