屋上のあらぬ噂 後編
ギイィッという何処か不快感がするドアを開けると、春の心地良い風が吹き抜けた。屋上に足を踏み入れた凪は何となく空を見上げると清々しいほどの晴天で、暖かな陽光が降り注いでいた。
太陽の光に一瞬目を細める凪であったが、すぐに視線を前に向ける。その視線の先には誰もいない。先ほどまで鍵がかかっていた屋上に誰かがいるはずがない。しかし凪の眼にははっきりと、転落防止のフェンスの近くにいる怪異の存在が映っていた。
「……ァア? ……ゥァ」
その怪異はドアを開けて、姿が見えた凪をただジッと見つめていた。
見た目は古いボロボロのセーラー服を着た少女の姿をしており、その口からは呻き声によく似た声を発している。顔は前髪に隠れてよく見えないが、その髪の隙間から見える眼は充血したかのように赤く染まっている。朝に凪が見た黒いガスのようなナニカから、見た目の異常さを除けば人と変わらない姿へと変わっていた。
「……誰もいない……ね」
予想以上に成長が早い。凪はそう内心で舌打ちしながらも、まるで怪異が見えていないように周囲を見渡しながら歩きだす。
凪が見えないフリをした理由。それは霊や怪異といった存在は、自身を認識した存在に対しては積極的に襲い掛かってくる傾向が多いためである。朝の時点で存在を認識していたのもあり、警戒していたものの怪異が動くことはなかった。
それならばと、カモフラージュ用のスマホを片手に持ち、怪異を視界に収めながら一歩、また一歩と怪異へと近づいていく。
そうして足を進めていた凪であったが、怪異に近づくに連れて、先ほどまでの春の暖かさが消えてしまったかのような肌寒さと空気が冷たくなっていく感覚を覚えた。
(……この肌寒さは僕がこの怪異を認識しているから? 向こうは僕を認識しているはずなのに何で何もしてこないんだ?)
怪異は時折不気味な呻き声を上げながらただ見つめてくるだけで、不気味に思うほど一切動かない。それがより一層凪の警戒を引き上げる。
間もなく屋上の中心。そこまで近づいた凪の眼には怪異の姿がより鮮明に見えていた。先ほどまでの充血したかのよう真っ赤な眼は黒く澱んでおり、肌の部分は病気のように青白く罅割れている。誰が見てもとても生きているとは思えないものであった。
(視る限り実体のある霊魂の類の怪異で間違いない。ここまで動かないということは特定条件下で襲ってくる怪異? いや、生まれたばかりということやさっき春から送られてきたチャットの内容から考えるならば、むしろ怪異としては――っ!?)
「……ア……アァ……」
ゾクリと凪の背が震えたその瞬間――今まで目の前にいた怪異が隣にいた。
一歩足を進めた瞬間か、それとも瞬きをした瞬間か。
どちらにしても凪にとっては一瞬の出来事。
耳元から聞こえてくる呻き声のような声は、気味の悪さと異常なまでの不快感を覚えさせる。それとともに、もう少しこの声を聞いてみたいという欲求が芽生え、その欲求は徐々に膨らみ始める。
(怪異の声に対しての魅了……いや、これはどちらかというと執着だね。――だけどそこまで強いわけじゃない)
今すぐ距離を取ろうと反射的に動こうとした凪であったが、その動きは止まる。
そんなことをしてしまっては、怪異は自身を認識したと判断してしまう。
それではここまで気づかないフリをしてきた意味がない。
そう思考を働かせた凪は自然な動作でもう片方の手をポケットに入れると、その中にあるお守りを強く握りしめた。
(これで一先ずは大丈夫。……さて、今僕のすぐ隣にいる怪異は。さっきまで隙を晒していたのに呻き声みたいな声を上げているだけで何もしてこない。やっぱり生まれたばかりでまだ怪異として定まっていない。それならまずは確認……だね)
お守りを握りしめたことで思考が正常に戻った凪は怪異を静かに観察する。
それ以外を知らないかのように凝視しながらただ耳元で囁くように呻き声を上げ続けている怪異。その怪異からの視線と声に背中がぞわぞわとしながらも、ある程度の観察を終えた凪は、この状況を動かすべく口を開いた。
「……そういえば、屋上に少女の幽霊が出る噂があったっけ」
「――ァ」
ふと思い出したかのように呟いたその言葉に、初めて怪異は大きな反応を示した。
その反応に内心でかかったとほくそ笑む凪であったが、表情に出すことはなく、ゆっくりと怪異に言い聞かせるように静かに言葉を紡ぎ始めた。
「確かその噂は――」
凪がこの話を聞いたのは、屋上の鍵を借りてこっそりと屋上に向かう途中のこと。
念のために他の対魔師たちにも対処に向かうと報告すると、
曰く、過去に屋上で飛び降り自殺をした女子生徒の霊が出るという噂。
それだけならばよくある学校の七不思議のような噂話の一つであるが、この学校内で飛び降りた生徒がいたという事実はない。
そのため『存在しないはずの飛び降りた少女』という奇妙な噂として一年生の間で急速に広まっているとのことであった。
一年間、この学校に通っていた凪ですら聞いたことがない噂話。
それも入学してから一月しか経っていない一年生にのみ広まっているというのは確かに奇妙であった。
しかし、屋上で少女の姿を取っていた怪異を見て、この噂が原因で発生した怪異の可能性が高いと踏んだ凪は、この噂話を利用することにした。
元々春が聞いたという噂話は、いじめられて自殺して飛び降りた少女の霊が、その怨みから一人で屋上に来た生徒に憑りついて殺すというもの。
ならば実はこういう話であったと、凪は怪異の前で騙り始めた。
――数十年前に誤って屋上から転落死した少女が、寂しさから屋上に一人で来た生徒を言葉で誘って自分と同じように飛び降りさせようとする。
本当はもう少し救いがあるような噂話にするべきと考えていた凪であったが、既に広まっている可能性が高い噂話を大きく変えてしまうと別物になってしまう。
そのため、一つの噂を基にして、完成しかけている怪異に似ている噂話という異物を打ち込んだ。そしてそれは結果的に上手くいった。
「……ニクイィ……サビシイイィ……ァアクルナ来イオ前モシネ消エロ殺ス寂シイ呪ッテヤル嫌ダ一緒ニ……死のう?」
先ほどまで言葉になっていなかった怪異の言葉は、凪の語った噂話をなぞったようなものへと変わる。それは流暢なものであったが支離滅裂。
怪異自身も何を口走っているのか理解しているのか不明であり、その表情も自身に何が起こっているのか分からないようで、両手で頭を抱えながら後ずさる。
しかしそれも直ぐにピタリと止まると、自身の役割を理解したのか凪の首を絞めようと掴みかかってくるが――届かない。
「アアアアアァ!? ナンデ何でなんでドウシテ!?」
「無駄だよ。じゅ――言葉でしか殺せない楔を打ち込んだ。言ったよね、言葉で誘うって。それで、話は聞いてくれないかな?」
そう告げた凪の眼は黒から澄んだ緑色に変化しており、その眼には目の前の怪異と先ほどまで繋がっていた自身との縁が、はっきりと途切れているのが視えた。
本来ならただ一人が語っただけでは、ここまで上手くいくことはない。
しかし人から人へと噂が伝播する際には、正しく伝わらないことがある。それは聞き間違いやうろ覚えという場合もあれば、面白がって脚色して話すということもある。
それを凪は利用して怪異の前で霊力を込めて話す――言霊を用いて騙すことによって、怪異を一時的に不完全なものとした。
不完全な形となってしまった今の怪異には、物理的に凪を傷つける手段がとれない。時間をかけてまた噂が広まれば可能かもしれないが、そんなことを考える余地もなく、ただ本能のままに目の前の獲物に叫び続ける。
「対話の意思はなしか……ごめんね。終わりだよ」
何回もチャンスをあげたのにね。怨嗟の声を叫び続ける怪異に対して残念そうに呟くと、怪異を封印するための霊符を取り出す。
凪の指に挟まってひらひらと揺れる霊符を見て、生まれたばかりの怪異はそれが何かはわからなかったが、霊符に込められた力をはっきりと感じ取った。
そこでようやく目の前の存在がただの獲物ではなく、自身を害する存在であると理解する。そして怪異は自身の生存本能に従って一目散に逃げようとした。
「我は、汝を縛らん」
「――ゥア!?」
だがそれは叶わない。
噂話を語っている間に怪異の足元に散らばらせていた数枚の霊符が、凪の言葉に合わせるように起動し、怪異の動きを封じ込める。
怪異には生き残るチャンスは幾つもあった。噂話を語り終え、小さいながらも自我が芽生えたとき。首を絞めるのに失敗したとき。ここまでに冷静になれていれば救いはあった。
凪も最終通告を込めて交渉しようとしたが、返答は呪詛。
怪異が逃れる術はない。
「まだ話に乗ってくれれば悪いようにはしなかったんだけどね。敵になるのなら容赦はしないよ」
「シネ死ネシネシネエエエエエエ! オマエモ飛ビ降リロ!」
もう逃げられないと悟ったのか、封印される最期の瞬間まで怪異は凪に呪詛を吐き続ける。
怪異を封印する者の役目としてか、凪は目を逸らすことなく受け止めながら、目の前の怪異に霊符を張り付けた。
「ギイィイッアアアアアアアアッ!」
耳を劈くような絶叫を上げると怪異は霊符に吸い込まれていった。
「……キミのことは忘れるまでは覚えておくよ」
あっけなく怪異を封印した霊符を眺めて一言そう呟くと、足元に散らばっていた霊符を手早く集め、凪は屋上を後にするのだった。
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