14

 ユリウスの首に噛み跡を付けた。何だかソワソワする。僕には家系を表す紋も僕を表す印もない。でもユリウスの歯形は僕の印だよね。


 ユリウスは帰る用意をして、森の中の隠れた場所でグレイヴと共に待っていてくれるって。早く用事を済ませて帰りたい。


 行き先はわかる。

 馬車で移動をして、今は別の屋敷の中だ。

 その屋敷の中に足を踏み入れ、ドクッと胸が痛んだ。


 僕の中のアルが動揺している。この屋敷は独特な匂いがする。それは神経を麻痺させる匂いで、部屋の中にお香の煙が満ちていて、そのお香の効能が麻痺のようだ。


 神経が麻痺し、思考が曖昧になる。


「……ほんとうに、おまえかい?」


 濃い匂いに嫌気がさし、立ち尽くした背中に声が掛かった。振り返れば長い裾の衣服をつけた男が立っている。


「この見目に心当たりが?」


 男を見る。男は僕をじっと見て、視線を逸らして首を振る。


「そんな筈はない。あれから10数年が経っている。あの子は20を過ぎた筈だ」


「その子のこと、覚えているのか」


「あの子は知らぬ間にいなくなった。死期を前に身を隠す猫のように、あの子も死に場所へ向かったのだと」


 ゆるりと歩みを進めた男は、敷きっぱなしの寝床に入ると、布団を肩まで引き上げた。


「それを信じたのか?」


 寝床に入り、背を向けた男の姿には悲愴が漂っている。


「私はあの子に病を感染うつされたのだよ。ずいぶん長いこと可愛がってやったのに、この仕打ち……」


「あの病は感染うつらないよ。それはただの偶然だ——ああ、でも恨みだったら面白いけど」


 僕が勝手にアルを語ったら、僕の中のアルに叱られた。そんなことは思わないよ、旦那様は優しくして下さいましたって……ほんとうに?


「その病の症状は、肉が硬くなって骨が軋み、先端から腐って行くんだよ。すでに歩みに支障が出てるよね? いったいあと何年で腐り切るのだろうね?」


 僕はクスクス笑った。


 部屋の襖を開けようとする者がいる。ガタガタと戸が揺れうるさい。


「旦那様、ご無事ですか! 早くここを開けろ!」


 襖の向こうから声がする。襖ごと蹴破ろうとしているのか。無理だよ。僕が押さえているのだから。


「あの子がね、言っているんだ。旦那様は優しくして下さいました。どうか末長くお幸せにお過ごし下さい、だって」


 床に膝をつき、深く頭を下げているアルの想い。僕の中にあるのは、死に際の願いで——僕はその願いを叶える。


「よかったね、旦那様。ご褒美に長く生きられるようにしてあげる。僕は嫌なんだけどね、あの子の望みだから仕方がないよ」


 ゆっくりとした動作で起き上がり、こちらを向いた旦那様は、縋るような視線を向けて来る。


「あなたは医者か? それともまじなか。私のこの病魔を取り除けると? それは有難い、早う、お願い致します」


「うん、良いよ。長く生きられるよ。自死も禁じてあげる。あの子を良くしてくれたんだものね」


 旦那様の手を握れば、旦那様の目から涙が溢れた。


「有難い、お代をはずもう」


「別にいらないよ、これはあの子の願いだから」


 旦那様から手を外し、立ち上がり、襖まで歩いた。


 旦那様は足を曲げたり伸ばしたりして首を傾げている。


「良かったね、端から腐って行くのを、長く生きて楽しむと良いよ。ぜんぶ腐り切るのに、どれくらい掛かるのかな? 痛いのかな? 苦しいのかな? とっても楽しいよね?」


 僕はクスクス笑う。

 ガタガタうるさい襖を蹴ると、全部が吹き飛んで行った。人がいたかな? 僕には関係ないよね?


「ああ、痛い、痛い、どういうことだ! 治っていない、ああ、ああ、指先が爛れて行く——ひいいっ」


 黒く爛れて行く指先を見つめて、涙を溢れさせている旦那様には、襖も壁も吹き飛んだことなんか、どうでも良いらしい。家令や使用人が潰されても、気にも留めないらしい。


 つまらない。

 アルの願いは叶えた。まずひとつ。

 飽きたから帰ろう。

 僕を待つユリウスのところへ。

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