9 恋は、恋愛は、戦争です。手段を選んではいけません
〇
「ちょっ! ちょっと待ってくれ早乙女! 聞きたいことがあるんだけど!?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
早乙女は早かった。
高校では運動部じゃないとは言え、俺は自分の運動神経にそこそこ自信があったのだが、早乙女に追いつくことができない。
彼女は身軽なフットワークを使いこなし、不規則に角を曲がり、階段を飛び越え飛び降り、廊下にいる生徒まで障害に利用したりと、巧みに俺を撒こうとした。
しかし、俺にも男としての意地がある。
ここで負ける訳にはいかない。それに、彼女には何としても聞き出したいことがある。
旧校舎と新校舎を舞台とした俺と彼女の追いかけっこは白熱し、ついに俺は彼女を廊下の隅に追い詰めることに成功した。
息も絶え絶えになって大きく肩を上下させながら、隅っこで原稿の束を抱えてプルプル震えている早乙女を見下ろす。
彼女の瞳には涙が浮き、顔は恐怖に彩られていた。
そして、許しを請うように呟いている。
ぐへへ、もう逃げられないぞ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「…………」
………………あれ、なんかこの状況、まずくね? 何やってんの? 俺。
冷静になった俺は、今の自分が置かれている状況の危うさを自覚した。
傍から見れば、完全に大人しくかよわい女の子にイケないことをしようとしているヤバい男の図だ。
というか、普通に人目に付くところで早乙女を追いかけ回してたしな、俺。
とりあえず俺は、自分に害意がないことを早乙女に伝え、友好的な対話に持ち込もうと試みた。にこやかな笑みをつくり、握手をするための手を差し伸べる。
「ごめん早乙女。別に俺は――」
その瞬間、背後で一陣の風が吹き、俺の後頭部に鋭い衝撃が走った。
「いッてぇッ!」
いったい。痛い。
滅茶苦茶痛い。何か飛んで来たのか? 足元を見ると、上履きが落ちていた。
『星野』と書かれた上履きだった。
俺の……ではないよな。俺のは履いてるし。
俺が首を捻っていると、何者かが近づいて来る気配があった。
振り返ると、そこには片足靴下の状態の白雪がいた。
我が妹だ。
白雪は少し息を切らしながら、「あ、ごめんお兄ちゃん、つい」と言って上履きを拾い上げ、履いた。
何だなんだ何なんだ。
そこで白雪はハッと何かを思い出したように俺を見て、冷たい声で言う。
「お兄ちゃん、一応確認していい……? 何やってるの?」
「えっ、いや、それは、え? あ、いや、えー……、え?」
なんて説明したらいいの、これ。
全部話すか? いやでも、妹にあれを話すのか?
色んな意味で、俺は自分の体がどんどん冷えていくのを感じていた。
俺は横目で、隅で小さくなっている早乙女(震えている@涙目)を見やる。
早乙女は、救いを求めるような顔で白雪を見ていた。
「いや待て! 俺は悪くない!」
無実を主張する俺。
そんな俺を見て、白雪は何かを思案しているようだった。
もしかして、俺にどんな罰を下そうかと考えているのだろうか。
ムチ打ちとか、ヒモ無しバンジーとか、茹でただけのしらたきを食い続けろ、とか。
俺が味のないしらたきを無限に口内に詰め込み続ける恐怖に怯えていると、白雪がしゃがみ込んで早乙女と何かを話していた。
「先生、ここは私に任せてください」
先生……?
そして早乙女はコクコク頷くと、パタパタと慌ただしく逃げて行った。
廊下の隅で、白雪と二人きりになった俺。
白雪は改めて俺のことを見据えると、「えーと」と言葉を選ぶように一呼吸置いてから、ビシリと俺に指を突き付け、こう言った。
「と、とにかくお兄ちゃんは、女の子を追い回すなんてことしちゃダメなんだからね! 分かった!?」
「え? あ……、はい」
「ならよし」
大仰に頷く白雪。そして、白雪もどこかに駆けて行った。取り残される俺。
何がなんだか分からない。
●
王子くんにキスしようとして、それを白雪ちゃんに目撃されたあと。
王子くんの部屋を出て、隣にある白雪ちゃんの部屋。
女の子らしく飾られつつも、しっかりと整頓された綺麗な部屋の真ん中で、私は正座をしていた。
胸の奥が痛い。
王子くんに押し倒される夢の中でも私は胸の痛さを感じていたが、あれとはまた別の痛みだ。
私の目の前で、膝を抱えるようにして座った白雪ちゃんは、少し困ったように私を見ながら、言う。
「あの、光希さん」
「……はい」
「えっと、まず謝っておきます。お昼ご飯も食べていくのかどうか、聞こうとしたんですけど」
「……はい、ありがとうございます」
「それで、一つ、確認させて欲しいんですが」
「……はい」
「うちの兄に、キスしようとしてました?」
「………………はい」
白雪ちゃんは神妙な表情を浮かべていて、怒っているように見えた。当たり前だろう。
白雪ちゃんは、よく王子に文句や小言を言っているが、それが愛情から来るものであると私は察している。
王子くんと白雪ちゃんは仲の良い兄妹なのだ。
「うちの兄のこと、好きなんですか? その、なんというか、恋愛的に」
白雪ちゃんの顔は真面目だった。
「………………」
私は何も言えなかったが、真っ赤になった私の顔を見て、白雪ちゃんは何かを察したようだった。
「なるほど、やっぱりそうだったんですね」
「え?」
無意識の内に視線を下げていた私は、そこで顔を上げて白雪ちゃんを見る。
白雪ちゃんの顔は、どこかスッキリしたように清々しく、落ち着いていた。そして彼女はハッキリと言う。
「お手伝いしましょうか?」
「え!? え……っ、えぇ!?!?」
私は混乱してた。思考が乱れる。
「え? え、でも、わた――っ、いや、ボク、は男で……、その、王子も男で……」
「それは分かってます。でも、そんなの関係ないでしょう? 男同士でも女同士でも、誰と誰とであろうと、そこに恋と愛があれば、恋愛は成立するんですよ」
白雪ちゃんは真剣だった。思わず私の背筋も伸びる。
「でも、ボク……、王子が寝てる時にあんなことしようとして……」
「確かに、相手の合意無しにああいうことをするのはよくありません。でも、結果的には未遂だった訳です。それとも、もう既に兄の寝込みを襲ったことがあったりするんですか?」
私は全力で首を横に振る。
「ない、ないです。さっきのも、その、一時の気の迷いというか、やっぱりやめようとしたところで白雪ちゃんが入って来て……、……言い訳になっちゃうんだけど……」
「いえ、私は光希さんを信じます。光希さんのことは、兄と一緒にいるところしか見たことないですけど、それなりに信用しているつもりなので。私、人を見る目には、自信があるんです」
「ありがとう、白雪ちゃん……」
私は自分が情けなくて仕方なかった。恋の試練だの何だのと意気込んで、一体私は何をやっているのだろう。
「それで、改めてお聞きしますけど、光希さんはうちの兄のことが好きなんですよね」
「…………うん」
「……どれくらい好きか、聞いてもいいですか?」
「……その、えっと、大好き、です」
ダメだ顔が熱い。おかしくなりそうだ。恥ずかしい。
見ると、白雪ちゃんが胸を押さえて悶えていた。
「わ、分かりました。私に任せてください光希さん。私にできることなら、協力しましょう。兄の好みや性格はバッチリ把握してるので、大船に乗ったつもりでいてください」
「……あの、一つ聞いてもいいかな?」
「いいですよ」
「なんで白雪ちゃんは、手伝ってくれようとするの……? その、なんか、前からボクの気持ちも、知ってたみたいだし」
「それはですね」
白雪ちゃんはコホンと咳払いして、かしこまった顔になって言う。
「まず、光希さんの気持ちは分かりやすかったです。もう割とすぐ分かりました」
「ぃぇっ、そ、そんなに分かりやすかった……?」
「はい、まぁでも兄は気付いてないと思いますよ。そもそもの前提として、兄は光希さんを単なる男友達として見てますし、何よりあの兄、鈍感なので。なんか微妙にずれてるんですよ。あの兄、中学の時も……、いや、一旦この話は置いておきましょう。そして、どうして私が光希さんをお手伝いするのか、ですが」
「う、うん」
「大きく分けて理由は二つあります。まず一つ目が、あの兄、別に悪い男ではないと思うんですけど、色々残念でダメなところがあって心配なので、光希さんみたいな人に支えて貰えたらいいだろうなって私思ってたんですよ。光希さんみたいな人なら、あの兄が相手でも上手くやってくれるような気がするので」
「へ、へぇ……」
「そしてもう一つが、あの兄、昔に何があったのか知らないですけど、小さい頃に結婚の約束をした女の子がいるとか何とかで、それに妙に執着してるんですよ」
私の心臓が変な跳ね方をした。
「すっごく可愛い子だったみたいで、たぶんそのせいで兄が変にこじらせちゃったところがあると思うんですけど、いい加減振り切って欲しいんですよね。聞いたら、その子の連絡先も知らないって言うし……、もうバカじゃないかと。きっと相手の女の子もそんな昔のこと忘れてるでしょうし」
「そんなことないよ!」
思わず大声で口を挟んでしまった。白雪ちゃんが驚いたように目を瞬かせる。
「あ、えっと、いや、王子がそれだけ執着するってことは、たぶん凄く大事な約束だったってことで、それなら、相手の女の子が覚えていても、その、おかしくないんじゃないかなぁ……って、あ、あはは、そういうのもボクは素敵、だと思うけど……」
「なに甘いこと言ってるんですか光希さん!」
すると、白雪ちゃんが私に詰め寄って、肩を掴んだ。
「え、な、なに?」
「もし仮に、その相手の女の子が兄のことを覚えてたら、大変なんですよ。まぁ、あり得ないとは思うんですけど、もしその女の子がちゃんと約束を覚えてて、今の兄と再開しちゃったら、光希さんに勝ち目はないんですよ、分かってるんですか?」
「…………あっ。あぁ、うん、確かに……?」
なんかややこしい話になってきた。
「危機感を持ってください。私は、そんなどこぞの馬の骨とも分からない女よりも、兄には光希さんみたいな素敵な人と一緒になって欲しいんです、男か女は関係ないんです」
「う、うん……ありがとう……」
それ、どっちも私なんだけどな。
「正直な所、今の光希さんはかなり不利な立ち位置にあります。光希さんはとてもかっこよくて素敵な人ですけど、男なんです。兄は同性に興味が無いので、その時点で、光希さんは他の女に大きく大きくリードを奪われていると言えましょう」
「……うん」
それは分かっている。
私が今すぐ元の体に戻れたら、話は違ったんだろうけど、というかその私が、王子くんが待っているという女の子なのだけれど、そもそも私は自分が男になる条件付きで試練に挑むという代償を払って、セアちゃんの魔法の力で、王子くんとの再会を早めてもらったのだ。
だから、これは意味のない論だ。
王子くんが私の正体に気付いてくれない限り、私は男として王子くんを攻めるしかないのだ。
千花ちゃんの言う通り、危機感を持たないといけない。
いつ、千花ちゃんみたいに魅力的な女の子が王子くんを誘惑して引きずり落としてしまうとも限らない。
王子くんを信じて待っているなんて気持ちじゃダメだ。
誰かにやられてしまう前に、私がやるしかないのだ。
「でも、こんなボクで、大丈夫なのかな」
今の男の姿の私で。ハッキリ言って、あまり自信はない。
「大丈夫です。私に、考えがあります」
白雪ちゃんが、自信たっぷりに頷いた。なんて頼もしい……。
●
白雪ちゃんは言う。
「いいですか? 光希さん、恋は、恋愛は、戦争です。手段を選んではいけません。それが褒められた方法ではなかったとしても、結局、意中の相手を射止めた者が勝者になるんです。そういう無慈悲な世界なんです。そんなやり方卑怯だなんて横から泣いても、意味はないんです。恋は盲目だから、とりあえず好きにさせてしまえば、あとはどうとでもなっちゃうんです。ですが、流石に人の道を外れるような犯罪めいたやり方は、私も好きじゃありませんし、光希さんにも合っていないと思います。だから、ギリギリを攻めましょう。あの兄を落とすために、今の光希さんができるギリギリの範囲で、一番有効的な手段。それは……、ですね」
「それは……?」
私は固唾を呑む。
妙な沈黙がその場を支配していた。千花ちゃんの口が開く。
「女装です」
●
「女装です」と、白雪ちゃんが言った時、コンコンと部屋の扉がノックされた。
「光希? もしかしてそこにいんの?」
王子くんの声だ。大慌てする私と白雪ちゃん。
「な、なに? お兄ちゃん……?」
「入ってもいいか?」
白雪ちゃんが私を見る。私は頷く。
「い、いいよ」
すると扉を開けて入って来る王子くん。彼は私を見て、不思議に思っているようだった。
「なんでお前が白雪の部屋にいんの?」
「え、えっと……」
私はどう誤魔化そうか思案する。
すると、白雪ちゃんが口を開いた。
「お兄ちゃんが寝ちゃって光希さん暇そうだったからちょっとお話してただけだけど?」
「ふーん」
王子くんは時に疑問に思わなかったみたいだった。彼は眠たげな顔で一つあくびを漏らして、私を見る。
「んじゃ、続きでもやるか? でも腹減ったな」
「あっ、えっと、ごめん、ボク、このあとちょっと用事あるから、もう帰るよ」
「そうか? じゃ、また今度か」
「う、うん」
私は頷いて、「じゃあ、荷物取って来る」と言いながら立ち上がった。
部屋を出る際、白雪ちゃんと視線が合う。
彼女は「話はまたあとでしましょう」とでも言うように頷いた。
私はそれに頷き返して、王子くんの部屋に置いてあった荷物を回収し、お暇したのだった。
帰路に着いている途中、白雪ちゃんからラインがきた。そこには、こう記されていた。
『明日学校で、お昼休み、また直接話しましょう。光希さんが私の教室に来たりしたら目立つし、私が光希さんの所に行っても兄に見つかる可能性があるので、昼休みが始まったあと、四階の渡り廊下で一度落ち合いましょう』
●
翌日の月曜日、私は珍しく寝坊した。
たぶん昨夜、ベッドの中でずっと王子くんのことを考えていたことが原因だと思う。
王子くんのことを考えてること自体は、別にいつもと変わらないのだが、言い知れない不安が私の中に渦巻いていた。
幼い頃、王子くんと一緒に遊んでいた頃は、こんな気持ちになったことはなかった。
私と王子くんは、出会ってすぐ、お互いがお互いのことを同じように好きだということを理解していたから、不安なんてなかった。
良い意味で子供だった。怖いものなんて無かった。お互いが自分の気持ちを真っ直ぐ伝え合っていた。
でも今は違う。
私はこの身で改めて王子くんの心を射止めると決めて、それが上手く行く保証はない。
もし失敗して、王子くんと今の交友関係すら続けられなくなって、王子くんが一生私の正体に気付いてくれなかったとしたら……。
嫌だ。絶対イヤだ。考えたくもない。
だが、しかし、今を変えるためには、相応のリスクを負うしかないのだ。
でも、それでもやっぱり、どうしようもなく怖い。
いつの間に、私はこんなに弱くなってしまったのか。
あぁ、恋の試練とは、なんて残酷なのだろう。
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