7 女は単純な生き物であると、誰かが言った




 王子くんとの高校生活は楽しく、あっという間で、気付けば私たちは二年生になっていた。

 私は少し焦り始めた。この一年、彼が私の正体に気付く気配はまるでなかった。


 このまま二年、三年と過ぎ、ただの良き友人として認識されたまま、高校を卒業してしまったらどうしよう。


 セアちゃんは、試練の期限については特に明言していなかったが、何となく、このまま高校を卒業してしまうのは不味い気がした。


 二年生としての生活が始まってしばらくした頃、帰宅した私は、我が家のソファでくつろいでいたセアちゃんに聞いてみた。


「ねえセアちゃん」


「コウキおかえりぃ、どないしたん?」


 セアちゃんは、昨年のコミケで母さんが出したという同人誌を熱心に読んでいた。


「私の恋の試練についてだけど、あれっていつまでに乗り越えなきゃならないとか、あるのかな」


「あぁ、そういえば決めてなかったな。んじゃ、自分らが高校卒業するまでにしよか。やっぱこういうのって、タイムリミットがあった方が盛り上がるしな」


 楽しそうにセアちゃんは言った。


 言わなきゃよかったと私は後悔した。


「え……、それって、そのタイムリミットが切れたらどうなるの?」


 恐る恐る聞く。


「そら、アウトや」


「アウトって……、具体的にどうなるの?」


「そんなん決まってるやん」


 上半身を起こして、真剣な表情で私を見るセアちゃん。只ならぬ緊張感がその場に漂い始めた。

 私は、ゴクリと固唾を呑む。


 セアちゃんの小さな唇が動く。


「ケツバットや」 


「け、けつ……?」


「せや、痛いで~。もうあれや、しばらくは便座に座っておちおちウンコもしてられへんようになるくらい強烈なやつや。せやから、ケツバット喰らいたくなかったらがんばるんやで」


「は、はぁ……」


 よく分からないけど、高校を卒業するまでに、何とかしてこの試練を乗り越えようと思う私だった。





 王子くんに正体が気付かれることのないまま一年が経ってしまったこともそうだが、もう一つ、私の懸念を加速させる要因が最近できてしまった。


 三枝千花という、後輩の可愛い女の子のことだ。



 ●



 千花ちゃんは、王子くんの妹の友達であるらしく、王子くんとも仲が良いようだった。

 ここ最近、千花ちゃんは私と王子くんが一緒にいると、必ず現れる。私にはそれが、王子くんに会いに来ているように思えてならなかった。


 この子は王子くんのことが好きなのではないか……?

 私はそう思った。


 困ったことに、千花ちゃんは可愛いのだ。


 まず、容姿が可愛らしい。

 見目が良いというのはもちろんそうなのだが、なんというか、男の子が好きそうな可愛らしさだ。人懐っこそうな笑顔には愛嬌があるし、男の人の庇護欲を掻き立てそうな小動物めいた小柄さだし、性格も明るい。


 恐らくあの可愛さは、いくらか彼女が意図して作っているものだと分かる。

 女の子なら好きな男の子の前で可愛さを作るのは当然だと思うのだけど、彼女はそういった可愛らしさや愛嬌を作るのがとても上手い気がする。


 ああいう露骨な可愛さを出していくのは、案外難しいものだ。

 そして、王子くんのような男の子は、千花ちゃんのような分かりやすい可愛さに心を惑わされ、絆されてしまう生き物であるということを、私は知っている。


 王子くんとて健全な男の子。彼がエッチなことに興味津々なのは明らかだし、彼は私のことを男だと思っているので、そういった話題にも躊躇がない。

 もちろん私は理解のある女なので、王子くんがそういう話をしていても、幻滅したりすることはない。

 男の子は総じてエッチな仕方のない生き物であると私はちゃんと理解している。

 たまに話に付いていけなくなるけど、たまにというか、よく……。


 王子くんのそういった好みを把握しておくことは、きっと後々必要になってくるだろうから、私はいつも関心を持って聞いている。

 学べる女なのだ、私は。


 だが、だからこそ、分かることがある。

 王子くんは、大きいおっぱいが好きである。


 王子くんは、おっぱいであればどんな大きさでも良い、というようなことを言っているが、彼が自分の部屋に隠しているエッチな本に出てくるのが、胸の大きい女の子ばかりであるということを私は知っている。

 ……知ってるんだからな。


 そして、千花ちゃんのおっぱいは、大きいのだ。

 しかも小柄で、華奢で、くびれがあって、可愛くて、その上で胸が大きいのだ。こんなの、卑怯じゃないか?


 いくら王子くんが昔私と交わした約束を覚えてくれているとは言え、王子くんの視点で見ると、今の彼の側にその私はいないのだ。

 今の私は、おっぱいのない男なのだ。


 しかし、千花ちゃんは彼の側にいる。

 これは、どうしても、焦ってしまう。


 私は王子くんのことを信じている。

 信じてはいるのだが、この胸の内側から湧き上がってくる不安だけはどうしようもない。


 そして、今日、私は王子くんと千花ちゃんと一緒に、近場にある大きなショッピングモールに遊びに行き、映画を見たり、服を見たりしたのだが……。


 今朝、まず、少し寝坊をしてしまって、集合時間ギリギリに私が待ち合わせ場所に着いた時、既にそこには王子くんと千花ちゃんの二人がいて、なんかちょっと良い感じの会話をしていた。

 私、焦る。


 千花ちゃんの私服を見た私は、それが男ウケを狙ってコーディネートされたものだと理解した。


 まず、女性らしい体のラインが浮き出るようなリブニット。

 しかもノースリーブ。

 大きく強調された胸と、剥き出しになった白く細い肩に王子くんが気を奪われているのがすぐ分かった。


 あぁぁぁぁああああああっ! もうっ! 単純なんだから! 


 一方で、フレアスカートの丈は長く、色合いは落ち着いた白であり、彼女がそこで清楚感や清潔感を出そうとしているのが分かった。

 また、化粧はそこまで派手にならないように抑えながら、ネックレスやイヤリング、ネイルでしっかりと女の子らしさを出している。

 いかにも、という感じだ。


 チラチラ、チラチラと千花ちゃんのおっぱいを盗み見ている王子くんの耳を引っ張って自分の方に向けたくなるのを、私が何度我慢したか分からない。

 しかし、今の私がそんなことをしたところで、彼は怪訝に思うだけだろう。


 そこでようやく、私は、自分が男になっているという事実に、本当の意味で危機感を覚えた気がする。

 思い返せば、私は自分が彼の側にいるという事実だけで、変に安心してしまっている節があった。

 それじゃダメなのだ。恋の試練は甘くないのだと理解したつもりになって、理解できていなかった。


 この試練の真の恐ろしさを知った。

 ダメだ。このままではダメだ、と。


 何か、対策を練る必要がある。

 とりあえず、急ごしらえの策として、私はなるべく積極的に千花ちゃんに話しかけて、彼女が王子くんと話す時間を減らそうとした。


 こんなことをしてしまう自分こそ、卑怯かなとは思ったが……、だって、しょうがないじゃん!


 でも、千花ちゃんと会話をしたり、服を見たりするのが案外楽しかったのも、また事実だ。

 思えばこの一年、こんな風に女の子と遊びに出かけることがなかった。


 王子とばかり一緒にいて、たまに王子の他の男友達と遊ぶこともあったけど、やはりそういうのと、女の子と一緒に過ごすのは、また違う。


 千花ちゃんと話すのを、私は純粋に楽しんでいた。

 だが、それと、千花ちゃんと王子くんが仲良さそうにしてるのは、別の話である。全く以って、別なのだ。


 二人は、映画が始まる前もなんかイチャついてたし、なんか意味ありげに見つめ合ってたし、王子くんは色んな服を試着する千花ちゃんを見て「可愛いかわいい」って言うし。


 私の中に、どんどんとモヤモヤが溜まっていくのが分かった。

 私だって、王子くんに可愛いって言って欲しいのに。


 どんなに、どんなに、どんなに私がそれを言って欲しかったか。


 無性に叫び出したくなる。王子くんのバカ、と。



 ●



 王子くんと千花ちゃんとショッピングモールで満足するまで遊んだあと、私たち家路に着くべく電車に乗った。


 そして、とある駅に電車が近付いた時、私は迷った。


 本来なら、私はその駅で降りて、二人と別れなくてはならない。

 王子くんと千花ちゃんの家は近所のようなので、このあと、彼と彼女は二人きりになる訳だ。


 そう思った時、私は咄嗟に王子くんに声をかけていた。


「王子、このあと王子の家行っていい?」


「別にいいけど。なんかするか?」


「ほら、この前途中まで進めたゲームあるでしょ。あれやろうよ」


「あー、あれなぁ。んじゃ、やるか」


「う、うん、まぁもう遅いし、そんなに出来ないとも思うけど」


「いや、泊っていけよ。明日も休みだし、どうせなら徹夜でやろうぜ」


「えっと、いいのかな、そんないきなり」


「……白雪が許してくれさえすれば」


 それを聞いて、私は微苦笑する。

 王子くんの妹の白雪ちゃんは本当にしっかり者で、彼の家のことは、白雪ちゃんが責任もって管理しているようなところがある。


 すると、それを聞いていた千花ちゃんが言った。


「それ、わたしも行っていいですか?」


「千花はゲームのこと分からんだろ、帰れ帰れ」


「えー、でもゆきちゃんにも会いたいですし。光希先輩がお泊りするなら、ついでにわたしも一緒に、みたいな?」


「やだよ、千花が近くにいると落ち着いてゲームできなさそうだし、あとお前、明日他の友達と遊ぶみたいなこと言ってなかったか?」


「あ、そうでした。んー、じゃあ残念ですけどわたしは大人しく帰ることにします」


「そうしとけ」


 我ながらせこい感性だとは思いつつも、私は優越感を覚えずにはいられなかった。


 嫌味ではなく、私は千花ちゃんみたいに小悪魔っぽく可愛い女の子は嫌いじゃない、むしろ好きな部類だ。

 愛でることができるのなら、全力で愛でたい。可愛いは正義なのだ。


 ただ、それはそれとして、私は千花ちゃんが王子くんの側に居て、彼が千花ちゃんを見ているのが嫌だ。


 小さい女と思うだろうか?

 だが、これが私だ。

 


 ●



 緊急事態だ。英語で言うとエマージェンシー。英語にする意味はない。

 私は、自分の内に潜む魔物と戦っていた。魔物とはすなわち『欲』のことであり、私とはすなわち『理性』のことである。


 今、私の目の前には、王子くんがいる。私は王子くんの艶っぽい口元に視線を奪われ、目が離せなくなっている。


 私と王子くんの唇が、少しずつ近付いている。

 『キス』というワードが頭に浮かぶ。


 ダメだダメだとは思いつつも、その考えを頭から消すことができないでいる。どうしても、消すことができない。あぁもう。


 少し、時を戻す。



 ●



 千花ちゃんと別れたあと、私は星野家にお邪魔した。


 白雪ちゃんは、私が泊まるという話が出た時点で、王子くんが家に連絡を入れなかったことで、少し彼に文句を言っていたが、私のことは快く歓迎してくれた。本当に良い子だと思う。


 王子くんのご両親は少し不思議なお方で、お父様の職業は作家で、お母様はコマーシャルモデルをやっている人らしい。

 少し変わってはいるが、お二人ともとても良い人だし、楽しい方たちであることに間違いはない。


 そんな王子くんのご両親とも一緒に、私は白雪ちゃんが作ってくれた夕飯をご馳走になった。

 星野家の愛犬のムギちゃんも同じ部屋で一緒にご飯を食べていた。


白雪ちゃんはとても料理が上手で、すごいなぁと思ってしまう。私も全く料理ができない訳じゃないが、白雪ちゃんのようにはできない。


 遠からず、私にも王子くんに手料理を振舞う機会が訪れるだろうから、今の内にもっと練習しておこうと思った。

 今度母様に教えてもらおう。


 それから流れでお風呂も頂いてしまって、そのあと、私は王子くんと一緒に彼の部屋でゲームをやり始めた。

 正直な所、私は特別ゲームが好きという訳じゃない。

 嫌いでもないのだが、自ら進んでやろうと思うほどのものでもない。


 だが、王子くんとやるゲームはまた別だ。


 私が彼にやろうと持ちかけたゲームは、最近発売されて話題になっていたRPGで、私たちはそれを相談しながら、雑談も交えつつプレイしているのだが、そんな風に彼と一緒にゲームをするのは、とても楽しい。


 ゲームを純粋に楽しんでいる時の王子くんは、普段より子供っぽく素直で無邪気で、いつも小難しいことばかり言っている彼の素が出ているという感じがして、昔の幼い頃の王子くんの面影が覗くようで、凄く可愛いのだ。

 そうやって無垢に笑っている彼の横顔を見ると癒されるし、他方、胸がきゅぅうと締め付けられ、甘く痺れるようにもなる。

 幸せ。


 二人してぶっ続けでゲームを進め、丑三つ時も過ぎ、明け方もそろそろ近付いてきた頃、気付けば、私はゲームの画面に夢中になっている彼の横顔を見つめていた。


 好きだなぁと、そう思っていた。この一年で、確信し直した事実だが、私は王子くんが好きだ。

 幼い頃の想いが美化されているとかではなく、しっかりと今の彼が好きなのだ。


 隣に居ると、とても心地が良い。


 そんなことを考えていると、不意に彼がこちらを見た。


 目と目が合い、心臓が跳ねる。彼の唇が開き、そこに視線を取られる。


「なぁ光希」


「は、はいっ、なに? 王子」


「お前ってさ」


 心なし、彼の顔が近付いた。さらに心臓が跳ねる。


「こうやって見ると、結構かわいい顔してるよな。確かにイケメンなんだけど、妙に可愛い所もあるっていうか」


「ぃえ!?」


 動揺のあまり、奇妙な声が口端から漏れた。


 彼の口から発せられた『かわいい』という言葉が、頭の中で繰り返された。

 エコーをかけつつ、リフレインされる。


『かわいい』、『可愛い』、『カワイイ』、『かわいい、かわいい』『可愛い』『かわいい』『かわいい』『かわいい』『かわいい』『かわいい』『かわいい』『かわいい』


 頭が熱っぽくなって、ぼうっとした。


 ハッと意識を取り戻すと、さらに近い位置に王子くんの顔があった。近い。


「どうした光希、なんか顔赤くね? 大丈夫か?」


「い、いや、べつに……ッ! だ、大丈夫だよ!」


「いや、でも、なんか流石に」


 また、彼の顔が近付く。

 私の理想そのものの王子さまの顔が、迫っている。

 体の内側が沸いて、全身が焼け付くように熱くなる。

 顔が火を噴いたように真っ赤になっているのが自覚できた。


 落ち着くために深呼吸する。王子くんの部屋にいる王子くんのいい匂いがして、さらに体が熱くなった。ダメだこれ。


 王子くんの手が私のおでこに伸びて、前髪を掻き上げた。

 同様に、彼も自分の前髪を手で上げて、私の額と、彼の額がくっつけられる。ひんやりとした彼のおでこが、私の額の熱を冷やした。


「んー、別に熱はないっぽいな」


 その時の私は既に、何かハッキリとした言葉を口から出せる状況になかった。声にならない吐息めいた何かが、唇の間から漏れている。


 私はフラッと背後に倒れてしまいそうになり、それを王子くんが抱き留めた。彼の腕が、私の背に回されている。


「おい、マジで大丈夫かよ」


 目と鼻の先の距離にいる彼が、そう言った。


 彼と私の視線が重なって、しばらくの間見つめ合う。

 たっぷり数十秒くらいは見つめ合っていただろうか。


 すると、彼が、真剣な表情で言った。



「やっぱお前ってほんと可愛いな、ごめん、我慢できねえ。お前が可愛すぎるのが悪いんだからな」



 抱きしめられ、されるがままになる私。男の人の強い力で、抵抗も無意味と分かるくらい、強く強く抱きしめられる私。彼の熱を感じる私。良い匂いがする。好きな匂い。熱い。痛い。胸の奥が痛い。きゅぅぅうッてする。やばいこれはやばい。そのままベッドに連れて行かれて押し倒される私。ドンッと、彼の両手が私の頭の両側に突かれる。逃げ場はない。「だ、だめだよ、王子くん……」「は? 本気にさせたお前が悪いんだろ? 黙って俺の言うとおりにしてろばーか」彼の手が私の頬に添えられる。熱い。「愛してるよ、俺のお姫様。絶対に誰にも渡さない。俺だけのものだ」彼の艶めいた唇が迫り、迫り、迫り、キスされる寸前で目が覚めた。



 ●



 女は単純な生き物であると、誰かが言った。


 その通りだ。



 ●


 目が覚めた私が、悶え苦しんだのは言うまでもない。


 なんという夢を見ているのだ、私は。


 今すぐ布団をかぶって大声で叫びたくなった。私は口元を両手で覆って、己の内側から溢れ出す何かを噛み殺すように唸った。


 そうして少しだけ落ち着いた後、私は周囲を見渡し、自分が置かれている状況を一つずつ確認していく。


 王子くんの部屋。時刻は正午より少し前。

 お腹が空腹を訴えている。ゲームの画面は付きっぱなし(別のゲームになっている)。硬い床の上で寝ていたせいで体が痛い。隣では、コントローラを握ったまま王子くんが寝ている。


 そこで、私は大きく深呼吸した。王子くんの匂いがする。

 いや、そうじゃなくて、落ち着こう。


 いつから、夢だった……?


 まさか、今の記憶は全部本当にあったことで、そのあとで私が眠りについたという可能性は……。


 ない。あり得ない。あんな私の妄想をそのまま現実に持って来たようなことが起こる訳ない。あくまで王子くんは、今の私を友人として見ているのだから。


 その辺りの分別は付いているつもりだ。


 でも、王子くんが「こうやって見ると、結構かわいい顔してるよな」と言ったあたりまでは、現実のものであった可能性が、ほんの少しくらいは……ない、かな。

 ないかなぁ……。


 うーん、うーんと唸りながら、隣を見てみる。そこには、床に仰向けに寝転がって、寝息を立てている王子くんがいる。

 可愛い。


 彼の寝顔を見ていると、さっきまで見ていた夢の内容が脳裏に蘇る。


 思わず叫び出しそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。

 バクバクと心臓があり得ないくらいの速度で早鐘を打っていて、抑えられそうになかった。

 頭に焼き付いた王子くんとのキスシーンが消せない。全身が尋常じゃなく熱い。

 ジンジンと、体の芯の部分が甘く痺れている。これは、やばい。抑えきれない。


 緊急事態だ。英語で言うとエマージェンシー。英語にする意味はない。落ち着け私。


 私は、自分の内に潜む魔物と戦っていた。魔物とはすなわち『欲』のことであり、私とはすなわち『理性』のことである。


 今、私の目の前には、王子くんがいる。私は王子くんの艶っぽい口元に視線を奪われ、目が離せなくなっている。


 私と王子くんの唇が、少しずつ近付いている。勝手に、近づいている。私の理性から逃れた魔物が、勝手に私の体を動かしている。


 『キス』というワードが頭に浮かぶ。


 ダメだダメだとは思いつつも、その考えを頭から消すことができないでいる。どうしても、消すことができない。あぁもう。あぁっ、もうっ。


 こうなるともうダメだ。私の頭が勝手に言い訳を始め、悪魔が囁く。


 別に、いいんじゃないか?


 誰も見ていないし、王子くんがすぐに起きる気配もない。今、ちょっと彼に口付けしたくらいで、何かが変わる訳じゃないのだ。


 むしろ、彼に口付けして、今の自分を落ち着かせないと、私はこのあとの自分がどうなってしまうか分からない。欲のまま行き過ぎて、何かの線を越えてしまう前に、彼にキスして自分の中の魔物を鎮めた方がいいんじゃないのか?


 だが、そこで、私の理性が踏ん張りを見せ、天使が咎める。


 むしろ、そのキスをすることが、何かの線を越えてしまう行為に当たるのではないのか? 彼の意識が無い時にそんなことをするのは、不義理じゃないのか? 

 そんなことをして、私は彼と結ばれたあと、胸を張って彼の恋人を名乗れるのだろうか。


 嫉妬はしてもいいし、欲を持つのもいい。それは自分の中で完結させられる感情だからだ。

 だが、そういった醜い感情に振り回されるのはいけない。少なくとも、周囲から見て、私は淑女であらねばならないのだ。

 彼のためにも。


 私は葛藤し、葛藤し、いつの間にか、無意識の内に、彼と自分の唇が寸前まで近づいていることに気付いた。


 いけない! そう思って、顔を上げようとした瞬間、ガチャリと扉が開く音がした。


 そのまま顔を上げておけばよかったのに、大いに肝を冷やした私は、あろうことか動きを止めてしまった。


 凍り付いたように、王子くんにキスをする寸前の体勢のまま固まる私。


 視界の端に映った扉からは、王子くんの可愛い妹、白雪ちゃんが顔を覗かせ、しっかりとこちらを見ていた。

 凝視していた。


 誤魔化せない、と、私は悟った。


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