ホムンクルス、余命一年(短編)

雨傘ヒョウゴ

ホムンクルス、余命一年

 


 ゆっくりと、目を覚ました。

 クリーム色の天井は、知っているものと似ているけれど、ちょっと違う。最初に思ったのは、あれ、おかしいな、ということ。


 なんとなくシーツから片手を伸ばして、ゆっくりと手のひらを曲げる。これにも、随分違和感がある。でも、それがなんなのかということがわからない。


「あ……」


 声が出た。不思議だった。男の人が、一人いる。


「……起きたか」


 長い黒髪を一つにくくった、綺麗な男の人だった。どうやら本を読んでいたようで、ぱたりと閉じた。ベッドの上のシーツを握ったまま、男の人と目を合わせる。瞳の中にまるで星があるみたいな、きらきらした赤い瞳。幾度も、私は瞬いた。


 あんまりにも私がぼやっとしているものだから、男の人はむっと眉を寄せた。だから慌てた。じたばた起き上がったところで、おかしい、とはっきりと理解する。私の体が、こんなにスムーズに動くわけがない。


 そもそも、私は――。


「ホムンクルス、お前は、俺が作った。あとになって今更と言われても面倒だから、伝えておく。お前の寿命は一年だ」


 淡々とした声である。まず、驚いた。はくはくと口を動かし、自分の胸元を握りしめる。小さくて、ぴかぴかな、真っ白な手だった。「そっ……」 声が出ない。「泣くな、面倒だ」 男の人は、苛立ったような声を出す。子供の姿で作るのではなかった、と腹立たしげな声も聞こえる。でも、そのときの私は、そんなことも気にせず、ただ、叫んでいた。


「私、あと一年も、生きることができるんですか……!!?」



 ***



 私は私だけど、どうやら私ではないらしい。

 私は人間ではなく、“ホムンクルス”と呼ばれる存在で、男の人が作ったのだそうだ。命が短いホムンクルスは人よりも終わりが短い。けれど、生まれたと言われてもピンとこない。なぜなら、私はホムンクルスとなる以前の“私”である記憶がある。


 と、いうことを男の人に説明してみると、「ホムンクルスを作るのはいいが、ただの赤子では面倒だから、そこいらにある魂を入れた」と言っていた。


 “私”だった頃の記憶は曖昧だ。名前だってわからないし、多分ずっと、病院のベッドの中にいた。ただ鮮明に思い出せるのは、ひたひたとした死の恐怖だ。今日、明日死ぬかもわからない。ピッピと冷たい音を出す機械に繋がれ、自分自身も無機物に変わっていくかのような感覚だった。


 だから、一年の寿命と言われて、まずやってきたのは喜びだ。最期の瞬間は、はっきりと覚えていないけれど、私は死んだ。それどころか、こうして立って、歩いて、話すことができる。


「や、やったぁ~~~~!!!」


 両手を上げて喜んで、くるくると回る私を見て、男の人はなんだこいつという目で見ていたけど、気にせず踊った。



 ***



 終わりがわかるということは、なんといっても素晴らしい。だって終わりがわかるのだ。明日死ぬかも、今日かも、今この瞬間かも、なんてびくびくすることもなく、きちんと自分で始末をつけてその時間を迎えることができる。ホムンクルス、最高である。


 にこにこ笑って、ありがとうございます、サンキューです! と敬礼すると、男の人はとにかくおかしなものを見る目で私を見下ろした。そして会話は終了した。多分、とても口数が少ない人なのだろう。私がホムンクルス、ということを説明して力尽きて、ソファーの中に沈み込んだ。そして寝た。なんということでしょう。


 ソファーで寝た人を見たことは、多分ないけれど、病院の中ではテレビや本は許されていたんだろう。知らないけれど、知っている記憶の中で、毛布を探して上にかける。えいしょ、えいしょと引っ張って、投げるようにして首元から足元まで。できた、と満足したとき、改めて男の人の顔を見た。整っていらっしゃる。


 鼻が高く、しゅっとしていて、開いた目はぴかぴかだった。眠そうにしていたところが、ちょっとだけマイナスだけど。年はだいたい、二十歳の中頃くらいだろうか。さらさらの長い髪を見ると、どうお手入れなさっているのでしょう、と首を傾げるばかりである。


「……ところで、この人に作られたということは、ここにいてもいいのかな?」


 何をしたらいいんだろう、と首を傾げるあまりだ。

 しかし今はそんなことより、行動である。動ける。歩ける、踊っても問題なし。うわい、うわい、と喜びを噛み締めつつ、ぐるぐる回るを再開した。そして自分の髪につんのめってこけた。最初、それが自分の髪だとは気づかなかった。真っ白で、足元まで伸びている。生まれたてのつやつやのように見えるけれど、なんとも長すぎだ。


 足元まであるって、どれくらいの長さなの? と困惑しつつ自分の体の上から下までを確認してみる。そこで再度、違和感に襲われた。いやそんな、まさか。お兄さんが随分大きい、と思っていたけれど、そんなまさか。


 慌てて部屋の中の鏡を探した。部屋中に本ばかりがしきつめられて、真ん中には大鍋が一つ。まさか私、あそこで生まれた? ではなく。


 やっと見つけた姿見は、なぜか床の上の大量の本の上に埋まっていて、さすがに全身を見ることなんてできなかったけれど、膝の中に入れつつ自分の顔を確認し、悲鳴を上げた。


「ひひゃあああああーーー!!」


 小さな子供がそこにいた。小学校に上がったくらいか、それくらいの。銀色のぴかぴかの長すぎる髪は足元まで。肌は真っ白く、瞳の色はお兄さんとおんなじだ。私の悲鳴に、お兄さんは飛び起きた。


「……なんだっていうんだ……?」

「すみません! 大変です! 私、とてもかわいらしくて嬉しいです!」

「……そりゃよかったな……」



 ***



「ご飯ですよ!」


 なんとか若返りを果たした(と、いえばいいのかわからない)私は、フライパンを持ってお兄さんに突撃した。お兄さんは、いつも昼過ぎまで寝ている。そして、起きて、ごそごそと大鍋に向かって活動する。何をしているかはわからないけれど、邪魔をしないことにした。


 とりあえず私は家にいることを許されてはいるようで、お兄さんと私は好き勝手に生活した。しかしご飯は別である。欲求に素直になるのは重要だ。最初にうっかりして黒焦げになったパンを、お兄さんは苦い顔をしながら(多分本当に苦かった)食べていた。というか、食べるものに頓着しないのだろう。失敗をしないようになったら、眉の間にあるシワの本数が減っていた。


 家にはときおりお客さんがやってくる。お兄さんのことを、みんな『錬金術師』様と呼ぶ。ホムンクルスとくれば錬金術師。なるほど、の一言だけど私が知っている世界に、今現在、錬金術師なんてものはいない。いや、私が知らないだけで、本当はどこかに存在しているのかもしれないけど。


 以前に、テレビはないんですか? と聞いてみたら、「てれび?」と言われた。ここは遠い外国なのか、それとも。


 まあいいか、とパンの上にジャムをのせた。きらきら、てかてかしている苺のジャムはまるでお兄さんの瞳の色みたいだ。美味しい、とかぶりつくと、お兄さんは信じられないものを見るように私を見た。最近気づいたことだけど、お兄さんは甘いものがあんまり好きではないらしい。


「ホムンクルス、お前、いつ死ぬんだ」

「あと、十一ヶ月くらいですよ! 毎日とっても楽しいです!」



 ***



 事件である。お兄さんのもとに、お兄さんをお兄さんと呼ばないお兄さんがやってきた。なんともよくわからない。オレンジ髪の男の人は、お兄さんを「リアン」と呼んだ。そのとき、私はお兄さんの名前を知らなかったことに気がついた。衝撃である。名乗りの文化というものを忘れていた。


 やってきたお兄さんはリアンさんより随分真面目な人のようで、私の姿を見たとき、「お前、まさか」と震えながらリアンさんの首根っこを掴んだ。


 オレンジ髪のお兄さんはとにかく切々と命というものの価値について語っていたが、リアンさんはそしらぬ顔というか、右から左に言葉を流して、多分何も聞いていない。そのお怒りの言葉を聞きながら、私は、私が生まれた理由を知った。この怒っているお兄さんが、リアンさんに縁談を勧めた。家族というものはいいぞ、という話をして、やけになったリアンさんは私を作った。物理的に家族を作ってしまったらしい。


 錬金術師は恐ろしいね、と部屋の端で体育座りをしつつ、怒っているお兄さんを見上げていると、未だに収められない怒りを肩の震えで表しながら、彼は私に自己紹介をしてくれた。


「はじめまして、僕はディー。一応、リアンの友人だ。彼とは同い年で、学友だった。君の名前は?」

「はじめまして、ディーさん。名前はホムンクルスです」


 それしか呼ばれたことがないので、これで合っているだろう。ディーさんはぎょっとして私を見た。「リアン、お前は……」と苦々しい声を出している。別に私は気にしていないけれど、ディーさんはイライラしている。


「まあいい。リアン、お前はこの子の父だ。生み出したからには、きちんと面倒をみるんだ。わかったな!」

「そんなそんな、あと十ヶ月くらいですし」


 そんなに重苦しく考えないでくださいとばかりに片手を振る。ディーさんが首を傾げた。リアンさんは、いつの間にか本を読むことに没頭している。けれど、私達の会話はきっちりと聞こえていたのか、椅子に座りつつ声を上げる。


「そいつ、あと十ヶ月で死ぬからな」


 リアンさんが最後まで言い切る前に、ディーさんの拳がぶっとんだ。



 ***



 それから、定期的にディーさんが家にやってくるようになった。もともと、リアンさんが出不精どころか生きることに不精しているために、様子見に来ることが多かったそうだ。「なにか足りないものはないか。リアンだからな! リアンだからなあ!」と繰り返して私の肩をがくがくするその人は、この国ではとても偉い人らしい。錬金術師様とリアンさんのところに訪ねてくるお客様も、ディーさんが仲介しているようで、リアンさんは、恐ろしいほど腕のいい錬金術師なのだそうだ。


 彼が私がいない場所で、こっそりと、「あの子の寿命を延ばすことができないのか」と聞いていたことを知っている。けれどリアンさんは、「無から有を生み出すことはできない」とすげなく返事をしていた。


 それから、ディーさんはがっくりした顔をしていたけれど、私と顔を合わせると、いつも笑顔だった。いい人なのだろう。リアンさんに縁談を勧めたのも、彼を心配してのことだったに違いないのに、まさかこんなことになるとは思わず。まさか誰も、物理的に家族を作り出そうなんて思わないだろう。しかしリアンさんはできてしまった。なんていったって、天才錬金術師なのだから。


 でも、日付の感覚が人よりも曖昧らしく、定期的に私に聞いてくる。


「ホムンクルス、お前、いつ死ぬんだ」

「だいたいあと、十ヶ月ですよー!」




 ***



「外にいってもいいでしょうか!?」


 毎日窓の外から、ぴかぴかの太陽を見つめていたから、とうとう我慢ができず言ってしまった。だめと言われたらどうしよう、と思っていたのに、リアンさんはパタンと本を閉じて、「ああそうか」だけの返答である。


 だめもなにもなかった。まさかの反応ゼロだったとは! と、たはーっ! と自分の額を叩いてご飯の準備に移ろうとしたとき、リアンさんは壁にかけてあるハンガーから、帽子とコートを取り出した。てっきりインテリアの一つだと思っていたので、ちゃんと着ることができるんだなあ、とぼんやり見つめていたとき、「行かないのか?」 眉をひそめられたから、ひぇっと飛び跳ねた。




 保護者同伴のお出かけである。服はディーさんがたくさん持って来てくれたから、袖を通すときもわくわくした。ドアの外は、毎日窓から見ていた風景ではないと不思議に思うと、扉がつながるのは一つの街ではないのだと言う。


「わ、うわ、あ、あ、うわあー!!」


 多分もう、これしか言えない。太陽の下を歩く。それだけでもとにかく嬉しくて、両手を開いてくるくる回る。そして自分の髪を踏んでこける。


「……何がそんなに嬉しいんだ?」

「嬉しいですよ! お買い物ですよ、家族と一緒にお買い物なんですよ! これ以上の理由なんてありますか!?」


 変なやつだな、という顔をしていたのはわかる。



 ***



 それから、私とリアンさんはときどきお買い物に行くことになった。街での知り合いはたくさん増えた。いつもりんごをおまけしてくれるおじいさん。お花に水をやって、素敵な花壇の中で笑っているお姉さん。長い髪は、散髪屋のお兄さんに切ってもらった。「こんなに長いなんて、生まれたときから切ってなかったんじゃないか?」とお兄さんは驚いていたけれど、リアンさんはそっぽを向いてなんの反応もしなかった。



 とにかく、毎日が楽しかった。すっかり短くなった私の髪を見て、ディーさんは似合うと笑っていた。彼が来る度に、私の部屋の中のクローゼットがぱんぱんになっていく。クローゼットは、しばらく前にリアンさんが作ってくれた。錬金術師とはなんでも作る代名詞になるのだろうか。


 いつしか、リアンさんは私にお鍋をかき混ぜている姿を見せてくれるようになった。きらきらと虹のような不思議な液体を長い棒でかき混ぜる。お鍋の下ではとろとろの火がゆらゆらに揺れていて、鍋の中から、星が生まれる。きらきら、つるつるのたくさんのビー玉だ。


「ビー玉!」

「なんだそれは」


 みんなはそれを、宝石と呼ぶらしい。でも私にはビー玉だ。とっても綺麗なビー玉をもらって、願いを唱えるのだという。すごい、すごいとうろついて、回って、手元を見てを繰り返してみると、「やってみるか」と言われた。どうしようか考えて、お願いします、と頷く。


 そしてできたのは金平糖である。


 ビー玉には程遠い。そのとき、初めてリアンさんの笑い声を聞いた。驚いて顔を上げたら、いつもの澄まし顔だった。



「ホムンクルス、お前、いつ死ぬ?」

「だいたい八ヶ月くらいですか?」



 ***



 ディーさんが、甥っ子さんを連れてきた。名前はクーくんと言うらしい。年は七歳。遊び相手にどうだとのことで、クーくんはディーさんととてもよく似た顔をしていたけれど、とにかく不機嫌な様子だった。そりゃあ、いきなり連れてこられて、知らないやつと遊べと言われたところで腹が立つでしょうと理解して、お姉さんぶった顔で、二人で地面にお絵かきしてみた。


「いいかい、クーくん、これは目玉焼き。こっちは卵焼き。両方リアンさんの好物で、リアンさんは卵を食べさせとけば静かなんだよ」

「しんそこどうでもいいわ」


 渾身のネタだったはずなのに、七歳児ににべなく吐き捨てられた。

 だよねと思いつつも、共通の話題などなく、私はリアンさんのことを話し続けた。夕方になり、地面には絵がいっぱいになっていて、「死ぬほどつまらなかったんだが!?」と叫びつつも、クーくんはディーさんに引っ張られるように帰っていった。


 まあもう来ることもないでしょう、とすみませんなと手を振りつつ振り返ると、リアンさんがいた。リアンさんは地面にいっぱいになった絵を見て、「なんだこれは」と呟いた。リアンさんである。いや、リアンさんを描いたつもりだ。下手くそすぎてわからない。「俺か」 なのに、なぜかバレた。さすがに気恥ずかしさを感じて、ゆっくりと頷くと、リアンさんは私の頭をぐしゃりとなでた。


「今日の飯は、俺が作る」と、言って作られたご飯はオムライスだった。


 リアンさんが料理ができたという衝撃から数日、今度はクーくんが一人でやってきた。多分ディーさんには秘密でやってきてしまったのだろう。


「ほっておくと、なんだか可哀想だからなぁ!」と、フンッと鼻の穴を広げつつ、腕を組んでいた言葉を訳すと、心配だからというところらしい。さすがディーさんの甥っ子。お節介焼きマンである。リアンさんは、開けた扉を静かに閉めた。


「リアンさん!? この扉、いろんなところにつながっているって言ってましたよね!? 閉めたらクーくんがいる街と違う街に行っちゃいません!?」

「めんどくさい……」

「開けてあげてーー!!?」



 ***



 だいたいこの頃くらいだろうか。

 リアンさんが、私に残りの時間を聞かなくなってきたのは。



 ***




 冬はとっくに終わっていて、春になった。ディーさん、クーくん、リアンさんと一緒にお花を見よう、とピクニックをすることになった。お弁当箱には、いっぱいの卵焼きである。クーくんは、おわあとちょっとひいた顔をしていたけれど、リアンさんは嬉しそうに一人でお弁当を平らげた。ディーさんは、いつものことだと諦めた顔をして、そっと野菜の付け合わせを差し出していた。



 夏になると、海である。これが噂の、と興奮を隠せない。濡れてもいい服をリアンさんが作ってくれたので、気合のままに飛び込んだ。そして藻屑となった。バカかお前は、と死ぬほど怒られ、のちに話を聞いたクーくんはどんびきしていた。彼は常に私を相手にするとどんびきする。



 事件である!

 クーくんと、ディーさん、リアンさんは、なんと本名ではないらしい。リアンさんはともかく、二人の名前はシンプルすぎると思ったのだ。この国では、名前はとても大事なものらしく、他の人には教えない。だから、私の名前がいつまでたってもホムンクルスでも問題ないのだなあ、と気づいた。ホムンクルスかっこ、仮名、というところである。




 ***




 リアンさんが、残りの日数を尋ねなくなったところで、時間の流れが止まるわけではない。毎日、日記に書くことが増えていく。最初を見返すと、お兄さん、と書いてあるのに、いつの間にかリアンさん、に変わっているところが面白い。


 残り一ヶ月、となると、私は最後の準備を行うことにした。なんと、ご挨拶回りである! 生前(と、言っていいか、やっぱりわからない)は、いつ自分が終わってしまうのか、全然わからなかったから、リミットがわかるということはとても嬉しい。


 知り合った人たち、一人ひとりに声をかけて、お引っ越しをします、と告げていく。あら、と驚く人もいる。リアンさんも一緒に回ってくれた。だから、お父さんも一緒に? と聞かれたから、ちょっと困って首を振った。クーくんには、驚くべきことに泣かれてしまった。君ならきっとたくさん、これから友達ができるよ! と背中を叩くと、「ちがわぁ!」と叫んでいた。てっきり友達が少ないと思っていたのに、そういう意味ではなかったらしい。



「ホムンクルス」


 リアンさんが、私を呼んだ。なんですか、と尋ねると、ピクニックに行こう、ということだった。実際は、こんなにわくわくした言い方ではなく、言葉数も少なく、荷物を持って、ぐいっと腕を引っ張られて、扉の行き先で、なるほどと理解しただけだ。



 ディーさんと、クーくんと一緒に行った小さな山だ。てっぺんまで上って、以前は綺麗な花を咲かせていたのに、今はすっかり赤い葉っぱに変わっている。少しだけ寂しさを感じながら、卵のお弁当を食べた。いい景色だった。多分、リアンさんもそう思っている。


 私はその景色を見下ろしつつ、見事素敵なエンディングを迎え予定であることをリアンさんに説明した。これぞ終活。一年の時間しかないから、なるべく知り合いはつくらないでおこう、と思っていたのに、あれよあれよ。両手の指では足りないくらいの方々に、寂しいな、と言ってもらえた。それはとても幸せなことだ。


「リアンさんもいたから、聞いていらっしゃったと思いますけど、寂しいって言ってくれたんです。それって、私がいなくなっても、覚えていてくれるってことですよね。すごく嬉しい。これですごく」


 言葉を少しだけ置いて。


「気持ちよく、死ねる」



 ほっと残したはずの言葉だ。なのになぜだろう。卵焼きがひどくしょっぱい。こっちの方が慣れているから、とリアンさんに作ってもらったお箸が、ぼとぼとと手元からこぼれて落ちていく。喉の奥で、変なものが詰まっている。なるほど卵焼きか、と持ったけれど、やっぱり違う。こぼれた。言葉だった。最初に言われていたはずなのに。「死にたくない」 あれっと思った。あと一年も生きることができる! 嬉しい、やった! そう思って、これ以上なく、時間を有意義に、素敵に使ったはずなのに。

 はずなのに。


「死にたくない……」


 呟いてしまったら、もうだめだった。

 あんまりにも醜かった。ぼろぼろと涙をこぼして、用意したはずのお弁当をぐちゃぐちゃにして、私は醜くたくさんのことを叫んだ。さぞ、リアンさんは呆れたことだろう。


 多分、私はどれだけ時間を繰り返しても、最後にはこうしてみっともない最期を迎える。

 情けないことにも。



 その日から、私はリアンさんとあまり顔を合わせないようになった。気まずかったのだ。これが面倒だから、と初めから言われていたというのに、結局こうなる。今も怖い。日にちを数えて、足が震える。がたがたする。けれど、こんな終わり方は嫌だった。リアンさんが部屋からあまり出てこないということもあって、私は少しずつ怖くなった。一人でなんて死にたくない。


 せめて、仲直りをしたかった。綺麗に死にたかった。だから、リアンさんの部屋の扉を叩いた。そのとき、気がついた。いや、もっと早く気づくべきだった。もともと、昼過ぎまで寝ていることも多いから、ずっと眠っているのだと、そう思っていた。想像の通り、リアンさんはベッドの中にいたけれど、その顔色は私が知っている彼ではなかった。まるで死人のようだった。



 やってきたディーさんは、ベッドの近くの椅子に座りながらも静かに、リアンさんの話を聞いた。私の寿命が一年だと決まっているのは、もともと、リアンさんの寿命を私に分け与えてくれたから。無から有は生まれない、と言っていた。当たり前だ。それなら、今ある私の寿命は一体どこからやってきたのかと気づくべきだったのに。


 だから、今度は全ての、与えることができる範囲の寿命を、私に分けてくれたのだと。



 リアンさんと私は見えない糸でつながっている。命をもらった私はあと一ヶ月で死ぬことはないけれど、リアンさんは死んでしまう。彼の寿命は、もうすっからかんだ。最期の日は、彼にだってわからない。日に日にリアンさんは弱っていく。動けなくなっていく。こんなことは望んでいない。死にたくないと言った。けれど、誰かを犠牲にしてまで、生きながらえたいわけでもない。


 一週間が経った。

 二週間が経った。

 一ヶ月が経った。


 私はリアンさんのそばを離れることが怖かった。彼の命が、いつ消えてしまうかもわからなくて、おそろしかった。死なないでほしい、と伝えると無視された。私の話なんて、全然きいてくれなかった。ある日のことだ。何もできずにいた私を見て、静かに彼は話した。本を読むように。屋敷中には、とにかくたくさんの本がある。何もすることがないのなら、せめてそれを読めと。断る理由はなかった。


 積まれていく本の数が、次第に増えていく。窓の外の景色が変わっていく。秋の葉は散り寒い冬になり、そして。



 リアンさんは死んだ。




 大声を上げて泣いた。私は一年が経っても死ななかった。けれども、私を生んだ人は死んだ。屋敷には、ディーさんが来た。クーくんもやってきたと思う。でもわからなかった。周囲にはぼんやりとした、薄い膜のようなものがあって、それを通しているから、私までたどり着かない。心配をかけたような気がする。でも、唯一はっきりと見えたものがある。本だ。たくさんの、リアンさんが残した本だ。


 本を読むように、と言ったのは、リアンさんの言葉だったから、その約束を守るように、一冊一冊、読んでいく。リアンさんの本は難しくて、最初は何が書かれているかわからなかった。何度も目を通して、首を傾げて、少しずつ飲み込んでいく。次第に、本には読む順番があることに気がついた。その通りに読んでいけば、次の本も理解することができる。それに気づくと、本を読み終える時間が早くなった。


 どこまで読んだかわからなくなるから、本棚から抜き取った本は、床に一冊一冊つんでいく。


 冬がきて、春が過ぎ、夏になる。そしてまた、秋が来る。


「これが、最後の一冊……」


 家中に本が溢れかえっていた。ただ本を読むために生きた。そうしなければ死ねなかった。これを読み終えたら、私はどうなってしまうんだろう。やることもなく、目的もなく。少しだけ怖かったけれども、読まないという選択肢なんてあるわけがない。いつもと同じように読んで、少しずつ、染み入っていく。水が、自分の中に溢れていくような。


 読み終えてしまった。


 からっぽになった本棚と、本でしきつめられた床は圧巻だ。どうしよう、と呆然としたとき、はらりと何かが落ちた。手紙だ、とすぐに気づいた。宛名はない。震える指先で封を開ける。リアンさんの文字だ。



 その中には、彼がなぜ、私を作ったのかという言葉が綴られていた。


 ディーさんに縁談を勧められた。そんなのは、ただの一つの口実で、本当は家族というものがどんなものか知りたかった。彼には親も、兄妹もいない。ただ遠い親戚がいたくらいで、その人ともあまり会ったこともないし、会うつもりもなかった。


 読んでいるうちに、次第にリアンさんが私に語りかけているような気がした。

 口下手で、あまり話すこともなく、笑った数なんて数えるほど。そんな彼が、ゆっくりと、伝えることができる言葉を選んで、呟いている。



『別に、なんてことはない。軽い気持ちだった。一年程度の寿命がなくなったところで問題ない。長く生きたいわけではないからな。ただできあがったものを見ると、少しばかり……まあ、後悔はした。いろんな意味でな。うるさいし、踊るし、泣きわめくかと思えば喜ぶし。なんなんだ、お前は。


 一年程度なら、同居人が一人増えたところで問題はないと思っていたのに、まったくそんなことはなかった。俺は、引きこもって、鍋をかき回しているだけでよかったのに。お前のせいで、外に出ないといけなくなった。仕方ない。これは義務だ。子供を放置するわけにはいかない。一応、俺だってそれくらいは考えている。


 鬱々としていて、遠巻きにされているくらいが丁度いいんだ。なのに、お前がいると知らないやつからも声をかけられる。そのうち、それが知り合いになってしまう。興味もないのに。

 それが、まあ、いやでないと思う自分もどうかと思うが、ときおりディーが笑っているのを見ると腹が立った。そう、腹が立っていたんだよ、俺は。あとお前、絵が下手すぎるしな』


 私が、クーくんと一緒にリアンさんの顔を描いていたことを言っているのだろうか。誰だと言わなくても、すぐにわかったくせに、と少しだけ笑ってしまった。


『長い一年になると思った。なのに、想像よりも短かった。笑っているお前を見ると安心した。けれど、あの日、死にたくないとお前が言った日。ずっと以前に、ディーに殴られた頬が傷んだような気がした』


 私があと十ヶ月で死んでしまう、と伝えたときのことだろう。それから、リアンさんの苦悩が綴られていた。私と顔を合わせなくなって、部屋にこもって、静かに手紙を書いた。そこまできて、これは手紙ではなく、彼自身の気持ちを整理するため、紙に書き記していたものだと気づいた。

 どうにか、私の命を延ばすことができないかと考えて、方法は一つだけだと悟った。そして、そのことに対しても、彼は悩んでいた。


『命を勝手に与えて、生きながらえさせる。それは本当に正しいことなのか』


 自分が死んでしまう恐怖よりも、ただ、そのことを考えていた。紙がぐしゃぐしゃになっていく。いけない、と思うのに、涙が溢れてくる。手紙だけは汚さないようにと自分の服でぬぐって、読んで、考える。


「言って……ほしかった」


 彼の悩みを、私に伝えてほしかった。リアンさんが死んでしまうと知って、嘆いてばかりの自分が悔しかった。時間はまだあったはずなのに。伝えたい言葉があったはずなのに。だって、そんなの、私だけじゃない。たしかに、ホムンクルスとして、彼は錬金術師として、特殊な形で生まれた。けれども、彼は命を作った。私という子供を生み出した。それは、ただの普通の親子と同じで、家族を願って、家族を知らない彼は知らなかった。リアンさんは、たしかに、私の父だった。



 最後になると、リアンさんが自分でもわけもわからず書き残したものではなく、私に向けた言葉であることに気づいた。自分が持っているものは少なく、残すべきものもあまりない。けれども、生きるだけに困らないものを、渡す。いらないのなら、捨ててくれ。



『リアンネージュ。お前にその名と、俺の全てを』



 手紙から七色の、小さな光がゆっくりとやってきると思うと、瞬きを一つする間にそれはぶわりと溢れた。大きなリボンがたくさん包み込んでくるように、私の中に、なにかを落とす。きらきらのビー玉だ。それが、次は、金平糖に。読み込んだ本の知識が彼がくれた何かと一緒に、はっきりと、私のもとに変わっていく。




 のこされたのだ。


 知って、瞳がなくなってしまうかと思うほどに、ただ、泣いた。やってきたディーさんの姿を見て、私を包んでいた不思議な膜が、なくなっていたことに気がついた。すでにいなくなってしまった人が眠っていたベッドを抱きしめた。くずくずと、自分の感情を、どう表したらいいかもわからなくて、泣き叫んだ。






 ――これは、私の回顧録だ。


「……と、いうほど立派なものではないかなあ」


 本棚の中から、懐かしいものを見つけてしまった。当時の私は毎日、少しずつ日々書き留めていた。ずっと本を読み続けていたときは、さすがに止まってしまっていたけれど、あとのことを思い出して埋め込んでいる。つまり、これは日記だ。

 昔は届かなかった場所でも、脚立がなくても手が届く。


 お鍋の中はぐつぐつと。何度作っても、彼のようなビー玉にはならなくて、私のものは金平糖だ。


「まあ、美味しいんだけどね」


 彼は甘いものが嫌いだったから、私のこれを見たら、眉をひそめるのだろうか。それとも、あのときと同じように、ちょっと笑ってくれるのだろうか。


 こんこん、とノックの音がする。約束の時間だから、きちんと場所をつないでいる。「リアン、客を連れてきた」 不機嫌そうなオレンジ髪の青年である。


「ありがとう、クーくん」

「……いい加減その呼び方はやめろ」


 クーくんの後ろには、女の人だ。以前はディーさんが仲介をしてくれていたけれど、今はクーくんに代替わりをしている。どうにも、彼女は不安そうにふるえていた。


「どうぞ、おかけになってください。甘いものはお好きですか? もちろん、お好きでなくても大丈夫。先代は違いましたから。お悩みを教えてくださいな。無から有は作れませんが、有を作る、お手伝いはできますよ」



 ――ここは、秘密に紹介された人だけがたどり着くことができる、国一番の錬金術師の店である。なんでも店主は、黒髪で赤目の、無口な男であるとか。いいや、銀髪の赤目の、可愛らしい女性で、あったとか。

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ホムンクルス、余命一年(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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