~9/4


「もう夏休みがあと一週間しかないの、信じられないんだけど」

「何言ってるんですか?」

 屋上、給水塔の上、ふうが小説に視線を落としたまま、そう言った。ふうは夏休み中ずっと同じ本を読んでいる気がする。とんでもなく読むのが遅いのか、同じ本を何度でも読むタイプなのか。にしても時間をかけ過ぎだろうと思う。

「だって、あと一週間しか夏休みないんだよ?」

「そうですね」

 ふうは本から私に視線を移し替えて、呆れたような表情を浮かべた。

「宿題ほとんど終わってないんだけど」

「自業自得じゃないですか」

「ふうは終わってるの?」

「終わってますけど?」

「うわ、絶対終わってないと思ってたのに、ふうなのに」

「先輩はわたしを何だと思ってるんですか?」

 ふうが眉根を寄せて私を睨んだ時、ガチャリと扉が開く音が鳴った。ふうと私の間に緊張が走る。楽しげで快活な会話が聞こえて来た。私とふうは示し合わせたかのように揃って身を伏せた。

「屋上の掃除とかマジだるい」「うわきったな」「でも掃除したら先生がアイス奢ってくれるらしいし」「あー、めんど」「まぁそう言わずみんなでさっさと終わらせようよ」

 健康的に日焼けした男子生徒たちだった。すぐに運動部と分かる。男が四人、女子が一人。その女子を、私は知っていた。声もよく知っていた。

「お前ウザいよ」

 幻聴が頭に響く。胸が苦しくなった。お腹が痛い。嫌なことを思い出した。

「あ」と隣でふうが呟いた。彼女の視線の先には、高身長の超イケメンがいる。さては彼がふうのモトカレか。

彼らの話を盗み聞きしてると、経緯は不明だが、サッカー部が校内の掃除をすることになったらしいと分かる。ここに来た五人は、屋上担当という訳だ。

 さて困った。私がどうしようかと考えていると、隣から舌打ちが聞こえた。ふうが例のイケメンと女子マネを睨みつけている。人を殺す目付きだった。

「ふうちゃんこわい」

 冗談めかして言うと、私も睨まれた。人を殺す目付き。可愛いのに怖い。可愛いから怖い。

「このままだと誰かがここに登って来るかもね」

 私が言うと、ふうは「最悪」と心底嫌そうに呟いた。

 私は、ミカンさんの言葉を思い出す。

「ちょっとくらいの悪いことや、悪戯とか、殴り合いの喧嘩とかは、青春のスパイスになり得る」らしい、ミカンさん曰く。

「いや、いじめや浮気はダメでしょ」らしい、ミカンさん曰く。

「青春っていいなぁ」と、ミカンさんは言った。そんなに羨ましがられることなのだろうか。よく分からない。よく分からないが……、私が青春の中にいるというのなら、やられっぱなしというのは、納得いかない。でも、怖い。

そりゃ、私がウザかったのかもしれないけどさ、いじめるのはよくないよ。でも、怖い。

露骨に無視されたり、物を隠されたり、変な噂を勝手に流されたりしてさ。無理して平気な顔してたら、またウザいって言われて、辛かった。怖かった。だから屋上に逃げたのに。

ここからまた逃げて、私に居場所はあるのだろうか。

「……仕返し、しよう」

 意図せずそんな言葉が漏れた。仕返しはダメとは、言われなかったし、なら良いだろう、多分。

すると、隣にいたふうが当然のように頷く。「よしやりましょう」

ふうはクーラーボックスからコーラ入りのペットボトルを二本取り出すと、一本私に手渡した。そして二人して全力でそれを振った。今の私たちは以心伝心。

「わたしはあのクソ野郎をやります」「おっけい、女の方は任せて」

 ふうは立ち上がって、するすると迷いなく梯子を下りていく。私は慌ててその後を追う。コーラを持ったまま降りるのはちょっと大変だった。

「あ、せんぱい、奇遇ですね」

 ふうは私と喋っている時よりワントーン高い声で、例のイケメンの元に歩いて行く。後ろ手にはコーラ。私もコーラを背中に隠しながら、ふうに続いた。

 サッカー部のマネージャー兼アイドル的な女子が、私の存在に気付く。彼女は私を見て、驚いたように目を見張っていた。続いて彼女はふうを見て、鼻を鳴らすように笑った。

 彼女は再び私に視線を戻し、近づいて来る私を見て、不気味そうに「なに?」と言った。

 イケメン先輩の方は、ふうを見て面白いほどうろたえていた。他のサッカー部は、突然現れた私たちを見て、困惑してる。

 ふうは天使のような可愛らしい笑顔で言う。

「今日、暑いですよねー。そう思いません?」

「お、おう」

 イケメンはうろたえていてもイケメンなんだな、とどうでもいいことを思った。

「こういう日は、冷たいコーラとか飲みたくなっちゃいますよね」

 無邪気な表情と声のトーンだった。ふうが猫被りには自信があると言っていたのは本当だったらしい。彼女の素を知っている私でも勘違いしそうになる。

「お、おう、そうだな」

 ふうの屈託のない(ように見える)笑顔に、少し警戒心を解いたのか、イケメン先輩はひきつっていた顔を少し緩ませて、素直に頷いた。

「可愛い後輩からのプレゼントです」

 ふうが隠していたコーラを取り出し、銃口をイケメン先輩に向けてキャップを捻る。世界を狙えそうなほどスムーズな初動だ。命中。

 イケメンの甘いマスクが黒ずんだ液体に塗れ砂糖漬けにされた。甘い匂いがする。その瞬間、その場の時間が停止したようだった。全員が唖然としている。時間停止魔法か。その中で動けたのは、私だけだった。

「ウザくてごめんね」

 サッカー部のマネージャーさんに銃口を向け、私もキャップを捻り外す。命中。これで少しは私への態度が甘くなってくれると助かる、コーラみたいにね、っていう皮肉。ざまぁみろ。

 私とふうは大笑いしてはしゃぎながら逃げ出した。


 背後から追ってくる屈強なサッカー部たちから、私とふうは逃げる。自称運動が得意なふうは本当に運動神経が良いようで、ひょいひょい階段を飛び降りながら彼らと距離を離していく。相手はサッカー部なのに凄い。一方私はどんどん距離を詰められていた。二つ階段を降りた先の踊り場で捕まる。首根っこを引っ掴まれて、引き倒される。

「いったぁ」

 私の声にふうが一瞬振り返った。「先輩の無事を祈ってます」

 ふうの姿が消えた。相変わらずいい性格をしている。一夏の絆なんてこんなものか。これが現実か。これが小説ならもっと上手くいくだろうに。

 屋上に連行された私は、甘い香りを漂わせる女に平手を受けた。ジンジンと頬が痛む。これが青春なら、青春なんてそこまで良いものでもない。ミカンさんの嘘つき。

「あんたさぁ、何のつもり?」

 コーラで髪の毛をベトベトにした女が言う。滑稽だ。思わず笑うともう一発殴られた。

 彼女の隣にいたサッカー部の連中が、彼女を宥める。イケメンの先輩も、私を殴ろうとする彼女を冷静に制止していた。彼はそこまで怒っていないらしい。

「何があったのか知らないけどさ、君がコイツに謝ってくれたら、あとはこっちで何とかするから」

 イケメンの先輩にそう言われる。

 その台詞が、何故だか、無性に苛立った。彼が何も知らないのは事実だと分かるけど、それでも、無性に苛ついた。腹が立つ。何でこんなに腹が立つのか、自分でもよく分からない。でも、これは無理だ。

「いや、無理でしょ」私はせせら笑う。「そっちが先に謝ってくれたら、考えてあげても良いよ」

 コーラの匂いのする女が眉を吊り上げ、もう一度手を振り上げる。それはとなりのイケメンの先輩に止められる。それすらも苛立った。

 あぁ、多分無理なんだろうなぁ、と思う。悟ってしまう。きっと私と、彼女の関係は終わらない。

 これが小説なら、上手い具合に都合が付いて、仲直りできるんだろうな。きっと彼女にも彼女のなりの理由があって、私にも理由がある。互いがそれに気付いて、尊重し合って、謝って、綺麗に完結するんだろうな。あるいは、ふうが助けてくれてもいい。でもふうはここに戻ってこないだろう。それが分かる。そういうふうは、嫌いじゃない。

 でも、この女は嫌いだ。何があっても、きっと、ちゃんと謝られても、嫌いなまんまだ。大した理由なんてない。嫌いなものは嫌いなんだ。多分、向こうも同じこと思ってる。

「死ねよ、お前」

 彼女が私にそう言った。

 いつだったか、確かあれはふうと最初に屋上で出会った日。ふうは私に「あの時、死ねって言って、ごめんなさい」というようなことを言った。

 その二日後くらいに、何で死ねと言ったのを謝ったの? と私が問うと、ふうはこう言っていた。

「わたし、誰かに死ねとか、殺すって言う人、大嫌いなんです。まぁわたしもたまに言っちゃうんですけどね」

 「なぜ?」と私が問うと、ふうは「だって」と前置きしてから言った。

「本当に相手を殺す覚悟もない癖に、殺すとか言うの、クソダサくないですか? あと、死ねって言って、本当に相手が死んだ時、ざまぁみろって笑える人も、ほとんどいないと思うんですよ。どうせ、ただの冗談だったって、誤魔化すんですよ。ダサいですよね」

 そう言って鼻息を荒くしていたふうが可愛くて、「そうかそうか」と頭を撫でまわすと、「ウザい」と射殺すような眼で睨まれた。

 そんなことを思い出してくすくす笑っていると、コーラの匂いのする彼女が舌打ちした。

「本当にお前ウザいんだけど、死ねよ、はやく、死ね」

 あぁ、コイツは大嫌いだ。どうにかして、この場を上手く終わらせられないだろうか。完結させたい。こいつらに、一泡吹かせたい。

 圧倒的に不利にいる私に、できることがあるとすれば、何だろう。

どこまでも都合の良い結果を願う。現実にそんなものが無いと分かっていても、願う。 

魔法が使えたらいいのに。魔法のように都合の良い奇跡を、いつだって望んでる。 

その時初めて、ミカンさんの言っていた言葉の意味が、理解できた気がした。

 挑発する。

「死んでやろうか?」

その瞬間、不思議なことが起きた。

「衝動的に人を殺す人がいるんだから、衝動的に自分を殺す人もいるよ」

 どこかで誰かがそう言った。世界に魔法がかかる。屋上が、綺麗になった。

 多分、五年前の、一人の生徒が飛び降り自殺する前のここは、こんな感じだったんだろうな、という感じ。ベンチとテーブルが整えられていて、花壇には花が咲いていて、居心地の良さそうな歓談スペースになる。

 一瞬にして様変わりした屋上に、サッカー部の連中と、目の前の女は眼を見開いた。皿のように目を丸くして、信じられないという顔をしている。

 そして、何より、大切なこと。屋上を取り囲むようにしていたフェンスも消えていた。

 何かに引き寄せられるようにして、私は屋上の縁に向かった。

 幅一メートルくらいの縁に立つ。一歩でも前に踏み出せば、私は落ちて死ぬだろう。

 目の前が開けている。青い空と白い雲。眩しい太陽。喧しい蝉時雨。運動部のかけ声。吹奏楽部の演奏。夏の匂いがした。むせ返るような、夏の匂い。

小鳥が翼を広げ、空を飛んでいる。

 「待って」と、背後から声が聞こえた。

 私は飛び降りた。


 屋上から地面に向かって一直線に落ちながら、私は飛び降りたことを後悔していた。これは死ぬなぁと思った。

 何故かその時、頭を過ぎったのは、昔に思い描いていた小説家になるという夢のこと。

 私は笑った。

 なんて馬鹿なんだろう。笑っちゃうよね。


 目を覚ますと、私は病院のベッドに寝ていた。隣にはふうが居た。

「あ」とふうが言う。「え?」と私は驚いた。

 ふうが手を振り上げる。

「え?」

 平手が飛んできた。ピシャリと気持ちの良い音が鳴る。ジンジンと頬が痛む。

「全く、先輩は馬鹿なんですか?」

 ふうの声は、涙ぐんでいた。

 以降、医者やふうから聞いた話。

 八月二十四日。つまり私が屋上から飛び降りた日。頭から落ちて重傷を負った私は、とある生徒の通報を受けて到着した救急車によって運ばれ、病院で治療を受けた。

 医者曰く、奇跡としか言いようがないらしい。

 あの高さで頭から落ちて、生きていられる訳が無い、と。例え生きていたとしても、一切後遺症が残らないのはあり得ない、と。でも私は頭に大きな傷を作ったくらいで、全く命に別状はなかったらしい。まさしく奇跡だ。

 医者曰く、通報の電話をかけた生徒は、「いきなり目の前で屋上から飛び降りた。訳が分からない」と大いに混乱していたらしい。

 ちなみに私が目を覚ましたのは、飛び降りてからの一週間後、つまり八月三十一日の早朝だった。ふうは私に平手を喰らわせた後、「また今度、ゆっくり話しましょう」と怒ったように言ってから、「お大事に」と言い残して病室を出て行った。

 それから空が茜色に染まるまで、色々面倒臭いことがあったのだが、どうでもいいことなので割愛する。体が異様なほど怠くて喉の渇きが尋常じゃなかった、とだけ言っておく。

 病室の窓から、何となしに、あと少しで満月になりそうな夕月を眺めていると、ふと側に人の気配を感じた。視線を上げると、ミカンさんが立っている。

「や」

 ミカンさんはいつものように、楽しげに笑って片手を上げる。

「ども」

 軽く頭を下げる。

「さて、賭けの勝敗を決めよう。夏休みは今日までだよ」

「夏休み、もう終わりですか?」

「そうだよ、今日は八月三十一日、もうすぐ日も暮れる」

「あぁ、飛び降りなんてしなきゃよかった……」

 心底、後悔している。衝動的に屋上から飛び降りるなんて、私はなんて馬鹿なのか。

「全くだ」

 ミカンさんの言葉には実感がこもっていた。

「改めて聞こう。君は、魔法がこの世にあると思う?」

 この時の私は、多分、とんでもなく悔しそうな顔をしていたことだろう。ミカンさんの楽しくてたまらないという顔を見れば分かる。

「魔法は、あるんでしょうね」

「よーし認めたな。私の勝ちだ。やったーっ!」

 ミカンさんは万歳して勝ち誇る。眩しい笑顔だ。まるで夏のよう。

「さてそれじゃあ、私が君にするお願い事だけど」

「はい」

「また今度、伝えるよ」

「はい」

「じゃあね、ありがとう、楽しかったよ」

「どういたしまして、こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」


 私が退院できたのはそれから三日後、九月三日の夜だった。親の車で家まで運ばれ、我が家の隣、ミカンさんが暮らしている部屋の表札を覗く。下手くそな筆文字で『天才小説家ミカン』と書かれていたはずの表札が、消えている。それに、妙な違和感があった。

 おかしい。確かに我が家の隣の504号室に、ミカンさんが住んでいたという記憶がある。実際に何度も中にお邪魔もした。その筈なのに、我が家505号室の隣にある部屋ナンバーは、504号室じゃなくて、503号室だった。そんな馬鹿な。

 念のため、親に尋ねてみると、503号室は半年くらいまえからずっと空室という話だ。ちなみに504号室は、このマンションには無いと言われた。4が不吉な数字だから。

 こうしてミカンさんは私の前から姿を消した、という訳である。

 あともう一つ、不思議なことが起こった。全く手を付けていなかったはずの夏休みの宿題が、綺麗に全部片づけられていたのである。訳が分からない。


 夏休み明けの学校に登校すると、私の顔を見たクラスメイトがざわついた。教室内に視線を巡らして、あの日コーラの甘い匂いを漂わせていた彼女を探す。彼女と視線が合ったのは一瞬で、すぐに逸らされてしまった。

 昼休み、私が屋上に行こうとすると、屋上は厳重に封鎖されていた。例のダイヤルロックじゃない。まぁ当たり前と言えば、当たり前の話である。

 仕方なく引き返そうとすると、目の前に彼女がいた。あの日コーラの甘い匂いを漂わせていた彼女だ。

 彼女は私を見て、何か言いたげに唇を震わせた。私と彼女はしばらく視線を交わし合っていたが、やがて彼女は何も言わずに私に背を向けた。まぁ、こんなもんだろう。

 一応、私も悪かったと思う節はあるので、心の中で「ごめん」と謝っておく。まず間違いなく伝わっていない。自己満足。もう、私と彼女がまともに目を合わせて話すことは二度とないんだろうな、と何となくそう思った。


 放課後、私とふうは並んでブランコに座っていた。私とふうが最初に出会った小さな公園。

 ふうは怒っていた。死ねと言われて本当に飛び降りる奴があるか、とか、あんな奴のために命をかける必要なんてなかった、とか、本当に心配した、とか、そう言って最後に泣いた。

「わたしが先輩を見捨てたから、飛び降りたんですか?」

「そんな訳ない。なんかこう、いけるって、思ったんだよね。衝動的に」

 そう言うと、ふうは唖然とした顔で、「馬鹿すぎる」と私を罵った。私は本当に、心の底からふうに謝罪をした。私だって、自分のことをこれ以上ない馬鹿だと思う。もう二度とこんなことしない。

 私が何度も謝ると、ふうは「もういいですよ」と言って笑った。

「先輩が飛び降りた時のアイツらの顔を想像すると、笑えますし」

 やっぱりふうは、ふうだと思った。

「あの、先輩」

「なに」

「わたし、先輩のウザさに救われてたみたいです。あの時、こんなわたしに声をかけてくれて、ありがとうございました」

「こちらこそありがとう。ふうはぁ可愛いなぁ、よーしよし」

「でも、あんまりウザいのも、どうかと思いますよ」


 そう言えば、と私はあることを思い出す。

「ねえ、ふう」

「なんですか」

「ふうさ、夏休みに屋上で、衝動的に人を殺す人がいるんだから、衝動的に自分を殺す人もいるよ、って言ったことあったじゃん?」

「はい」

「あれさ、本当にふうの言葉?」

 何となく、違うような気がした。私はもっと別の所で、その言葉を知ったような気がするのだ。

「あぁ、あれはですね」そう言って、ふうは鞄から一冊の本を取り出した。ふうが夏休みの間、屋上でずっと読んでいた本だ。「この本の台詞です」

「月道蜜柑って人の、デビュー作なんですけど」

「つきみち、みかん……?」

「わたしも、先輩が屋上から飛び降りた後に偶然知ったんですけど、この人、わたしたちの学校の生徒だったらしいんです。在学中にデビューして、天才小説家って言われてたんですけど、屋上から飛び降りて死んじゃったんですって。ほら、五年前に飛び降りて屋上が閉鎖されるキッカケになったっていうあれです。だからその人が書いた作品は、この一冊だけなんですよ」

「もしかしてそれ……、完璧な幸せ人生を送ってる女の子が、恋人に裏切られて転落人生を送るっていう、ふうみたいな話のやつ?」

「はい、そうです。まぁだからわたし、夏休み中はずっとこの本を読んでたんですけど。これを読んでる間は、色んな嫌なことを忘れていられたので」

「それ、そんなにいい話なの?」

 少なくとも、何度も繰り返し読みたい類いの話ではなさそうだ。

「いや、でもですね。この話意外と……」

「あ、待って」

 思い出した。確かその本、一年前くらいに買って、途中まで読んで放置している一冊だ。たぶん、本棚の隅に眠ったまんま。

「今度自分で読むからネタバレはなし」

「了解です。今度感想教えてくださいね」


 ふうと別れて、自宅があるマンション下のゴミ捨て場の隣を通り過ぎた時、いつか見たようなアルミの空き缶がパンパンに詰まったビニール袋が目に留まって、私は歩みを止めた。

 アルミ缶の上には、紐で縛られたA4サイズのコピー用紙の分厚い束があった。手に取って見ると、見覚えのある文字の羅列が窺えた。

「アルミ缶の上にある未完、ですか」

 そう呟くと、どこかで誰かが楽しげに笑った気がした。


 未完の小説たちを持って、帰宅し、自室に向かう。そして本棚の隅に眠っていた一冊の本を発掘する。筆者の名前は『月道蜜柑』。タイトルは『幽霊』。

 ぺらぺらとページをめくって確信する。この文体を私はよく知っていた。これは間違いなく、ミカンさんの文章だ。

 ページをめくって、少しだけ読み進める。

 完璧な幸せ人生を送っていた女の子は、ある日恋人に裏切られたことをキッカケに、不幸になる。順風満帆だった日々が、どんどんと暗くなっていき、全てがどうでもよくなった少女は、一人ぼっちになる。

 ある土砂降りの雨の日、その少女は一人の女性に出会う。幽霊のように捉えどころのない、不思議な……というより、変な女の人。自らの不幸を嘆き、荒れていた少女は、初対面の癖に馴れ馴れしく話しかけてくるその女を、「ウザい、死ね」と突っぱねるのだが……。

 最近どこかで聞いた話だ、と私はそう思った。

さらにページを何枚かめくると、栞が挟まっていた。「衝動的に人を殺す人がいるんだから、衝動的に自分を殺す人もいるよ」という一文が、チラリと視界に入った。

 白い栞に、何やら文字が書いてある。私の文字ではない。

「あとは頼んだ」

 これは。

 ミカンさんと出会ったばかりの頃、交わした会話を思い出す。

「これ、続きはないんですか?」

「続きはないよ」

「なんてもん読ませるんですか」

「いつか書くよ、いつかね」

まさか、誰が書くとは明言していなかった、とか、そういうオチか? それでいいのか?

自称天才小説家が、それでいいのか?

「そんな馬鹿な」

 思わず呟く。小説家として、それはどうなんだ。これでこの先、私が昔みたいに小説家なることを夢にして、大成したらハッピーエンドか? 

それは、なんていうか、あまりに都合が良すぎやしないだろうか。

 いつか会ったら、絶対文句を言ってやろう。また、会えたらいいな。会えるだろうか。

まぁ、きっといつの日か会えるだろう。例えミカンさんがどこにいたとしても、この世には、魔法のように都合の良い奇跡があるのだから。

ミカンさんとまた会えるその時まで、ふうとなんてこともない話でもして、のんびり過ごすことにしよう。

                                        了


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なつふうみかん 青井かいか @aoshitake

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