光りに焼かれつづける、打ち棄てられた冷蔵庫のブルーズ

中田満帆

光りに焼かれつづける、うち棄てられた冷蔵庫のブルーズ


 8月のこと。ちいさな建屋の、自動車修理解体工場のまえ、うづたかくされたもののあいまをぬうようにしてかれは冷やされた緑の、その露をなめてる。とにかく舌が乾いた。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらをむこうにふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとってかれは話しをしてみる。

  やあ、おれだよ。

  うん、そうだよ。

  ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。

  いまに好きなことができるぜ。

  えっ?

  サツだって?

  それはないね、おれのことはだれも知らない。

  ああ、それは聞いてる。

  でももんだいはない。わかってる。

  お願いだ、きょうは1日じゅう、赤いのを着ててくれ。

  じゃあ、頼むよ。――また遭おうぜ。

  しばらく潜んなきゃ。

  じゃあ。

 そのまま切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、かれに冷たかった。

    逃げたんじゃねえかとおもったね。

  祷ってたんですよ。

     神を信じてんのか?

  いえなにも。

    じゃあ、なにに祷る?

  この朝に。

   ふざけるなよ。

    おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。

 支度を終えて4人は車へ乗りこんだ。商品広告を載せたラッピングの白いバン、みな黙り、せかせかしたようすで莨を取りだす。いっせいに吸いだした。車庫の脇に植わった木が風で泣き、飼われてる犬が眼を醒ましはじめた。臆病な空気がそのへんに立ち込め、あるものは鼻を覆った。

   おい、大丈夫だろうな?

 助手席に坐った老人が青年へいった。ビーディーを吸い、うつろなまなざしを朝日にむけていた。唇が分厚い。いちばん年少の27だ。――もちろん、だいじょうぶです。――その声は昏く、にぶいひびきがある。老人はなにかものを呑みこんだつらで、それを聞き、出発の合図をした。──どうなってもみんな一緒だ。

 信じなかった。いつもみんな先にどこかへいってしまう。5月の終わり、じぶんのもとに届いた郵便をおもう。なかに詩の雑誌と入選を知らせる紙片が封入されていた。それを救貧院の事務室で受け取って、その場であけた。選評にはこう書かれてあった。


 《カポーティの短篇小説を読んだことがありますか? その一節を描いたような魅力的な作品。特に第2連め。「汚れ」も、ある特定の精神に触れ言葉になれば、美しさに変わる、そんなことを思わずにはいられなかった》


 カポーティを読んだことがない。その来歴と写真を見たに過ぎない。作家はかれの生まれた年に死んでいた。かれと同じくアルコールを呑みすぎていた。かれの知能指数は100にも満たなかったが、作家のそれは250あった。

 いくつかの作品についてあらすじを調べた。じぶんの棲むところとの遠い距離を感じ、当惑を憶えた。楽しめそうには思えない。かれは1年も職に就いておらず、ほとんどのものから孤立してた。

 発進する車、そのゆさぶりを慈しみながら、おれはこんなものごともやがて美しさに変えてしまうのだろうかと思った。なにも書かずにすむのなら、それがいちばんの救いのはずだ。書いてしまうことで本来、きれいだったものを醜く、穢れきったものを美しくかざりたててもしまうのだ。

 モグラびとたちはいごろ、どうしてるだろうか。またあの臭気のなかで眠りをむさぼってるだろう。こうなってしまえば、おれだってそうしたい。きっかけは町にいるときだった。声をかけてきたのは老人のほうで、かれはやせぎずで、乱れきった髪をハンチングで隠しきれないまでに隠そうとしてた。しろいもみあげがいたいたしくみえる。

   ここらに棲んでるのか?

  はい、あそこの施設にです。

   いい仕事があるんだが来ないか?

  無理ですよ、門限があるますから。

   何時までに?

  8時までにです。朝は6時半から。

   そっか。でも考えてくれよな。実入りはとにかくいいし、若いのがいるんだ。

 かれのなまえや実家について訊きだすと、老人はスーパーを越えてどや街のほうへ入っていった。歩道の柵に洗濯物がかかってるところをかれはみる。しばらく日に焼かれながら。それが去年の秋口だった。春になってかれはアパートメントの1室を与えられた。居宅生活訓練といい、生活保護に値するかをみるのものだった。条件はひとつ、酒を呑まないこと。呑めば1発で実家送りだ。室はふるい色町のなかにあった。戸口をひらけた屋が何軒もならび、坐った女のひとの隣りで、年寄りのが客引きをしていた。――おにいさん! いかが!――日に渡される千円ではそんなところにはいけない。なにかわるいことをしたようにいつも声を通りすぎてた。

 かれがそこを追われたのは、電話のせいだった。その日は朝から呑んでて吐きちらかすてまえにきてた。ゆうぐれどき、ほんのおもいつきでダイアルに手をかける。師匠である、童話作家にだ。その声は冷め切ってた。

    で、――なに?

   作品、送ったのですが。

    ああ、届いてるよ 

   どうでしたか?

 少しあいだがあった。それから堰を切る、そのものだった。

    どうでしたかじゃないよ。

    あんたはおれに破門してくれって書いてきたんだぜ?

    そんなやつがどうでしたか、なんてよくいえるな!

    あんなきたならしい詩なんか送ってきやがって!

    あんたはどうしてそう品がないんだ?

    詩なんか猫かぶりでいいんだ!

    あんたは酒に溺れてどんどん品がなくなってる。

    あんたそれが自分でもわかってるだろ?

    それをなんだ、3流雑誌に載って、

    へんな女からわけのわかんない評がついたくらいで調子に乗るなよ!

    あんたはみんなに迷惑かけてるんだ、

    おやじさんにもおふくろさんにも姉さんにも妹たちにも施設のひとにも!

    あんたは本当に家へ詫び状送ったのか?

    あんたうそつきだからな、あんたの書いたことなんてひとつも信じられない!

    あんたは姉や妹たちが嫁げなくなるようなものを書いて平気なのかよ、

    だったらいますぐに死んじまえよ!

 おれは品のないろくでなしでうそつきだとかれはおもった。はじめからからねじくれてる。かつておれに品があったとはおもえない。ただ化けのかわがはがれてきたのだ。飯場を転々としたり、空き家の車庫で寝たり、公園で暮らすようなことがなければ、もう少し品があるように装いつづけることができたかも知れない。でも遅かった。だから黙って聞く。

    あんたをおれを老いぼれって書いたけどな。

    酒なんか呑んでるあんたよりも、

    おれのほうがよっぽど脳は若いんだからな!

    おれはいま中国の詩人の研究をしてるんだよ。

    あいつらはな、ちょっとでもまずいこと書いたら殺されちまうんだぜ!

    あんたなんかな、本当ならもうおしまいなんだよ。

    あんた、なんであんなことを書いたんだ?

    あんたはおれに褒めてもらいたくて詩を書いて送ってきたのか?

  ええ、そうです。

  甘えていました。

    そうだろう。甘ったれてただろう。

    あんたがおれについてとやかくいうのは許すよ。

    それは許しますよ。

    だけどな、あんたが先生についてくだらないこと書いてみろよ、

    おれはあんたのことを探しだして殺しにいくからな!

 作家とはじめてあったときのことを思いだしてた。老作家はいった。詩人は品のいいやくざだと。かれには義理も人情もない。じぶんを突き放す度胸もなかった。

 詩人はしゃべりまくり、とんでもない勢いで言葉を放った。おれにはとてもそんなことはできない。おれが憶えたのはけっきょく言葉の模造品だ。本と映画と音楽によって育まれたつくりものに過ぎない。ひととの交わりのなかで培い、養ってきた人間に敵うはずはない。ただ聞いてるしかなかった。

    おれはあんたをいったん破門するよ。

    あんたがもしも先生について、

    あなたにしか書けないようなやつを本1冊分書いたら許すよ。

    できなかったらそのままお互いに忘れましょう。

 電話を切って、罐チューハイを干した。できることはなにもない。そのままかれは救貧院にいった。よく憶えていないが、夕食の予約を入れてたから、それをいかないとすれば怪しまれるとおもい、さらには、あまり酔ってはないとおもってた。あっというまに酒酔いがあらわになって、かれはその夕べのライス・カレーも、千円の支給もとめられ、すぐに実家へと送還された。それは山のてっぺんにあって、高原と呼ばれ、まわりにはなにもない。バスも列車も、商店も、自動販売機も、浮浪者も、娼婦も狂人もなかった。日課といえば寝てるところを父にけられることだけだ。そしてたまに金を手に入れては酒を麓の町まで買いにでかけることだった。

 ある夜、とんでもなく酔ってた。かれは母に怨みごとをぶっつけ、いちばんしたの妹を撲りつけ、木椅子で祖母の仏壇をはでに鳴らした。それから電気で死のうとおもいたって、どうやるかを考えてるうちに眠ってしまった。嘔きだしたもののうちでだ。つぎの朝、夜勤から帰ってきた父にこっぴどくやられた。荷物をすべて燃やされ、かれが密造してた口噛酒が室のそこらじゅうにばらまかれた。それはかれ自身にも注がれた。

 その夜電話があった。老人からだ。

   生きてるか?

  死んでるほうがましでしょうね。

   金儲けはすぐそこにある。ついてこいよ。

  のったよ、じいさん。

   その調子だ、兄ちゃん。

 つぎの朝にはもう町へでてた。父の金をくすねて追い放たれたところへ。かれはまず、もぐらびとたちの巣へ招かれた。戦前からある地下道で、もとは水が流れていたらしいところだった。かれらはそこで暮らしてた。小舟のようなねぐらをならべ、ときおり流れてくる、不法投棄に備えてる。浅い汚濁のながれと豚のようなねずみが、あたりを飾ってて、かれは鼻を覆って耳をすます。老人が声をかけずとも、7人の男たちは舟を降りてきた。みないちように表情がない。くらい両の眼がぼくを見てた。――こいつだよ、トビタに棲んでたっていうのは。

    若いくせに保護かよ。とんだくそやろうだな。

      聞いたことあるぜ、いまじゃあ、将来性のあるやつを受けるって。

        でも若いからってさきがあるとはかぎらねえ。

        男なんてせいぜい10代のうちに底が見えてら。

    少なくともこいつには、ないだろうな。

   そう突っつくなよ。せっかくのやつなんだからな。

        せっかくやつがこわされねえようにしねえとな。

 わらいのないわらいを聞いた。ややあって老人は全員のなまえのみを明らかにした。しかしかれは自身の来歴について証言しなければならなかった。産まれの土地から、学校や集まりへの遠ざかり、倉庫や飯場での流れようなんかをだ。

         どもりがあるな。すこしだが。

  ええ、そうなんです。

        そうなんです、だとよ。

          まあ、よしとしよう。

         そうだ、よしだ。おれと似てるらしい。

   よかったな、きみ。

 老人の手が背中にかかる。その日は老人の知り合いの家へ泊まった。自動車修理解体場で、中心街からはずいぶんと遠い。列車に揺られながら、おもてをみる。灯しはすでにまばらになってた。

 挨拶も控えめにかれらへあたまをさげた。30代の夫妻だ。夫は肥えすぎで、妻のほうはといえばやせすぎだ。ほとんど肉を感じさせない。眼が鋭い。でも美しさと品はあった。

 食卓におかれた作業手袋を棚へはらってから、妻は料理をならべだした。かの女は午、修理を請け負い、夜には女房にもどった。看板はない、広告もださない解体と修理、ここには車体のほかにもきずを持ったひとたちがくるらしいと察することができた。具の乏しい汁ものを妻は好み、夫は肉と脂を噛み砕いてる。そうしながらかれの来歴を聞く。老人がそれを飾って、ことさら信用のある人物にみせかける。

   あんたは広告貼りの格好してそこらをぶらついてくれたらいい。

   わしはビラ配りのふりをしてたっているから。

   車が着たらまずは警備員をよく見ろ。

   やつらが金の入った鞄をだしたら、

   おまえは糊のデッキブラシをそのつらにぶちこめ、

   おれは鞄を奪う、

   それで一緒に車に乗るんだ。

 どっかで聞いた場面だなと思った。おもいだしてみるとそれは映画だった。不良少年とフランソワ・オランのはったヤマ。映画はいまいちだったが、ジョゼの原作はよかった。吹きだしそうになりながら喰ってた。あまりにばかばかしかった。でも、それがいいのかも知れない。

  7人でやるには多すぎるとおもいますが。

   これから削ってくんだよ。

   あの全員が使えるとおもうか?

  それでいつやるんです?

   再来週の金曜日、その午后だ。

 ふたりして倉庫の屋根裏に寝ころがった。23時、夜が長いとおもえば、もう酒のないことにふるえるような温さがみえた。それでももうじき、火曜日になる。 

 翌日からずっと工場の片づけをやらされた。草刈からはじめて機械の配置換えや、車体の移動にあくせくする。肩がわれるようになってるのを主人はなにもみえないようにふるまい、溶接機やら薬液の罐やらを転がすように運んでった。仕事が終わって湯を浴みてると、夫人が来て扉越しに声をかけてきた。

   たいへんでしたでしょう?

  ええ、こたえますね。

   主人にはああすることしかできないのよ。

  そうなんですか。

 「ええ、わたし脱出したい。どこでもいいから」――してしまえばどうです?――無理なことよ。――それきり声はなく、かれはシャワーをかけつづけた。すると工場から声がした。それは犬の叫びに近い声だ。――おい、いいかげんに湯をとめろ! むだづかいするな!――食卓にいった。きのうとおなじものがそっくりでてきた。  

   どうしたの?――そんな顔して。

    こいつには根性ってものがないんだ。だから少し動いただけで青ざめる。

 主人は肉をとって頬張った。かれには与えてはくれない。

    どうした? 文句でもあるのか?

  いいえ、なにも。

    気に入らないつらだ。

    あいつはなんでおまえのようなやつを釣ったんだか。

  わかりません。

    いいか、わかりたいのはおれなんだ。

    おまえじゃない。

    おれの考えに入るな。

  すみません。

    たやすくあやまりやがって。

    さっさと喰って失せろ。

 衣服に染みこんだ、草や油の匂いをそのままにして寝床へ坐った。灯りの絞ったランプに本をひらき、てきとうにめくる。――おれに言わせりゃ、おまえはしゃれた女たらしってとこだ、とレネハンが言った。

 このやまがもしもうまくいったらまずは女を買いにでかけよう。あの色町にいって垢を落としてやるんだ。童貞という垢をだ。電気式の後光によって照らされる女たち、客引きの老婦人ども、遊び人のくだらない連中を思いながら、からだがすぐに眠りを欲した。

 夜が明けて老人が顔をだしてきた。車の手配が完了したという。裏庭にワゴンが運び込まれた。楡の木のもとをとうに廃車になったのが停まる。――こいつを直して塗装してくれ。真っ白にな。頼むよ。――主人は黙ってうなずき、車体を片手で撫ぜる。そうやって車の心音を確かめるかのようだ。――修理代と黙秘は前払いだ。

  計画はどうなってるんです? 

   何人かを実際の広告や配布で働かせる、それで実行班の参考にするんだ。

  ぼくはそれまでここに?

   いいや、ちょいとやってもらいたいことがあるんだ。

   まだいえないが。

 それきりだ。老人は去り、またも重労働に狩りだされた。ワゴンを工場に運び入れ、まずは清掃だ。そのさきは主人の指導で道具や部品を手渡していった。はたからみていてかれはあまり乗り気でないようだった。そしてまたおなじ夕餉。かれは酒が呑みたかった。

  ちょっと買いものへいきたいのですが。

     なぜだ?

  呑みものを少し。

     それくらいここにもある。

  いえ、酒を。

     酒だって?

     ふざけるな!

     ばかたれが!

     おれが呑まないんだからおまえも呑むな!

  じゃあ、ジンジャーエールとパンだけでも。

     金を寄こせ、妻が買いにいく。

  ぼくは逃げませんよ。

     どうだろうな。

     くそに毛の生えた臆病ものにしか見えないがな。 

 そのあとは黙りこくって汁を啜り、サラダを喰った。きざまれたアンチョビだけが唯一の肉だ。夫人はじぶんのぶんを済ませてから買いものへでかけてった。眠りに就くまえにそれらを口にしながら、いったいじぶんがどこにいるのかを考えつづけた。しかしこの土地のなまえすらわからず、いったいじぶんがどの役をやってるのかさえ不明だった。翌日、3人のもぐらどもそれぞれ面接にでかけたらしい。つらのましなのが撰ばれて襟を正した。しかし当たりはでなかった。つらはましでも歳を喰ってて、職歴もあいまいだったからだ。

 つぎにふたりの男が面接を受けた。若づくりを施し、職歴を磨きあげていった。ひとりが採用されたものの、初日になってうそが暴かれ、戒告を受けた。そいつは腐ってやめちまった。そうやって、もぐらたちはすがたを消しつづけ、ふたりだけが残った。かれらは変装と身なりをととのえ、どやで待機に入った。

 そしてかれは作業員として暮らしつづけていた。夕餉のとき、主人がいう。

    おまえ、うちで棲みこみにならないか?

  え?

    あんなじいさんのいってるおたわごとなんぞで人生をむだにすることはないぞ。

    あんなの、昔しから最低の客だ、おやじの代からのな。

  でもいまさら断れませんよ。金ももらっていますし。

    それぐらい働いて返せるだろうが。

    おれはあんなやろうのために捕まるのはごめんだね。

    おまえはちからがないがまぢめにやってる。

    どうだ?

  考えさせてください。

    まあ、いい。

    どうせ帰ってくるさ。

 喰いおえると皿を洗い、寝床へあがった。冷たい蒲団のうえで胡坐をかき、本をひらく。しかしもはやなにもあたまへ入って来なかった。捕まってしまえば執行猶予はないだろう。重犯罪者として顔が国じゅうにまわされる。おぼろげだった不安が難い現実へとすりかわっていくのをじっと見つめた。――それからまた走り出せば、ほどなくベガスだ。――だれかが戸を叩いた。

 「電話よ、じいさんから」――子機を差しだす夫人の手が廊下の燈しで光ってた。しばらくみていたかったが、あきらめて耳をあてる。――おまえさんにも仕事をやらせる。――なんですか?――あの奥さんとの仲をとりもってほしい。――え?

  どうやって?――にぶいやつだな。ふたりきりにしてほしいんだよ。

  わかりましたよ。

  なんとかやってみます。

 終わった通話を反芻しながら、かれは夫人の顔をみた。どうしたらいいのかが、まるでわからない。やせぎすだが美しい女、かれはそう名づけてからおもいなおして削除した。ばからしいものだ。なんだってこんなことをしなければならないのか。

 木曜の午、主人はでかけてった。かれは電話で老人を呼びだし、夫人を居間に呼んだ。あとは知らん顔を決め、廊下に立つ。やがてふたりが話しはじめた。それをぢっして聞く。それくらいしかできなかった。

 「なあ、奥さん。あなたはダイエットのし過ぎだよ」――ええ、わかってます。でももう粗食になれてしまって。いまさら返られないのよ。――まえにいってたよな、こっからでたいって。――その望み叶えてやれるよ、もうじき。明日だ。――期待できません。――そんなこたぁない!――あとにはえんえんと老人の講釈がつづく。かれは壁越しに聞きながら、手錠の重さについてめぐらしてた。



 金曜の明け方だった。うづたかくされた車体のあいまを縫うようにしてぼくは冷やされた緑の、その露をなめてた。とにかく舌が乾く。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらには、ふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとって話しをしてみる。

   どなた?

  やあ、おれだよ。

   おれさんね? 元気にしてるの?

  うん、そうだよ。

   いまどこに棲んでるの? お金は持ってるの? それとも盗みでもやってる?

  ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。

  いまに好きなことができるぜ。

   無駄なあらがいよ、すぐに捕まるって。 

  えっ?

   警察だって。 

  サツだって?

   決まってるじゃない。

  それはないね、おれのことはだれも知らない。    

   裏切りものだってでてくる。

  ああ、それは聞いてる。

   じゃあ、さっさと逃げて。

  でももんだいはない。ぜんぶわかってる。

   なにがぜんぶよ。わかってない。

  お願いだ、きょうは1日じゅう、赤いのを着ててくれ。

   ――わかった。

  じゃあ、頼むよ。――また遭おうぜ。

  しばらく潜んなきゃ。

  じゃあ。

   ぜったいに捕まるって。

 切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、ぼくに冷たかった。

    逃げたんじゃねえかとおもったね。

  祷ってたんですよ。

     神を信じてんのか?

  いえなにも。

    じゃあ、なにに祷る?

  この朝に。

   ふざけるなよ。

    おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。

 車が走り出して30分が過ぎた。まず右後輪のタイヤがおかしくなりだした。煙がでたなとおもううち、車内へ強烈な臭いが発ちこめ、みなが顔を覆う。ぼくが片手で窓をあけてるま、車首はぶるぶるふるえだし、何台もの対向車から警笛を喰らった挙句、路肩にぶつかった。あとは静かなものだった。みな車を囲んで、無言のまま見つめていた。老人だけは怒り狂って手がつけられないありさまだった。安物の背広をしわだらけにしながら車体に蹴りを入れていた。やがてそれもおとなしくなった。息を切らし、空を見た。ぼくは莨を吸いたいのを堪え、じっと手を組んだ。朝の忙しい往来のなかに何人か、好みの女を見つけ、あたまのうちに留める。じぶんが真剣にものごとをうけとめられないことを笑いそうになった。あわてて打ち消し、状況に眼をやる。時間はあまりなかった。

   ここらで車を奪おう

 老人がいった。男たちは静かにうなづいて歩道を歩き出した。その先にコンビニエンス・ストアがある。それがはっきり見える。陽を浴みて白い。

       だめだ、もう。

 男のひとりが頭をふった。つよくふったから、そのままあたまがはずれてしまいそうにみえた。ひとりひとりがばらばらになって失せ、ぼくは老人とバスに乗って工場へともどった。主人はいない。どうやらしばらく潜るつもりらしい。妻は車庫で車を磨いてた。57年式のサラトガ。黒い車体をよりいっそう黒くしながら、かの女の腿が昏らがりのうちでひらめく。布切れには血みたいのがついていた。血のような血だった。

  だめでしたよ、まったくだめでした。

   そうでしょうね。

   わかってたわ。――主人はいま、いないのよ。

 しかしぼくは仕事にとりかかってた。鉄くず運びにただただ汗を流す。午が来て、それもやがてかなただ。夕餉を済ませてからふたりで寝室にいったとき、ぼくはじぶんの靴をかの女の寝台のしたへおいた。夜は傷みだした、鱈の臭いがする。とてもかんたんに篩いにかけられてたのだ。なにに?

  どうせなら、着飾ってくださいよ、きれいに。

   めんどうだわ。

  でもそのほうが楽しめそうだ。

 女には肉らしいのがなかったから注文した。すこしでもいいから他人のからだを感じたい。ぼくには裸なんてなにもおもしろくもなかった。めんどうにおもいながらもかの女は盛装してくれた。夏物のドレスにみじかい手袋をつけて、ストッキングとハイヒール。薄化粧に装身具、そして帽子。ぼくはかの女をうえにしてしっかりとかまえた。たがいの微笑みが工場からのグラインダーの音にぶつかる。老人がなにかやってるらしい。やがてそれも失せ、足音が廊下を伝わった。

    そこまでだ。

 そうやつがいう。

    いますぐにここをあけろ!

    あけるんだ!

 戸口のむこうからいつまでも声がしてる。いつまでも青年は笑ってた。笑いながら腰をふりふりして、かの女を愛していた。老人の叫びもやまない。やつの手にはつくったばかりの兇器が握られているのだ。おそらくは。

    おれの役割なんだぞ!

    そいつは!


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光りに焼かれつづける、打ち棄てられた冷蔵庫のブルーズ 中田満帆 @mitzho84

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