「なにを申される」

 宣宅がむっとした表情を見せた。「どなたかな?」

「それがしは土門鬼一郎、こちらは娘のときと申します。乳母さまより、あやかし退治をおおせつかった者です」

「あやかし……」

 宣宅の視線が横に動いて、たえに突き刺さる。

「たえさま、まだそのようなことを申しておられるのか。確かにそれがしの医術は未熟かもしれぬが、せいいっぱいの施術をしております。あやかしだのなんだのと騒ぎたてるうちに、若君の身体は衰弱するばかりでございますぞ」


 医師のきびしい言いように、しかしたえはひるまない。

「宣宅どの、まずはお詫び申します。しかし、ことは急を要します。どうか、この者たちの言うとおりに、曲げてお願いいたします」

 宣宅が顔をしかめ、しばらくたえを見つめた。が、どうしようもないと知ると、あきらめたように嘆息した。

「……診察を、中断すればよいのだな?」

 宣宅が鬼一郎をにらみつける。

「かたじけない。これ、とき」

「はい」

 父にうながされ、ときは立ち上がった。刀をかかえた、かたわらの女中もうながす。


「刀はこちらでよかろう」

 倉田が文句を言うが、鬼一郎はおだやかで、しかし有無を言わせぬ調子で制した。

「用人どの、先ほど約束されたではありませんか。それに、若君のそばへ寄るのは、娘のときだけにいたします。小娘ひとり分の刀がついていっても、さほど心配はご無用かと」

「くっ……」

 倉田はにくにくしげに顔をしかめたが、結局は容認した。ときに向かって、あごをしゃくる。


 ときは竹丸の寝床の向こう側にまわると、かたわらにひざをついた。刀をかかえた女中を指図して、すみのほうにひざまずかせる。

 それから、寝床をはさんで向き合うことになった医師に向かい、目を伏せて、

「宣宅どの、しばしの間、あちらの、たえさまのほうへ行っていただきたいのですが」

 きわめて慇懃いんぎんに頼んだ。


 当然、宣宅が顔色をなす。

「なに? この上、離れていろ、と?」

 あわてて、たえがとりなす。

「宣宅どの、重ね重ね申しわけありません。どうか、その者の言うとおりに」

 宣宅は怒りに顔を赤らめつつ、たえとときの顔を交互に見やったが、ふいに舌打ちして、立ちあがった。

「では、ほんのしばしの間だけじゃぞ。それから、若君には手を触れてはなりませぬぞ。せっかくお休みになられたのじゃ。よいか」

「かしこまりましてございます」

 相変わらず目を伏せたまま、ときは返事する。

 鼻を鳴らして、宣宅と助手が用人たちのほうへ向かった。


 その間に、ときは寝床の様子をあらためて見ていた。

 ひどいありさまだった。

 敷布団に、かいまき、そこに横たわって眠る竹丸。それらの全体を、緑色のカビのようにもわもわしたものが、びっしりとおおっている。

 瘴気しょうきである。

 大人でもこれだけの瘴気にまとわりつかれたら倒れてしまう。まして、竹丸は七歳の子なのである。

 早急に片をつけなければならない。


 ときは決意をかためると、父に向って言った。

「父上、引き離しが終わりました」

「さようか。やはり、この男か」

「はい。食いつくされております」

 ふたりの目が向いているのは、医師の宣宅である。

 これから腰をおろそうとした宣宅は、動きを止め、なんのことかと、うろんな顔をした。


 ふわっと立ち上がった鬼一郎が、医師に身体を寄せる。そのときの鬼一郎に、殺気はまったくなかった。

 ふらり――。

 まるで酔っ払いがふらついて倒れこむように、鬼一郎が宣宅に抱きついた。

「お……おい、なんだ?」

 とまどう宣宅に鬼一郎はのしかかり、押し倒してしまった。それは例えて言うなら、酔った客がふざけて芸者を押し倒したかのように見えた。

 かたわらにいる用人も若武者も女たちも、こんなときになんの悪ふざけを、とあっけにとられていた。


 彼らが鬼一郎に注目している間、ときは風のようにすばやく動いていた。そばでひざをついた女中の手から、さっと刀を奪い取ると、畳を蹴って、鬼一郎のほうへ跳んだ。およそ三間(約五・四メートル)の距離。半分はとき自身の力、半分は〈かまいたち〉に与えられた力である。


 宙にいる間に、ときは刀の柄を逆手に持って、さやをはらった。順手に持って刀をふりかぶれば、天井や鴨居かもいにひっかかる恐れがある。だから逆手に持った。刀の切っ先を下に向けたまま、鬼一郎の背に着地すると、その背中にズブリと刀を刺した。さらに、跳んできた勢いのまま、父ばかりではなく、組みふせた宣宅の身体をつらぬき、その下の畳にまで切っ先が到達した。


 ごへっ。

 異様な声がした。

 宣宅が発していた。

 はっとして、若侍が動いた。

 いや、立ちあがって一歩出ようとしたところで、身体を硬直させた。

 宣宅の背中から、破裂したような勢いで、畳に液が広がった。血ではなかった。墨のように真っ黒の、汚らしい、にごった液だった。


 ごへっ。

 また宣宅がうめいた。

「あ……」

 家中の者たちの顔がひきつる。

 宣宅の顔の皮ふに、くしゃくしゃとしわがよって、ところどころが縮み、あぶったスルメのようにめくれ上がった。皮ふの下から、灰色の、人の顔でないものが現れる。


 虫である。

 黒く大きな丸い眼を持つ、蜘蛛くもに似た、醜い虫の頭部が現れたのだ。

 いや、頭部ばかりではない。

 手も、腕も、皮ふが同じように縮んでめくれ上がり、灰色の、表面に毛のはえた虫の足が、その下から現れたのだった。


 女たちが「きゃ」と短い悲鳴をあげ、あとずさった。あまりのことに息を呑みこんだせいで、悲鳴はそれ以上続かなかった。

 鬼一郎の下で、人間の大きさの灰色の虫がうごめいた。口からブクブクと泡をふき、もがき、苦しみ、あがき出ようとするのを、鬼一郎が押さえこんでいた。

 ときは柄に手をかけ、鬼一郎の背に乗ったままの態勢でこらえた。


 どれほどそうしていたであろうか……。

 やがて、虫は動かなくなった。

 じっくりとそれを確認したときは、

「う……うんんぅ」

 全身を使って、ふたりを串刺しにした刀を抜いていった。

 刀身に黒い液がついている。鬼一郎の赤い血はどこにもない。

 刀を持って、ときは立ち上がった。ハアッと大きく息をする。ほっとしたせいか、足が少しふらついた。


「お……わった……か……」

 言ったのはときではない。鬼一郎である。

 宣宅の上に、いや、巨大な虫の上に重なっていた鬼一郎が、刀でつらぬかれたことなど、まるでなかったかのように、のそのそと立ち上がった。

 彼はあらためて足元の虫を見て、ときに尋ねた。

「これ、一匹か?」

「はい」

 ときの答えは明確だった。

 鬼一郎はうなずき、たえのほうをふり向いた。

「乳母どの、あやかし退治が終わりましたぞ」

 そう宣言しても、たえも、そのほかの者も、しばしの間、目を見開き、その場に凍りつくばかりであった。


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