五
「なにを申される」
宣宅がむっとした表情を見せた。「どなたかな?」
「それがしは土門鬼一郎、こちらは娘のときと申します。乳母さまより、あやかし退治をおおせつかった者です」
「あやかし……」
宣宅の視線が横に動いて、たえに突き刺さる。
「たえさま、まだそのようなことを申しておられるのか。確かにそれがしの医術は未熟かもしれぬが、せいいっぱいの施術をしております。あやかしだのなんだのと騒ぎたてるうちに、若君の身体は衰弱するばかりでございますぞ」
医師のきびしい言いように、しかしたえはひるまない。
「宣宅どの、まずはお詫び申します。しかし、ことは急を要します。どうか、この者たちの言うとおりに、曲げてお願いいたします」
宣宅が顔をしかめ、しばらくたえを見つめた。が、どうしようもないと知ると、あきらめたように嘆息した。
「……診察を、中断すればよいのだな?」
宣宅が鬼一郎をにらみつける。
「かたじけない。これ、とき」
「はい」
父にうながされ、ときは立ち上がった。刀をかかえた、かたわらの女中もうながす。
「刀はこちらでよかろう」
倉田が文句を言うが、鬼一郎はおだやかで、しかし有無を言わせぬ調子で制した。
「用人どの、先ほど約束されたではありませんか。それに、若君のそばへ寄るのは、娘のときだけにいたします。小娘ひとり分の刀がついていっても、さほど心配はご無用かと」
「くっ……」
倉田はにくにくしげに顔をしかめたが、結局は容認した。ときに向かって、あごをしゃくる。
ときは竹丸の寝床の向こう側にまわると、かたわらにひざをついた。刀をかかえた女中を指図して、すみのほうにひざまずかせる。
それから、寝床をはさんで向き合うことになった医師に向かい、目を伏せて、
「宣宅どの、しばしの間、あちらの、たえさまのほうへ行っていただきたいのですが」
きわめて
当然、宣宅が顔色をなす。
「なに? この上、離れていろ、と?」
あわてて、たえがとりなす。
「宣宅どの、重ね重ね申しわけありません。どうか、その者の言うとおりに」
宣宅は怒りに顔を赤らめつつ、たえとときの顔を交互に見やったが、ふいに舌打ちして、立ちあがった。
「では、ほんのしばしの間だけじゃぞ。それから、若君には手を触れてはなりませぬぞ。せっかくお休みになられたのじゃ。よいか」
「かしこまりましてございます」
相変わらず目を伏せたまま、ときは返事する。
鼻を鳴らして、宣宅と助手が用人たちのほうへ向かった。
その間に、ときは寝床の様子をあらためて見ていた。
ひどいありさまだった。
敷布団に、かいまき、そこに横たわって眠る竹丸。それらの全体を、緑色のカビのようにもわもわしたものが、びっしりと
大人でもこれだけの瘴気にまとわりつかれたら倒れてしまう。まして、竹丸は七歳の子なのである。
早急に片をつけなければならない。
ときは決意をかためると、父に向って言った。
「父上、引き離しが終わりました」
「さようか。やはり、この男か」
「はい。食いつくされております」
ふたりの目が向いているのは、医師の宣宅である。
これから腰をおろそうとした宣宅は、動きを止め、なんのことかと、うろんな顔をした。
ふわっと立ち上がった鬼一郎が、医師に身体を寄せる。そのときの鬼一郎に、殺気はまったくなかった。
ふらり――。
まるで酔っ払いがふらついて倒れこむように、鬼一郎が宣宅に抱きついた。
「お……おい、なんだ?」
とまどう宣宅に鬼一郎はのしかかり、押し倒してしまった。それは例えて言うなら、酔った客がふざけて芸者を押し倒したかのように見えた。
かたわらにいる用人も若武者も女たちも、こんなときになんの悪ふざけを、とあっけにとられていた。
彼らが鬼一郎に注目している間、ときは風のようにすばやく動いていた。そばでひざをついた女中の手から、さっと刀を奪い取ると、畳を蹴って、鬼一郎のほうへ跳んだ。およそ三間(約五・四メートル)の距離。半分はとき自身の力、半分は〈かまいたち〉に与えられた力である。
宙にいる間に、ときは刀の柄を逆手に持って、
ごへっ。
異様な声がした。
宣宅が発していた。
はっとして、若侍が動いた。
いや、立ちあがって一歩出ようとしたところで、身体を硬直させた。
宣宅の背中から、破裂したような勢いで、畳に液が広がった。血ではなかった。墨のように真っ黒の、汚らしい、にごった液だった。
ごへっ。
また宣宅がうめいた。
「あ……」
家中の者たちの顔がひきつる。
宣宅の顔の皮ふに、くしゃくしゃとしわがよって、ところどころが縮み、あぶったスルメのようにめくれ上がった。皮ふの下から、灰色の、人の顔でないものが現れる。
虫である。
黒く大きな丸い眼を持つ、
いや、頭部ばかりではない。
手も、腕も、皮ふが同じように縮んでめくれ上がり、灰色の、表面に毛のはえた虫の足が、その下から現れたのだった。
女たちが「きゃ」と短い悲鳴をあげ、あとずさった。あまりのことに息を呑みこんだせいで、悲鳴はそれ以上続かなかった。
鬼一郎の下で、人間の大きさの灰色の虫がうごめいた。口からブクブクと泡をふき、もがき、苦しみ、あがき出ようとするのを、鬼一郎が押さえこんでいた。
ときは柄に手をかけ、鬼一郎の背に乗ったままの態勢でこらえた。
どれほどそうしていたであろうか……。
やがて、虫は動かなくなった。
じっくりとそれを確認したときは、
「う……うんんぅ」
全身を使って、ふたりを串刺しにした刀を抜いていった。
刀身に黒い液がついている。鬼一郎の赤い血はどこにもない。
刀を持って、ときは立ち上がった。ハアッと大きく息をする。ほっとしたせいか、足が少しふらついた。
「お……わった……か……」
言ったのはときではない。鬼一郎である。
宣宅の上に、いや、巨大な虫の上に重なっていた鬼一郎が、刀でつらぬかれたことなど、まるでなかったかのように、のそのそと立ち上がった。
彼はあらためて足元の虫を見て、ときに尋ねた。
「これ、一匹か?」
「はい」
ときの答えは明確だった。
鬼一郎はうなずき、たえのほうをふり向いた。
「乳母どの、あやかし退治が終わりましたぞ」
そう宣言しても、たえも、そのほかの者も、しばしの間、目を見開き、その場に凍りつくばかりであった。
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