「父上」

 鬼一郎から少し遅れて歩きながら、ときは言った。「だんだんと、あやかしの気配が濃くなってきます」

「そうか」

 とだけ、鬼一郎は答えた。無視したのではないあかしに、歩きながら、すうっと息を深く吐き、丹田たんでんに気を集中させるのがわかる。


 ふたりはいま、屋敷の外廊下を歩いて、竹丸が療養している部屋に向かっていた。

 ふたりの前を、用人の倉田と、乳母のたえが歩き、ふたりの後ろを、若侍と女中がついてくる。うしろの若侍と女中が、それぞれに鬼一郎とときの太刀を抱えていた。鬼一郎とときの行く先々へ、屋敷の者たちが刀を持ってついてきてほしい、というのが、鬼一郎の出した代替案であった。

 たえのとりなしもあり、「そのくらいならば」と倉田が納得したのである。


 父のほうは、実はさほど剣の腕が立つわけではない。むしろ体術のほうがよほど使えるので、剣が離れていても、さして問題はない。


 剣はときのほうが腕が立つ。七つのときから、女だてらに町道場で鍛えてきた。そして、十二の年、ある事件がもとで、顔と身体にやけどを負い、あやかしが見えるようにもなったし、憎むようにもなった。十三の年、縁があって、あやかしを斬ることができるという妖刀〈かまいたち〉をゆずられ、あやかし退治をなりわいにして、いまにいたっている。

 本当は〈かまいたち〉を腰に差しておきたいところだが、次善の策として、そばにいる者にあずけておくのも、やむをえない、と考えていた。


 歩くにつれて、あやかしの気配はますます強くなっていった。

 それは、匂い、に似ていた。鼻に感ずるものではないものの、目に見えぬものが宙をただよい、流れてきて、なんとも言えぬ不快感を引き起こすのである。

 外廊下と塀の間には、手入れの行き届いた庭が続いている。昼下がりの陽をあびて、本当なら、松やつつじの葉が青々と輝いて見えるはずである。しかし、あやかしの気配を感じるときの目には、どれもくすんで色を失ったようにしか映らなかった。


「こちらでござる」

 やがて、先頭にいた倉田が、歩みを止めた。たえも足を止め、ふり返って、鬼一郎とときに目くばせする。若君のおわす部屋であるから、粗相そそうのないように、という意味だろう。


「竹丸君、たえでございます」

 たえがひざをつき、障子戸の向こうへおとないを入れると、なかから男の声で「お入りくださいませ」と返事があった。

 たえが障子戸を開けると、むっとするほどのあやかしの気配と、同時に瘴気しょうきがあふれ出てきて、ときはひそかに顔をしかめた。わかるのはときだけで、ほかの者はなにも感じていない様子である。


 たえと倉田が入り、うながされて、鬼一郎とときが入った。刀を持った若侍と女中が廊下で待っていようとしたのを、鬼一郎がなかに入らせた。倉田は渋い顔をしている。


 なかは、畳敷き十二畳の広い部屋だった。奥の突き当たりは腰高こしだか障子しょうじで、外の光を取りこんでいる。おそらくは、その向こう側に中庭でもあるのだろう。普通ならば、部屋のなかは明るいと感じるところである。しかしときの目には、煙草の煙でもこもっているかように、濁った気配が宙にただよい、光をさえぎっているように見えた。


 その陰った部屋の奥のほうに、布団が敷かれ、夜着をまとって、ひとりの子が寝かされている。

 布団のこちら側には、坊主頭の初老の男が座って、子のひたいに手を当てていた。あれが医師の宣宅であろう。宣宅のかたわらには、助手らしい若い男が座っている。


 宣宅がこちらをふり向いた。温和な表情の、四十がらみの男である。

「竹丸君はおやすみになっておられます。薬が効いたようです。診察はもう少しで終わりますので、お待ちください」

「ありがとうございます。突然押しかけて失礼いたします」

 たえが声をかけているうちに、鬼一郎はときに目で問いかけていた。

 ときは、あらためて寝床のほうへ顔を向ける。

 そこは、よりいっそうのどんよりとした瘴気に包まれており、あやかしの気配に満ちていた。


 ときは鬼一郎に無言でうなずく。

「そつじながら」

 ときの意をくみとって、鬼一郎は宣宅に呼びかけた。「診察をいっとき中断して、われらに若君を見せていただきたい」

 まわりの者たちが、いっせいにぎょっとするのがわかった。


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