小説3

「――あにぃ! 起きてる? おーい!」


 突然のノックに反射的に肩が跳ね上がるが、遅れてやってきた声に安堵する。声の主は聞き慣れた妹、真白ましろの声だったからだ。


「起きてるぞ」


 俺が答えると遠慮なく扉が開き制服姿の真白が顔を出した。


「あにぃ、いつもより冴えない顔してるけど、なんかあった?」


「いや……それよりどうした? なんか用か?」


 訝しむ真白に俺は首を横に振った。真白は特に深くは切り込んでこず、用件を口にする。


「もう、女の子をいつまでも待たせるのは駄目だよあにぃ。早く準備して出向いてあげなきゃ」


「…………女の子って、誰だよ?」


「え、本気で言ってる? もしかしてまだ寝ぼけてる?」


「いいから教えてくれ」


 少し強めた口調で訊ねる俺に、目を細め怪しむ真白。だが、妙な必死さに観念したのかため息交じりに口にした。


「はぁ……絹輪きぬわさんだよ」


 姓か名か、どちらもありえそうなその珍しい名を、姓として持つ一家を偶然俺は知っている。なら両親のどちらか、そう論理に縋ろうとしても直感がそうではないと訴えかけてくる。度重なった不可解が否定してくるのだ。また、真白は女の子と口にした。


 これはもうつまり、死んだはずの彼女……絹輪がこの世に存在しているという証。疑問に思うことなく当然のように肯定している。


「なあ真白……アイツは死んだんだ。それはお前も知ってるはずだぞ」


 抗いなどでは決してなかった。ただの確認、絹輪は死んでいると認識している俺が間違っているのか、それとも俺以外が間違っているのか。


 俺の発言を聞いた真白は何も答えず、ゆっくりと近づいてきた。そして、


「――ッ!」


 振り上げた右手を俺の左頬に叩きつけてきた。


 ヒリヒリと痛む左頬を抑え、真白を見つめる。すると真白はおもむろに口を開き僅かに声の調子を落として言った。


「これで目が覚めた? 寝ぼけてたとしても、言っていいことと悪いことはあるよ、あにぃ」


「いや、元から意識ははっきりとしていたんだが」


「なら尚更ダメでしょ! 不謹慎にも限度があるよ! もう一発いっとこうか?」


「それは勘弁してくれ」


 再度、平手打ちをかまそうとしてくる真白に俺は両手を前にだし制止を呼びかけ、どうにか怒りを抑えてもらえた。


 並行してさっきの確認の結果も判明した。どうやら真白からしたら俺が間違っているらしい。でも、だとしても絹輪の死が偽りだったとは思えない。二度と起きる事のない綺麗な寝顔、生々しい首の痣、葬儀の沈んだ空気、今にも記憶に新しい絹輪の死を忘れるわけがない。


 やはり真白がおかしい――俺はそう結論付けた。


「勘弁してあげるから、早く準備して行きなさい!」


 真白に発破をかけられ、言われるがままに支度を始めた。


 学生服に着替え朝食をとり、顔を洗って歯を磨き、後は外に出るだけ……のはずなのに、俺は玄関を前にして立ち止まってしまう。


 絹輪は死んだ、それは覆らない。が、この先には絹輪がいる。改めて意味が分からないが現実はそうなってしまっているのだ。ならば俺はどんな顔をすればいい? どう語りかければいい? どんな気持ちでいるのが正解なんだ。


「なに突っ立ってるの?」


 逡巡する俺に、とうに身支度を済ませていた真白がローファーの先をトントンと鳴らしながら問いかけてきた。


「え? ああ、ちょっと緊張してきてな」


「なにを今更だよほんとに。いつもは緊張感の欠片もないのに……どうしちゃったんだか」


「はは……ほんと、どうしちゃったんだろうな」


 乾いた笑いを漏らすと、真白は絵に描いたような呆れ顔で息を漏らす。


「よくわかんないけど、シロは先行くからね」


「あ、ちょ待てって――」


 しかし真白は躊躇することなく玄関を開け――――窓際で見た絹輪が、今度は遮るものなく俺の目に飛び込んできた。


「おはようございます。絹輪さん」


「おはよう、真白ちゃん」


 挨拶を交わす二人を俺は呆然と見つめる。やがて絹輪がゆっくりと顔を俺に向けて、


「はる君も、おはよう」


 生前の時と寸分の狂いもない声で、そう優しく微笑んできた。

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