江戸之唄丸

橘 泉弥

江戸之唄丸

 桜の香りを乗せた風が、少年の頬を撫で去っていく。窓から差し込む暖かい日差しは、優しく経文と和紙を照らす。穏やかな墨の匂いは、今江戸を騒がせている物騒な噂など知らぬようだ。

「周、これ周や」

 名前を呼ばれた少年は、写経の筆を置き立ち上がった。

「呼びましたか?」

 声のした方へ駆けて行くと、玄関に住職と客人が居た。どうやら接客中のようである。

「この方が、しばらくこの寺に滞在なさる。お前、世話をしておやりなさい」

「分かりました」

 客は琵琶法師であった。木の杖をつき、背には琵琶を背負っている。

「周と申します。よろしくお願いいたします」

「おう、よろしく頼む」

 粗野な返答に、周は少々面食らう。しかしそれを悟られないよう、法師の荷物を受け取った。

「こちらへどうぞ」

 盲人との接し方に迷いながら廊下を歩く。法師は涼しい顔をして、周の後をついてきた。

 畳の部屋へ案内すると、法師はさっそく腰を下ろす。

「名乗ってなかったな。俺の名は唄丸だ。しばらく世話になる」

「唄丸様ですね。小さな寺ですが、ゆっくりしていってください」

 茶を淹れながら、周は持ち前の好奇心の通りに口を開く。

「唄丸様、琵琶法師は旅と経とを生業にすると聞きます。どうか旅の話などを、お話しいただけませんでしょうか」

「なんだ坊主、俺の話が聞きたいのか」

「はい。僕はあまり寺の外に出ません。外の世界はどうなっているのか、気になります」

「そうか、それじゃ一曲、弾いてやろう」

 唄丸は琵琶を構え、弾き始めた。

 しかし、それは周の予想していたものとは違い、べんべけじゃらじゃらと喧しかった。とても法師が弾くものとは思えぬ煩さで、語りが全く耳に入ってこない。曲調も聞いた事が無いもので、とても聞いていられない。

 途中で遮るのも失礼かと思い周は我慢していたが、演奏が終わると反応に困った。

「……ありがとうございました。面白かったです」

「世辞なんか言わなくていい。どう反応して良いやら分からぬという顔をしているぞ」

 そう言いつつ怒る様子もなく、唄丸はわははと笑う。

「俺の音楽は、誰にも理解されないもんらしい。まあ、俺自身が楽しければ、それでいいのさ」

「そ、そうですか……」

 困惑を拭えないまま、周はそそくさと客室を後にする。どうやらこの人とは、あまり関わらない方が良いようだ。

 そうは思うが、世話を言いつけられたので無下にもできない。周は夕餉を運びながら溜息をついた。

「夕餉をお持ちしました」

 客室の戸を開けると、妙な匂いが鼻をついた。嗅いだ事のないそれに困惑しながら部屋に入る。

「おう、そこに置いてくれ」

 答える唄丸の顔は赤い。その傍らには瓢箪が置かれていた。

「何をお飲みですか」

「こいつか? こいつは般若湯だ」

「えっ」

 堂々と不飲酒戒を破る僧侶を見た周は面食らう。

「お酒はだめです……って、何を召し上がっているのですか?」

 驚く小僧を横目に唄丸は何やら咀嚼している。

「こいつは干肉だな。食うか? 美味いぞ」

 殺生罪まで破っている。

 仰天する周に、唄丸が止めの言葉を投げた。

「賭けでもしないか。賽と壺は持ってるんだが、相手がいねぇ」

 周は吃驚のあまり混乱し、夕餉をがしゃんとその場に置いて、客室から逃げ出した。

「和尚様! 和尚様、あの方は仏法に背いております。今すぐ寺から追い出すべきです」

 慌てて和尚に詰め寄るが、住職は微笑んで相手にしない。

「唄丸様は偉いお方じゃ。お前も何か学ぶ事があるかもしれん。きちんとお相手しなさい」

 周はむっとした。自分は今まで、仏の道に忠実に生きてきたつもりだ。あんな破戒僧から学ぶ事など、ある訳がない。

「武道には、守破離という言葉がある。師の教えを守り、破り、そして離れていく事で、人は成長していくものであると言う」

 和尚は周を窘める。

「教えを守るばかりでは、真の成長は望めぬのだよ」

「……分かりました」

 和尚がそこまで言うなら、少し様子を見てみようかと思う。確かに、よく知らない人の事を嫌うのは、良くないかもしれない。

 住職に就寝の挨拶をし、周は布団に入る。明日また唄丸と話してみようと思いながら、夢路を辿った。

 夜更け。野良犬の遠吠えで目を覚ました周は、布団を出て厠へと向かった。庭の木々がざわめく中、用を足して戻る途中、庭に人影を見る。

「唄丸様?」

 月明かりに照らされた、杖をつき琵琶を背負った姿は、寺に滞在する客人のようだ。こんな夜更けに何処へ行くのだろう。

 気になった周は、後をついて行く事にした。

 唄丸は寺の門を潜り、街中へと歩を進める。周は少し躊躇したが、客人に何かあっても困ると思い、その影を追った。

 唄丸は薄暗い夜道を歩いていく。後を追ってついて行くと、唄丸はぴたっと立ち止まって振り返った。

「おい坊主、危ないからついてくるんじゃない。寺に戻れ」

 周は驚いて足を止めた。

「見えてるんですか?」

「見えねぇよ。ただ盲目ってのは、目に頼らない分いろんなもんが見えるのさ」

 強い口調で言う唄丸は、何故か焦っているようだ。

「夜の街は危ないので、お供します」

「要らねぇよ。早く帰れ」

「でも……」

 その時、どこかで獣の声がした。猫や犬ではない、もっと大きくて不気味な音だ。

「ちっ、出やがった」

 唄丸は顔をしかめ、琵琶を背負い直す。

「ついてこい。俺から離れるんじゃねぇぞ」

 帰れと言ったり、ついてこいと言ったり、よく分からない人だ。そう思いながら、周は走り出す唄丸の後を慌てて追う。

 怪しい声のした方に走ると、巨大な蜘蛛が姿を現した。

「ひっ……」

 周は思わず後ずさる。最近噂になっている妖怪だ。

 土蜘蛛は二人を見つけると、真っ直ぐ突進してきた。不気味な声がする。周は身を縮こませる。

 もう駄目だと思ったその時、琵琶の音が響いた。

 唄丸の琵琶から繰り出される音に、土蜘蛛は立ち止まり身をくねらせる。どうやら、琵琶の音が痛手になっているようだ。

「失せろ!」

 唄丸が土蜘蛛に札を投げつける。大きな悲鳴を上げ、土蜘蛛は姿を消した。

「こ、怖かった……」

 周はその場に座り込む。

「坊主、怪我は無いか」

「は、はい」

 何とか立ち上がるが、その脚は細かく震えている。

「殺したんですか……?」

「いや、居るべき場所に帰しただけだ」

 寺に戻るぞ、と唄丸は歩き始める。

「あの、土蜘蛛はどうしてその琵琶の音で止まったんですか? 唄丸様の法力ですか?」

「今日はもう遅い。明日話してやる」

 寺に帰りつくと、唄丸は何も言わずに客室へ戻っていった。周も自室に戻り、再び布団をかぶる。目の前で起きた事が理解しきれなくて、あまり眠れなかった。

 翌朝、朝食を終えた周は唄丸の元を訪れた。

「来たな、坊主」

「はい」

 唄丸は、琵琶を構えて撥を持つ。

「できれば弾き語りじゃなく話してください」

「む、普通に話すのは苦手なんだが……」

 周の依頼に不服そうに琵琶を置き、琵琶法師は話し始めた。

「俺は退魔の琵琶法師だ。最近この辺りに現れる妖怪を退治するために、この寺に来た」

 この地域では最近、妖怪の被害が多発している。それを解決するために、唄丸は来たのだと言う。

「その琵琶が特別なんですか? それとも、唄丸様の法力でしょうか」

「いや、こいつはごく普通の琵琶だし、俺に法力なんかねぇよ」

「じゃあどうして?」

 周が尋ねると、唄丸はにやっと笑った。

「妖怪は風流を解するからな。俺の音楽はお前も聞いたろう。奴らはあれが、聞くに堪えなくて苦痛なのさ」

「えぇ……」

 琵琶法師の奏でる音楽が酷過ぎて、妖怪たちには痛手になる。後は動けないでいるところに札を貼れば良い。

「それは……何というか、ありなんですか?」

「俺は好きな音楽を弾ける。妖怪も退治できる。一石二鳥たぁこの事だな」

 唄丸はがっはっはと笑う。

「事のついでだ。お前、俺を手伝っちゃくれねぇか?」

「え? 妖怪は、昨日退治なさったじゃないですか」

「いいや、あれは元凶じゃない」

 唄丸の話によると、妖怪を召喚している犯人は他にいるらしい。それを止めなければ、この事件は終わらない。

「……分かりました」

 周は少し考えてから頷いた。正直妖怪は怖かったが、仏道には無罪の七施という教えがある。そのうちの一つは、自分の身体を使って周囲の人を助けなさいというものだ。

「僕にできる事でしたら、お手伝いします」

「おう、ありがとな。よろしく頼む」

 さて、と唄丸は立ち上がる。

「そうとなったら善は急げだ。行くぞ」

「は、はい」

 唄丸に連れられ、周は寺の門を潜る。江戸の街は今日も一見穏やかに見えた。

「こっちだ。ちゃんとついて来いよ」

 そう言って、唄丸は路地に入っていく。街に慣れていない周は、恐るおそるその後に続いた。

 妙な臭いが鼻を突いた。訝しがりながら角を曲がり、周は息をのんだ。

 人が死んでいた。小さな子どもが、虚ろな眼で地べたに座っていた。ぼろを着た痩せた男が残飯をあさっていた。

「何ですか、ここ……?」

「江戸だよ。お前の住んでる、江戸の街だ」

 唄丸が静かに言った。

「お坊様だ」

 かすれた声で、誰かが言った。それを聞いて、残飯をあさっていた男が顔を上げた。道端にうずくまっていた男も、骨と皮だけのような女も、皆、二人の周りに集まってくる。

「助けてください」

「お坊様」

「どうか、お願いします」

 口々に救済を求めながら、手を合わせて首を垂れる。

 東からの風が素知らぬ顔で、表通りに吹いていった。

 寺に戻った周は、自分の部屋でぼんやりしていた。先程目にした光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

 あれが江戸だと、信じたくなかった。自分が何不自由なく暮らしているその傍で子どもが飢えているなんて、知りたくなかった。

 太陽が傾き、西の空に夕日が眩しく映える時刻になるまで、周は心の内側に籠っていた。

「おい坊主、そろそろ行くぞ」

 部屋の外から声がかかる。唄丸だ。

「行くって、どこに……?」

「決まってんだろ、妖怪退治だ」

 周はのろのろと立ち上がり、廊下に出る。唄丸は琵琶を背負い、杖を持って待っていた。

「よし、行くぞ」

 唄丸に言われるまま、その背中について行く。寺の門を潜り街に出ると、唄丸が向かったのは昼間の路地の方だった。

 それに気付いた周の脚は、俄然重くなる。

「どうした?」

 唄丸に訊かれ、周は迷う。行きたくないと素直に言ったら、唄丸は何と言うだろう。

 何とか口を開いたその時、東の方から絹を裂くような声がした。

「くそっ、外れたか。走るぞ!」

 駆けだした唄丸につられ、周も走り出す。声のした方に走っていくと、巨大な黒蛇が女性を締め上げていた。

 唄丸はそれを見るなり、琵琶を掻き鳴らす。

 大蛇は身体を仰け反らせ、締めていた女性を放した。

「今だ坊主、札をあいつに貼り付けてこい」

 周は渡された札を持って大蛇に走っていく。

 聞くに堪えない音楽を聴かされのたうつ大蛇の尾を避けながら、何とか札を貼り付ける。

 大蛇は野太い悲鳴を上げて、姿を消した。

「……よし」

 唄丸が息をつく。それを合図に周も大きく息を吐いた。

「よくやったな坊主。助かった」

「はい……」

 妖怪を退治したというのに心のもやは晴れぬまま、夜道を歩いて寺に戻る。

「じゃ、また明日よろしく頼むぞ」

「はい。おやすみなさい……」

 周は寝間着に着替えて布団に入るが、閉じた眼に昼間の景色が浮かんで眠れない。

 脳内がざわつく中浅い眠りを繰り返し、いつの間にやら朝になった。

 眠いはずなのにやけに冴えた目をしぱしぱさせながら、客間に朝餉を持って行く。

 唄丸はとっくに起きて、琵琶の手入れをしていた。

「おはようございます」

「おう、朝飯か。ありがとよ」

 慣れた手つきで弦の調整を終え、琵琶を自分の傍らに置く。

「坊主、今日も頼むぞ。街の南西に行くからな」

「ええと……」

 周は言葉に詰まった。一度手伝いを承諾しておいて、行きたくないとは言いづらい。

「唄丸様は、いつも昨日のような場所をまわってらっしゃるのですか?」

「ああ、陰の気が集まる所に、妖怪は現れるからな。昼間の内に、目星をつけておくのさ」

「そうなんですか……」

 唄丸は、声の調子から周の感情を読み取る。

「なんだ、行きたくないのか」

「……」

「……まあ、今まであまり寺の外に出なかったらしいしな。仕方ないか」

「すみません」

「謝る必要はねえよ」

 ただな、と唄丸は見えない双眼を少年に向ける。

「眼を逸らしても、現実は変わらねぇぞ」

 その口調が温かくて、周は言葉を返せなかった。

 唄丸が出かけた後、特にする事もない周の頭に、また路地の景色が浮かぶ。

 唄丸の言う通りだ。眼を逸らしているこの時にも、あの路地では子どもが飢えているかもしれない。

「和尚様、僕はどうしたら良いのでしょう」

 周が答えを求めたのは、親代わりである住職だった。

「大きくなったのう」

 住職は、開口一番そう言った。

「まだ幼いと思うて外には出さぬでおったが、もう考えられる齢であったのだな」

 考えられてなどいない、と周は思ったが、和尚はしみじみと小僧を見ている。

「和尚様、僕は答えが欲しいのです」

「答えなら、すでに持っておろう?」

「どういう意味です?」

「おぬしは最初にこう言った。どうすれば良いかと」

 だから何だと言うのだ。その意図の分からない周は困惑する。

「どうすれば良いか問うという事は、何かすべきだと分かっているという事じゃ。分かっているからこそ、どうすればという問いが生まれる。そうじゃろう?」

 そうだ。どうすれば良いか考えている時点で、何かすべきだと思っている。和尚の言う通りかもしれない。

 周は自室に戻り、思考の整理を始めた。

 自分にとってあの路地は衝撃的で、こんなに大きく自分を揺らしている。

 どうすれば良いか。自分にできる事は何があるのか。いつの間にかそう考えていた。

 唄丸は彼らに経を読んでいたが、それで彼らは救われたのだろうか。仏の力を疑う訳ではないが、彼らには他にもっと必要なものがあるのではないか。

 例えば食べ物。路地に居た人達は、みな痩せていた。例えば家。家までいかずとも、雨風をしのげる場所。それらはいくら経を読んでも出てこない。

(……じゃあ、仏教は役に立たないの?)

 物心つく前から寺で暮らしてきた周の思考は、自然とそちらの方向に流れた。

 首を振って、その考えを頭から追い出す。仏教は決して、役立たずではない。仏の教えによって救われた人を、周は文献の中にも現実にも知っていた。

(分からない……)

 頭が混乱してきた。

「……写経でもしようかな」

 考えが詰まった時は、一旦別の事をするのも手だと、和尚が言っていた。

 机と経文、筆記用具を揃え、紙に向かう。ひたすら経を写していると、心は静まってきた。

 陽が傾き始めた頃に、唄丸が寺に戻ってくる。

「おかえりなさい」

 茶を持って行くと、唄丸は退魔の札を確認していた。

「おう坊主、さっぱりした声してんじゃねぇか」

「そうですか?」

 湯呑を渡すと、唄丸一気に茶を飲みほした。

「で、夜は手伝ってもらえるのか?」

「はい、お供します」

「よし、じゃあ頼んだぜ」

 夜になり街が寝静まる。唄丸は琵琶を、周は札を持ち、準備を終えた。

「さーて、そろそろ親玉が出てきてもおかしくねぇ。気を引き締めて行くぞ」

「はい」

 周は緊張して寺の門を潜る。

「今夜はどの方面に行くんですか?」

「南西だ。あそこは陰の気が強かったからな。きっと出るぜ」

 二人は南西に向かって歩いて行く。生温い風が吹く街は、不気味なほど静かだった。

 緊張と共に二人は黙って歩いていたが、突然ぴたりと、唄丸が足を止めた。

「どうしたんです?」

 周が訊いても、唄丸は何も答えない。じっと黙って辺りの様子を窺っている。

「唄丸様?」

「伏せろ!」

 言葉と同時に頭を抑えられ、周は慌てて地に伏せる。

 勢い良く風を切って、二人の頭上を何かが飛んで行った。

「ぐわはははは!」

 背後から不気味な笑い声がした。振り返ると、身の丈八尺近い赤鬼が金棒を持って立っていた。

「見つけたぞ、見つけだぞ琵琶法師! 俺の邪魔をしていたのはお前だな?」

 その口元には、鋭い牙が見えている。

「せっかくこの江戸を地獄にしてやろうと思うたのに! 邪魔だ邪魔だ、消してやる!」

「うるせぇな」

 唄丸は怯む事無く琵琶を構え、鬼を睨む。

「地獄なんざ、彼岸のだけで十分なんだよ。ただでさえ此岸には苦悩しかねぇんだ。余計な事すんな」

 鬼が二人に向かってどすどす走ってくる。

「周、下がってろ。こいつは俺が相手する」

「は、はい」

 唄丸は琵琶を掻き鳴らす。鬼はすぐさま足を止め、耳を塞いで呻き声をあげた。

「ぐおぉぉぉ! 酷い、酷い唄だ、我慢ならん! やめろ!」

 うずくまる鬼に向かい、唄丸は仕込み杖を抜いて斬りかかる。

 ぎぃん、と鋼のぶつかる音がした。

「小癪な、小癪な琵琶法師! 消してやる!」

「消えるのはお前の方だ、鬼め」

 鍔迫り合いになった死闘は、そのまま硬直状態に入る。

「琵琶法師が自分で言ったぞ、この世には苦悩しかないと。飢えた子どもを、ぼろを着た女を、琵琶法師も見ただろう。仏の力に頼っても、この世の人間すべてを救う事などできぬ、できぬぞ」

 その言葉は、少し離れた場所にいた周の耳にも届く。自分の迷いを正面から指摘されたようで、心臓が跳ねた。

「うるせぇっつってんだろ」

 唄丸は歯を食いしばり、鬼の金棒に対抗する。

「んなこたぁ最初っから解ってんだよ」

 押された唄丸の足が下がる。その傍に汗がぱたりと落ちた。

「だからせめて、自分の手の届く範囲くらいは救いてぇ。いや、救ってみせる」

 鬼はまた大口を開けて笑う。

「人間一人の力など、たかが知れる。この世が存在する限り、飢えも貧困も無くならぬ。琵琶法師のやっている事は、ただの無駄だ!」

 周は拳を握りしめてうつむいた。

 物の豊かな江戸さえ、あのような路地がいくつもあるのだ。江戸の外ではもっとたくさん、人が飢えているのだろう。鬼の言う事は正しいかもしれない……

「黙れ!」

 唄丸が一喝した。

「それでも俺は救い続ける。それでも俺は旅を続ける。一人でも二人でも、ほんの少しでも救えるんなら、きっとそれには意味がある。人のために生きられるから、人間てのは美しいんだ」

 周ははっとして顔を上げる。

 唄丸はさっと身を引き、鬼が態勢を崩したところで、その身を一刀両断した。

 地響きのような断末魔と共に、鬼は塵となって消えた。通りには周と唄丸が残り、江戸の危機は去った。


 それから三日。

 周は旅の支度を整えていた。

「本当に行くのじゃな?」

「はい。和尚様、お世話になりました」

 育ってきた寺を後にするのは不安でしかない。あの路地から目を背けて生きていく方が楽かもしれない。見なかった事にして、これからも寺の中で経を読むのもありだろう。

 でも、決めたのだ。

 唄丸は酒も呑むし、肉も食べるし賭け事もする。しかしその瞳には揺るぎない信念があって、周の求めている何かを知っている気がした。

 自分に何ができるのか。それはまだまだ分からない。でも、だからこそこの人について行こうと決めた。

「これからよろしくお願いします。唄丸師匠」

「おう」

 出立の空は、どこまでも清く澄み渡っている。

 不安と同時に大きな期待と希望を胸に、周は寺を後にした。

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江戸之唄丸 橘 泉弥 @bluespring

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