第陸話


 生暖かい霧の中浮遊している感覚だった。航平はぼんやりと、目の前に立つ自分と年頃が同じ少年を見上げていた。袴を着込み時代錯誤のようでもあり、違和感なく溶け込んでいるようでもあった。


 長い髪が乱れ、袴には赤黒い何かが付着し、首が胴体からすでに離れているのに、かろうじてしがみつくかのように浮いており、それぞれが引き合っている。両手で杖のように、刀を突き刺しかろうじて立位を保っていたように思えた。


 航平は不思議と怖いとは思わなかった。

 彼は何か、言葉を一生懸命に伝えようとしていた。


 それを航平は確かに受け取る。決してその目に宿っていたのは、怨恨でも呪詛でもない。ただ、物悲しげで、申し訳ないというただそれ一心を込めていた。


 時代は彼の自由を許さなかった。


 生まれるにして、死ぬ事を義務づけられた家に生まれた。武士とは刀を持つが、すでに死を背負った存在でもあった。そしてその命運に従って、少年は死を遂げた。何故か、航平の奥底に抽象的なそんな感覚の断片が流れ込む。     


 そして死ししてなお、狐の事を探し続けた。

 だが、彼は狐に名前を付けたが、狐に名前を告げる猶予も無かった。


 故に、消え去った今、引き合うものは何もなかったのだ。

 生ぬるい風は言葉無く、ただビジョンと感覚で航平にその事実を伝えてくる。


 自分はやはり子どもだ、と思う。


 同じ年の少年が、過去の時代に責任を背負い戦って散ったが、自分は安穏とした日々を無駄に送っている。

 ふっと、少年は航平にぎこちなく微笑みかけた。


 それは違う――と。


 時代は違うが、生き行く人々は同じだ。そして、芽吹く命も。何かに戦い続ける人達の姿も。少年は血を流した。航平は孤独と摩擦し合う。少年は狐に名前を付けられずに去った。航平は狐に名前を付けた。やっと一匹の狐を孤独から解放したのだ。共に歩む者なく生き続ける事はなんて虚しいだろう。

 

 だから、ありがとう。航平の心には、確かにそう響き渡るものがあった。そして。狐をよろしく、と――。

 

 

 




 目が覚めたら航平は布団で横になっていた。払いのけた掛布があまりにも柔らかくて戸惑う。と、じっと目の前で正座して、こちらを見守っていた少女が表情を固くしながら、航平を見る。


「起きられたようですね」


 とちょうど、ゆったりとした足取りで、綺船が襖を開けて入ってくる。ふわっと、清々しい森の香が飛び込んできた。一瞬見えた外からは、紅葉が鮮やかに色付いている。

 綺船は、ゆっくりと航平の前に正座した。


「この度は、我が天弧てんこに救いの手を差し伸べて頂き、有り難うございました。口上では伝えるにはあまりも大きい恩義、本当に感謝しています」


 大人に深々と礼をされて、航平は戸惑う以上に慌てた。


「ちょ、ちょ、ちょっと、やめてください」

「止める訳にはいきません。綺船の天弧は、舟橋と通じる。彼女を亡くせば、妖達は生きる場をなくすでしょう。舟橋が作り上げたこの地で妖が生きる為には、天弧たる【きつねつき】の存在が――あ、今は【弧月こげつ】でしたね。彼女の存在が必要なのです」


 綺船は少女を見て微笑んだ為、航平も少女を見た。黒に茶が滲んだ、綺麗な髪をしている。そして淀みと無く夜を思わせる双眸。細く、繊細で折れてしまいそうな手足。しかし、しっかりとした意志を体全体で宿している。


 航平は唖然とする。【弧月】はこの子? あの小さな狐がこの子だっていうの? 狐は女の子だったの?


「君の驚きは、想像するにかたくありませんが事実です。天弧。言うなれば神の眷属です。綺船より生を賜り、妖を蔭より守り続けこの地を裁定しました。あぁ、綺船とは私ではありませんよ。この神社に祀られている水龍の事です。その水龍が【弧月】に命を与えた訳ですが、私も今までお目にかかった事はございません。私はこの神社の宮司、綺船慎哉と申します。以後、お見知りおきを。君と同じく、常識理論で生きている人間の末端ですが」


 航平は口をぱくぱくさせる。どう解釈するよりも、自分の置かれた状況がまるで見当がつかない。分かるのは、ここが神社だと言う事。そう言えば、と今頃になってばあちゃんの事を思い出す。山の麓にある神社を困った時は訪ねれば良い、と。そこの宮司様は親切だからきっと良くしてくれる、と。


 それならば、やはりこれは現実か。あった事は夢や幻ではなくて。


 そんな事を思っていると、綺船を押し出すように、少女は――あの小さな狐【弧月】は航平の前に体を座ったまま、前進させてきた。


「え?」


 彼女が何かを言った。聞き取れず、もう一度、聞き返す。


「君の名前を知りたい」


 ぼそりと、彼女はそう呟いた。航平はこくりと頷く。声を絞り出そうとして、喉の奥が枯れたように、声を出すのが難しかった。彼女に名前を告げるという事は、あの少年ができなかった事をさらにもう一歩進める、という事だ。それはもう他人でも何でもなくて、二人の関係性が築かれた瞬間でもある。大事に、しっかりと弧月に届くように、自分の名前を伝えたかった。


「木下、航平」


 ゆっくりと息を吐き出すように航平は伝え、弧月はそれをなぞるように自分の口から言葉にしていく。弧月は航平の手をぎゅっと握った。航平の手は温かかった。弧月の手は少し冷たかった。二人の温度が、二人の中で循環していくのを感じる。


 綺船はそれを見て、肩の重荷がよようやく下りたような気がした。


 先祖代々より、【きつねつき】こと【弧月】に名を与える事が、一種の使命だった。名を付す事は、彼女を孤独より解放するという事に他ならない。人を嫌う【きつねつき】が【弧月】として人の姿を示した。それはもっと航平に近づきたいという意思表示に他ならない。


 綺船は見た。ほんの一瞬だが、航平の後ろで深々と礼をした、少年らしき姿を。彼女もまた、それを見たはずだ。ぎゅっと、航平を小さな力で抱き締めた。


「え? え?」


 航平は困惑する。弧月の目から溢れ出す涙、それは少しずつ流れを作り、嗚咽になる。まるで自分が女の子を泣かせたようだ。どうしていいのか分からない。

 綺船慎哉を見る。綺船は、にっこりと笑んで見せた。


「すがりつける存在がある事は何よりです。我が天弧をよろしくお願い申し上げます」


 と言うなり、退席の意を示す。一礼し、足音ほとんどなく、部屋を出た。


 月の光を浴び、水龍と契約を交わした天弧の真理を【きつねつき】の名に付した少年。その名はまさにみことに相応しい。さらに字が木下ときた。舟橋の樹に導かれる事を体現したかのようだ。


 【きつねつき】は【きつね月】であるから、まさに真名である。それを時を経て人々は迷信と伝説の中で、勝手に解釈し、物の怪扱いをしてきた。彼らが向き合うべき世界とは、そんな世界だ。その道は前途多難なのは間違いない。


 障子越しに、二人の影がしっかりと重なって見えた。

 それに安堵して、綺船はその場を離れた。

 

 

 

 

 航平にできる事は何なのかよく分からない。分からない事が多すぎるが、言葉にならない言葉で泣きじゃくる目の前の少女を優しく抱き締めた。そうしていいのかは分からない。躊躇いもある。


 航平はあの少年の変わりじゃない。

 でも、あの少年にありがとうを、そしてよろしくを言われた。


 そして弧月は航平の恩人だ。

 だから。だから、だ。


 泣かないで欲しいと思った。でも、それは言葉に出来ない。航平にだって分かる事はある。泣く事すら弧月は許されなかったし、弧月は自分自身を許さなかった。もしかしたら、かの少年を救う事も自分はできたのかもしれない、という責めもあったのかもしれない。


「うっっ……うっ」


 航平の胸で弧月は泣きじゃくる。感情を破裂させて。今まで言葉にすることもできなかった、やり場のない悲しみの感情を全て航平にむけて。


 それを航平は無言で受け止め、小さな体で小さな体を全力で――抱き締めた。


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