第伍話


 航平は息を呑んだ。言葉にできない事があるとすれば、今現在目の前で展開していることがそれだ。


 喉が鳴る。


 ごくり、と唾を飲み込む。それでいて喉がひりひりする。不思議な感覚だ。今まで、航平の常識を覆す出来事が次々と強襲してきたが、今回の光景が一番だった、と言わざる得ない。


 (……あ、有り得ない)


 空の雲を突き刺す、そんな大樹。

 一般的常識で、そんな物差しで理論的に判断するのであれば――そんな事は有り得ない。映画かマンガの世界でしかいない。


 光が、雪のように、蛍のように、人魂のように、舞い続ける。光が火の粉を放つ。そんな光景があるとすれば、妖精達の世界でしか有り得ない。


「それもある意味では正しいでしょう」

「え?」

「君が、この場所を不思議な土地として感じた理由についてです」


 と綺船が航平の事を振り返らずに言葉を紡ぐ。


「もっと言うのであれば、君がこの土地を妖精が住まうと考えた理由についてですよ」


 この人は本当は考えを読む事かできるんだろうか? 航平はそんな事を考えた。


「先程も申しましたが、心を読むではなく、その媒介により伝達されたと言うべきですか」


 間髪入れず、言葉が返ってきた。航平は目を丸くする。


「……ここは我が神社の神木が奉納されている場所ですから。そしてその狐は我が神社の眷属ですので、舟橋と近い場所に、そして【きつねつき】と心を交わす事のできた君であれば、有る程度の心象は汲み取る事ができる訳ですよ」

「はぁ」


 そう言われてもちんぷんかん。混乱がより深まるだけだ。それも察してか、綺船は柔和に微笑んだ。


「昔はですね、妖と人間の距離も近かった。綺船はその接点にしか過ぎなかったのですが、今となってはその接点すらも無い。綺船は、今では彼らを庇護する事に徹するしかないという状況。この領域に入り込まないように、幾重にも策を弄してましたが、時々、君のような人が入り込むのです。それを良いと見るべきか、悪いと見るべきか。【きつねつき】の為には良いと思うべきでしょう、ね」


 綺船の言っている事の意味が分からない。だが一つだけ思う事はある。今はそれよりも、狐の事を救いたい。


「今一度、問いましょう。【きつねつき】を救って如何いかに?」

「え?」

「【きつねつき】は千年という時を越えて、命を永らえてきました。命を保つ事が【きつねつき】の為であるとはとても思えません」

「……」


「もっと言いましょう。それが天命と言っても差し支えない。寿命、ですね。生きとし生けるもの、生命の連鎖を持って万物の理と為します。それは時間軸の緩い妖達ですら例外ではないのです。それなのに、です。君は何故、【きつねつき】に拘る?」

「……助けてくれないんですか?」


 航平は絞り出すような声で、綺船に詰め寄る。助けてくれると、手を貸してくれると信じたからここまで狐を運んだのだ。ここまで来て、そんな事を言うか。ここまで来て、航平と狐を突き放すのか。ここまで来て――。


「憤怒は邪気となり、舟橋を苦しめる。私が君の神経を逆撫でするような発言を繰り返しているのは重々承知しています。その上で確認しているのです。君と【きつねつき】の関係は決して、対等な交流関係では有り得ない。どちら側の世界も双方を受けいれる事など現状、不可能なのです。【きつねつき】を救う事は私と舟橋をもってすれば可能です。しかし、君がこの先に踏み込むというのであれば、大きな覚悟が必要です」

「……」

「しかし」


 綺船は言葉を続ける。


「現状【きつねつき】を救うには君の一助を必要とします。彼女の傷は深い。私や舟橋のような中立の者ではなく、対極に位置する者の祈りが必要なのです。だが、それは一介の通りすがりでは済まなくなる。【きつねつき】と君は住む場所が違う。相手を知る事は何よりも力ですか、何よりもリスクを伴い――」

「狐が僕を助けてくれたから、僕も狐を助けたいっ! それじゃ駄目ですかっっっっ!!!!」


 それは怒号だった。あらん限りの声だった。普段、自分の気持ちを口に出来ない航平の最大限の意志だった。


 空気が、冷たく張りつめ、航平の声が谺していく。

 舟橋の葉が、かすかに揺れる。


 ――良い声です。


 そう聞こえた気がした。航平は顔を上げる。光が、航平と狐に向けて、降り注ぐ。


 (優しくて、柔らかい)


 航平はふとそう思った。


 ――呼んであげてください、名前を。


 (え?)


 突然、言われて戸惑う。名前を? 考える。【きつねつき】は狐憑き。だが、これは決して狐の名前では無い。航平は綺船を見る。綺船は横に首を振った。教えるべきものは何も無い、という意思表示だ。航平はどうすれぱいいんだろう。考える。考える。


 ――-名前を。存在を。生きている事の証を。何よりも、それが必要なのです。


 生きている証。航平はそれを考える。自分も欲しいと思っていた証。ただ生きているだけ。そう思った。自分の周囲に心から安心する事の出来ないまま生きていく。それがどれだけ苦痛な事か。航平はきっと、狐が経験してきた事の百分の一も理解していない。子どもなんだろう、と思う。実際、子どもだ。


「名前って?」


 舟橋からの声無き声。聞こえてくることを疑問に思わなくなった。現実として確かに聞こえているのだ。航平としては存在を肯定するしかない。


「名は体を表し、体は名をもってみことを付する」


 綺船は、答えにならない答えのみで応じる。


 航平は考える。名前をつける事が狐を救う事になるるのだろうか? 【きつねつき】は狐憑き。里の人達はみんな【狐憑き】と呼ぶ。山道には、特に夜道は気をつけろ。狐憑きに憑かれるぞ、と。だが綺船は――そして大いなるこの大樹は、航平に狐の「名前」をつけろという。

 ということは【狐憑き】は狐の名前では無いというだ。


 きつねつき。


 最初、狐を見た時に、こんなに綺麗な光景があっていいものだろうか、と思った。月の光を受けて、ため息が出るほど綺麗だと思った。狐そのものが小さな月だった。その光をずっと見ていたい、心底そう思った。


 素直に考える。狐の名前を。一番相応しい名を。名付けるんじゃなくて、狐の事を思い浮かべる。名は体を表わす。つまり本来の狐の名はすでにあるのだ。その名をただ呼んであげることだと、航平は思った。


 心の中に浮かんできた言葉。それを素直に声にする。


「コゲツ」

 狐の体がぴくりと動く。

 大樹、舟橋はかすかに揺れた。航平の感覚では、微笑んでいるようにも感じられた。


「狐月。こげつ。コゲツ。月の狐と書いて」


 風が吹き抜ける。航平と狐のすぐ傍で。綺船は無言だったが、少し驚きの表情を浮かべた。


真名しんなするか」


 その呟きは、航平の耳元に届く前に――ぶれて消える。


 視界が狐と航平を覗いて、霧の中に包まれ――少しずつ朦朧とした感覚の中で――霧と風が全てを支配して、そして沈黙が全てを包み込んだ。

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