第肆話
因果なモノだ。
狐はそんな事を考える。千年生きてなお、自分は寂しさの溝を埋める事は出来ないでいる。未だに――未だに、あの時の少年の事を追いかけているのか。
彼は自分には名前をつけたくせに、自分の名前は名乗らなかった。
いずれ戦火に身を投じるというのを悟っていたのかもしれない。狐は人間の世界についあまりにも浅はかだったと思う。いつでもそうだが、あの時は特にそうだった気がする。
後ろ姿だけが、妙に焼き付いている。寂し気で、どことなく誰も寄せ付けず、それでいて無邪気な笑みをこぼしていたあの少年。今となっては、彼の事を「少年」と呼ぶしかない。狐はそう呼んでいたし、少年もそれに頷いてくれていた。
彼は名前をつけてくれていたのに。
それなのに狐は自分の口から彼の名を呼ぶ事は一生無い。名前ぐらい聞いておけば良かった。もっと正直になればよかった。恥ずかしがらずに、たくさん撫でてもらえば良かった。
いつもそうだ。事が終わってから、いつも狐は後悔を繰り返す。それでいて、何事もなかったかのように、平凡な毎日を過ごそうとしている自分がいる。
彼のなつけてくれた名は真名。つまりは本当の名となった。
真名とは妖全般が持つ本来の意味を指す。その真名を知る者は妖を支配するに至る。その名を得るまでの過程を「調停」と綺船は名付けた。おいそれできる事でもないのだ、と。そのおいそれ出来る事では無い事をかの少年はやって見せた。かつて狐が物の怪としてしか扱われない時代に、少年は狐の本性を見抜き、それ故に伏礼を持って義を示した。
礼と義の時代は当の昔に終わりを告げた。
色のない血生臭さが、より協調された時代だ。妖達には住みにくい世界になったとも言えるし、逆転の発想をするのであれば、これ程住みやすい環境も無いと言う妖もいる。
狐はどっちでもいいな、と漠然と思い、時間を垂れ流してきた。
それが今になって、彼の名前の事を考える。聞けなかった彼の名前の事を。彼という存在を示した名の事を。せめて名を知っていれば、彼がどこで朽ち果てたのかを辿る事もできたのかもしれない。だが狐は「彼」という存在でしか、彼を――少年を追いかける事はできない。結局の所、「彼」の朧気な記憶だけを頼りに、時間を食い潰してきた。
命は惜しいとは思わない。散々、スローモーションな景色ばかりを眺めてきた。そこで何かが蠢いては陣取り合戦を繰り返していた。歴史も、裏を返せばそんな蟻の群れの突っつき合いにしか過ぎない。彼もまた、そんな蟻の一匹だ。だが、かけがえない生き物であったのは確かだ。
そんな彼と同じような空気をもった無知な少年。
狐は薄目ほ開ける。
光が飛び込んできた。
秋に蛍、そして朧月、童歌、それは鬼守、神木、綺船の樹にして大いなる舟、大樹、それが舟橋。
狐を至福の光が包み込む。二回目に見た光は一回目の光より、優しく慈しむような光だった。
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