第参話


 あの狐が、いきなり航平の胸に飛びついてきた。予想もしていない行動に、航平はバランスを崩す。


「な、何をっ」


 と言葉にするが、坂道を転がってまともな言葉にならない。


「君は阿呆か」


 と狐に叱咤されて、ふと気付く。狐が――喋った?


「今更気付いたなんて言うなよ、全く」


 呆れた声で、航平を見下ろしていた。航平は眼を回しながらも、何とか起きあがる。


「君は、鬼目を見たら逃げろと教えられなかったのか?」

「鬼目?」

「……呆れたな。そこまで、人間は恐怖に対して無知になっていたのか」

「え? いや、この山には近づくなとは言われたけど――こっちの地方に来たの、つい最近だから」


 狐は小さく息をつく。


「君がどこにいようが関係ない。問題なのは、里から離れた場所に入り込むのは、愚か以外の何ものでも無い」

「いや、そんなの知らないし」

「知らないですむか。君は禁忌に足を踏み入れたんだ」

「きんき?」


 ここは東北だよね? とかそんな事を考える。狐はさらに馬鹿にしたような目で、航平を見る。


「君は頭は決してよろしくないな」

「わ、悪かったね!」


 航平はむくれた――つもりが、目を見開いた。あの巨大な目が、まるで分裂するのように二つに――三つに――幾十に別れていく。


「厄介な」


 狐は小さく息をつく。


「これ……?」


 航平は自分の感覚が麻痺していきそうなのを感じた。神経が痺れるように、空気が張りつめる。


「だから鬼目だ。君のような子どもが、ヒサワレの山に迷い込んでくるのを監視している」

「監視?」

「そう。生け捕る為に」

「は?」


 説明を理解しようと必死に飲み込んでいた航平は、思わず顔を上げた。今、なんて――。


「そして捕食する。鬼目にとって君らぐらいの子どもは、とても貴重な栄養源だ。子ども一人で三十年は長生きできる」

「ちょ、ちょっと、冗談は――」

「冗談でこんな事を言うか。君は危機感が足りない。だから忠告している」

「いや、でも――」

「君は山の危険性を理解していない。決して、子どもが丸裸で踏み込んでいい場所じゃない」


 狐に断言されて、航平は絶句する。自体はそれほど、芳しくないらしい。


「【きつねつき】よ」


 目の下に口が裂ける。それはとても奇怪で想像しがたい光景だった。


「それは我らの糧食だ。横取りはいただけないな」


 自分の事を糧食と言われたものの、糧食の意味は航平にはまだ分からない。きょとんとした顔で、両者の会話に耳を傾けていた。


「さらに言うなれば」


 と鬼目はぐっと、狐の元に肉薄する。


「ヒサワレの山では、それぞれの領域がそれぞれのルール。迷い込んだ人間なら、食しても構わない。そう、綺船きふねは規律を示している。ここは妖とって自由だろう?」


 狐は静かに、鬼目を見上げた。


「汝の領域から、随分と外れた場所を、領域と言い張るんだね。ここは舟橋の領域だ」


 狐の言葉に、鬼目は言葉を詰まらせた。狐はさらに言葉を続ける。


「舟橋の領域を荒らすと言うのか。それならば、汝は規律を率先して、破ろうとしている訳だ」

「……綺船の狗がっ」


 一触即発の状態に、空気が震えるのが分かった。どちらも視線を逸らそうとしない。航平は唾を飲み見込む。そこまで守って貰う必要はあるんだろうか? と思う。航平は彼らの領域に無断で入り込んでしまった。非は航平にあるのは間違いない。この小さな狐が、そこまで自分を守る義理は無い。

 航平は一歩、前に出た。


「小僧?」

「無断で侵入したのは悪かったです。悪いのは僕だから」


 と航平は口にした。狐は愕然とした顔で航平を見て、鬼目は裂けた口元に歓喜の笑みを浮かべていた。


 もうたくさんだ、と航平は思う。

 誰彼の領域について考えるのは。そしてそれに気を遣っていくのは。


 何処にいても航平の居場所は無い。分かっていた事ではある。航平は此処では部外者でしか無い。それは学校でも、祖母の家でもそうだ。航平は結局、何も知らない。狐は航平の事を無知だと言った。それは正しいと思う。だから誰も受け付けてくれないし、相容れないんだと思う。航平は決定的に、他人とコミュニケーションを取る能力が欠如しているんじゃないか、と思う。


 だから。だから――だから仕方がない。

 結局はどうでもよくなってきた、というのが本音だった。


「……君は何を言ってるんだっっっ!」


 風がさわさわと流れていくのを感じた。その風が航平の体を前から後ろに押し戻そうとする。


 それは違う――そんな確かな声が聞こえたのを感じる。

 航平は顔を上げた。葉が揺れた。暗闇の中で、雲が動く。月が、怪しい光をのぞかせる。その光を浴びて、狐が体を黄金色に輝かせていた。


「たかだか【狐憑き】が、鬼に挑むか。小賢しい物の怪が」

「ちょ、ちょっと、君は――」

「関係無い、なんて言うな。君まで同じ事を言うなよ」


 狐は冷たい声で言われ、航平は言葉に詰まった。


 狐の言う通り、「関係無いから」と言いたかったのだ。これ以上、この狐に迷惑をかけたくないと、航平は思った。


 君まで、と言うのはどういう意味だろうか? そんな事を思う。


 と、狐は跳躍した。その前肢で相手の目を打ち破る。

 航平は息を呑んだ。

 だが、残りの鬼目は目元に亀裂を浮かべ、笑みを浮かべている。


「いくらでも潰すが良い。我は痛くも痒くも無い」


 目は次々と生まれてくる。まるでシャボン玉の泡のようだ。違うのは、シャボン玉の泡のように消えない、と言う事だけ。


 鬼目の特性は狐も十分に理解している。ここでいくら眼球を破壊したところで無駄だ。この目は監視役でしかない。あくまでただのカメラだ。鬼族は聡く、妖の中では人にもっとも近い眷属である。彼らは獲物を狩り出す事をもって、恐怖と畏怖を得ている。だが――その恐怖を作り出すはずの鬼目の方に、焦燥感が滲んでいるのを狐は感じていた。


 理由は明白だ。少年はほとんど恐怖心を感じていない。無頓着なほどに、だ。

 似ている、と思う。


 あの日、別れを告げた少年と似過ぎていると思う。彼の名前は結局最後まで分からなかった。妖に恐れをなさず、無知で、無力で、人が良すぎて、しかし――舟橋の歓迎を得た少年を。


 月の光を。月の光がもっと強ければ、こんな鬼目など一掃できる程度に力を発散できるのだが、今日は雲に隠れては現れたりと不安定だ。そして月の力そのものが弱い。だが退くつもりは無い。


 ――もうたくさんだ、と思う。

 諦めるのは。


 背中だけを見て、見送るのは。そして狐だけ取り残されてしまうのは。時間の流れの向こう側に取り残されてしまうのは。


 狐の体躯が波打つように、黄金色に光った。

 航平は、狐の体が空気に溶け込むようにゆらゆらと揺れているのを感じた。


 体躯が少しずつ、大きくなっているように思える。――否、少しずつ、少しずつだが、狐は体を巨大化させていた。銀色の目が冷たく鬼目に向けて敵意を向けていた。狐の体が光に包みこまれ、その光が巨大な翼を作り上げる。

 航平は信じられない目で、狐を見上げた。


「綺麗だ」


 素直にそう思う。信じられない光景ばかりが眼前に続き、麻痺してきたのかもしれない。たが、航平は単純に、狐の事が綺麗だと思った。

 逆に、目しか無いはずの存在はこれこれ以上開けない程、目を見開く。


「お前は……【狐憑き】じゃ――」


 狐は吠えた。人海戦術における、少数精鋭が勝ち抜く方法は。――一点の撃破と攪乱に尽きる。狐は、航平を口で自分の背中に放り投げると、翼を羽ばたかせて跳躍する。


 轟音しか寄せ付けないスピードの中で、航平は静かな風の言葉を聞いた。


 航平は狐の肩をなんとかコツコツと叩く。狐が航平の元に意識を傾けた。航平は無言で、林の奥を指さす。鬼目の目が、そこだけ距離を置いていた。


 (なるほど)


 あえて他の場所に意識を反らせるように鬼目を配置したか。そして、この少年は舟橋の声をやはり聞く事ができたか。これではまるであの時の生き写しじゃないか。対峙した相手が、鬼目か、鬼女かの違いだけで。舟橋の声は風だ。風は世界を駆けめぐり、全てを見聞する。舟橋には全ての記憶が陳列される。その知識を引き出す事を舟橋はこの少年に許可したという事に他ならない。


 狐と少年の意思を察知してか、鬼目が集結した。

 だが遅い。狐は口を開けた。せめて道を塞ごうとする鬼目の集団に光の玉を放つ。


「そこまでです」


 と穏やかな声とともに、両者を突然、自然法則上あり得るはずのない巨大な氷柱が、大地を貫き、それぞれを相殺した。


「綺船っ」


 鬼目は忌々しげに言う。狐もまた、ゆっくりと空中でステップを踏んで、大地に着地する。光が狐から溢れ――流れ出している。

 鬼目は全ての目が舌打ちをして、一瞬にして、消えた。


「まったく無理をする」


 と白装束の大人が、ゆっくりと狐と航平の元に降り立った。まさしく天から降り立った、という表現が的確な気がした。鉄の錫杖を持つその姿は、どとこなく無骨のようにも感じられる。決して強靱そうではないが、かと言ってなよなよとしている訳でもなく、すらりとのびた姿勢には威厳すら感じられた。


 人間――である事は確からしい。航平にはもう、色々な事がおこりすぎて、訳が分からなくなってきた。


 風がまた、航平の耳元で囁いた。

 一礼を。


 それに倣って、航平は頭をぎこちなく下げる。綺船、と言われた男は目を丸くし、航平の事を見た。


「君は舟橋の声が聞こえるのですか?」

「え?」

「おいでなさい。どちらにせよ、この子には舟橋の加護が必要でしょう。君の祈りが有れば、なお早期に問題は解決できるるかもしれません」

「え? え?」


 混乱する航平を尻目に、すでに綺船は歩き出していた。


「【きつねつき】の事は少年にお願い致します」


 と言われて、現在進行形で光をその体から流し続ける狐を慌てて、抱き上げる。狐の息はとてもか細い。何故だろうか。こんな訳の分からない場所に迷い込んで本当なら今すぐ逃げ出したいがそれを許さない自分がいる。


 狐は自分とは無関係なのに、真っ向から対峙して自分を助けようとしてくれた。その恩を航平は返すべきだと思うし、今だからこそ今度は航平が助けるべきだと思う。


 ――何を呆けてる。


 あの狐の声がとても鮮明に脳裏に響く。

 今、その狐はとても弱々しくて、消え入りそうだと思う。


「消え入りそうなのではありませんよ」


 と彼は静かに言った。航平は綺船と言われた男を見る。


「失礼。舟橋と同調した風から、君の声が聞こえたのです」

「?」


 言っている意味が分からなかった。


「消えそうなのでは無いです。そのままにしておくと――【きつねつき】は消えるだけの事です」


 まるで当たり前の事を当たり前に言うような、さらりとした口調で。

 航平は顔を強張らせて、狐を見た。そして綺船を見た。


「君にその気があるのなら急ぎましょう。その気がないのなら、【きつねつき】を月光の良く当たる場所に投げておけばいいでしょう。運が良ければ、命は長らえる」

「え?」


 それは置き去りにするという事じゃないか。航平の感情の中で、釈然としないものが湧き上がってくる。それを綺船は静かな目で見据えていた。


「君は一つ、勘違いしている」

「……かんちがい?」


「【きつねつき】は妖だという事。君達は妖怪と暗闇の底に彼らを押しやった。彼らの本質を何かも知らずに。もっと言うなれば、君達は【妖】と言う烙印で、危害を加えるモノとして枠組みを作った訳でしょう。実際、君は【きつねつき】や【鬼目】をそのような目で見ていた訳ですから。そのような行為に及んだとしても、【きつねつき】は君を責めたりなどはしないと思いますよ」


「……」


「言うなれば、赤の他人。君が助けてくけれる望みがあるはずもありません。【きつねつき】はそれを良く理解しているはずです。その上で【きつねつき】は行動をした。だから、君がどのような選択をしても【きつねつき】が責めるような事はないでしょう」


 航平は綺船の言葉を考える。彼の言葉には、納得できるモノがあった。航平には言い返す言葉は見つからない。


 だけど――航平にはその言葉に頷く事は出来なかった。たしかに、狐とは赤の他人だ。しかし、赤の他人とは思えない程に、狐は航平に言葉をかけてくれた。多分、迷い込んだ航平に見られた事に対する責任を感じたのかもしれない。だが航平にとっては、それ以上の理由を見つけた気がする。


「……誰かを助ける事に理由が必要なんですか?」


 綺船は少し、目を見開いた。唇に指を押し当て、何かを熟考しているようだった。

 数分、沈黙が続く。その間、航平は狐を強く抱き締めたまま、目を逸らさずに綺船の事を見続け――睨むと言ってもいいかもしれないが、凝視続けた。


「成る程。さすがは舟橋の寵児と言った所かですか」

「え?」


 また出た。舟橋と言う言葉。意味が分からない事が多すぎる。


「深く考えるのはお止めなさい。下界の常識という物差しでは到底測れない場所です」


 ふっと唇が微笑を浮かべる。「ここ、はね」


 そう言って、綺船は足を進めた。不思議な事に、ゆっくりとした動作なのに、航平は早歩きでないとついて行くのが困難だった。綺船はでこぼこの山道をまるで滑るように移動していく。


 そう言えば、と思う。綺船。舟橋。どちらも舟だが、これには何か意味があるんだろうか?


 歩みを進める度に、霧が深くなっていくのを感じた。平衡感覚が失われるような、重力が少しずつ軽くなっていっているような、そんなふわふわとした浮遊感すら感じる。自分の足元に感じる土の感触が唯一、今は歩いているという現実を教えてくれる。


「ここです」


 突然、綺船は立ち止まる。航平は言葉もなかった。ただ、唖然と眼前に広がる光景に見とれる。


 空に突き刺すような巨大な大樹が、雲の遙か上まで伸びていた。信じられない光景だか、現に目の前に広がっている。今まで生活してきた、現代社会の常識は、この山では一切通用しないのをつくづく痛感する。

 風が、航平のほおをかすめた。


 ――ようこそ。


 航平は顔を上げた。あの声がする。航平は目を何回も瞬いた。綺船は表情一つ変えずに言葉にする。


「ようこそ、舟橋へ」


 その言葉は空気そのものを震わせて、まるで鈴を打ち鳴らすように、空気が冷たく流れた。


 空をも突き刺す、大樹・舟橋。

 航平は愕然と、巨大な樹を見上げていた。

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