第弐話
夢から覚めないような感じだった。狐が月の光を浴びて、文字通り、黄金色に輝いていた。狐を見たのが生まれて初めてなら、あんな光景を見たのも初めてだ。驚愕、ってのはこういう時に使うのか、と航平は息を切らせながらそんな事を思った。
転校早々からとんでもない目にあっている気がする。
昼間は昼間で、学校に行っても、言葉が上手く通じない。方言の壁は大きいな、と思った。同じ日本語のはずなのだが、彼らの使うイントネーションが、全くつかめない。何を言っているのか分からない。それってどういう意味? と聞くと、途端に都会人め、って顔つきになる。歓迎ムードは一気に冷めてしまった感じだった。
足を止める。どうやらあの狐は、追いかけ来ないらしい。
なんだったんだろう?と思って、一つの答えが脳裏をよぎる。
【きつねつき】――狐憑き。
ばあちゃんが言っていたのは、あの狐の事なんだろうか。
学校にまいってしまっていた航平に、祖母は小さく笑んで、この山の事を教えてくれた。夕方までに帰るという約束で。
(あ、時間を破ってしまったなぁ)
と呑気に考える。こちらの時間は緩やかだ。みんなの歩くスピードがとてものんびりしている。以前まで住んでいた街とは違う。店なんて無いに等しいが、航平には欲しいモノなんか何も無い。街に比べて星がよく見えるし、知らない道を冒険者気分で歩いていくのは意外と楽しい。一人なのに、何故か寂しさを感じなかった。まだ七時。急いで帰ればまぁ、そなに怒られもしないだろう、とかそんな事を考える。
それで、あぁ、と納得する。
航平には、本当の意味での友達なんか一人もいなかったのだ。だから、あちらを離れる事に未練はなかったし、こちらに来ても執着も無い。元々、何も無いから何も無いこの里で、求めるものも無い。
ただ母さんの病気が早く治ればいいなぁ、とは思う。長期入院していた母親の療養の為、この里にやって来た。理由は二つ。母の生まれ故郷だった、という事。病院系列の療養所があったという事。街の汚れきった空気に比べて、こちらの空気は透明で澄んでいるので、母さんの呼吸は少し楽そうだった。
先天性の呼吸疾患なんだ、と病院の医師は言っていた。なんの事か分からなかったが、息をするのが苦しいというのはよく分かる。苦しそうな母さんの顔を何度も見てきた。病院のベットの上でも、苦痛で歪んでいた表情が忘れられないが、ここに来て安楽で笑顔が多く見られる。それが航平の救いかもしれない。
が、現実問題として、それは母さんの問題であり、半分しかこの土地に馴染めてないという航平の問題に変わりは無い。困ったな、と小さく呟く。しかし、さらに困ったのは航平が現在進行形で山の中で迷っている、という現実だ。
困ったな、とやはり呑気に思う。月か明るいせいか、あまり危機感を感じていない。むしろ楽天的ですらある。何とかなる、とは思ってはいない。ただ、何となく、安心するのだ。この森は。
安心する、その表現が航平には一番的確だった。
父さんがいたら良いのに。そう航平は思った。
自分がお父さんっ子なのは自覚している。何より、小さい頃から母親は病院通いか入院していたかのどちらかだった。母さん、という認識はあったが、どちらかと言うと、抽象的な存在だった。何か、形が無くて、ふわふわとした空気のような存在。守られる存在ではなく、守る存在であったが、不思議といつも航平を見守っていてくれる。子ども心にそんな事を思う。
この森はある意味では母さんっぽい。そんな感じだ。不思議で不可思議で、捉え所が無くて、それでいて現実にはっきりと確かにあって。決して、濃霧のような冷たさではなくて。母さんは多くを言葉にはしない。しかし、その言葉の一つが大きな意味を持っている。
この森は、声にならない声で、航平に何かを語りかけていた。それが何なのかは、航平にはよく分からない。それは囁き声だったし、時として声にならない声だった。錯覚とも言えるし、幻聴とも言える。
さわさわ。風が何かを囁いた。
さらさら。木々の葉が擦れあって何かを必死に語りかけている。
さーーーーーー。
何かが通り過ぎた。
すすきが、大きく風で揺れている。
月が、雲に隠れてはその顔を覗かせている。雲の流れが速い、と航平は思った。空気がびりびりと震えているのが、肌で感じ取れる。何かが、今の一瞬でがらりと変わった気がする。
ふと、顔を上げた。
航平の頭の上に何かが、影を落としていた。
目を丸くし、そして息を呑む。
巨大な眼球が――航平の頭ほどもある一つ目が、空中を浮遊していた。
「君は、何を呆けてるっ!」
と突然、そんな声が飛んできた。
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