第壱話
長い年月を経て得た寿命を狐は振り返る。たいして思い返すこともないと、呟くのだがその口調は弱い。
冷たい風が吹き込む。
山の気候は、時として生き抜こうとする命達に残酷なほど冷たい。そんな季節が今年もやってこようとしている。
紅葉が中途半端に色付く。
あの時も、こんな風で、こんな中半端な紅葉の色合いだった。
緑と紅、そして朱。
狐は月を見上げる。一人の少年の顔を思い浮かべる。「妖」――あやかしが、人間という種の日常生活に溶け込んでいた時代の話だ。まだ、人種は自然に敬意と畏怖を感じ取っていた時代の話だ。そして何より、生き物の命を重く尊重し、儚く散っていた時代の話だった。
おぼえている。それだけは憶えている。
あの少年の顔を。
戦には向かない少年が、元服を迎えたその日を。
名前も聞かなかった少年を。その脇に差し込まれた長刀の鞘を。
あの時、彼は変わらず穏やかな微笑みを浮かべていた。彼は戦には向かない。彼は血生臭い場所には不向きだ。それでも、彼は戦地へ出向く。彼は武士で、彼は男で、彼は刀を所持することを許され、彼は名字を持つことを許され、彼は自分の国を守る為に、今まで生きてきた。そう言う。
狐は彼の言葉を聞く。当時、返す言葉もなかった。
勿論、彼自身「妖」の社会に少年は深く入り込もうとはしなかったし、狐も又人間社会に入り込もうとはしなかった。ただ彼は優しく、動物たちの命ある領域を侵さなかった。
暗い目で狐は彼の姿をその目に焼き付けていた。
彼は一礼をする。
それだけ。
それだけだった。
いつものように――元服前の少年のように、無邪気な表情で狐の頭を撫でてくれなかった。狐は気付く。元服とは、大人になる儀式――否、大人になった儀式。子どものように、野山の狐と走り回ることは許されない。知識では知っていたが、現実に目の当たりにして当惑していた。それはあまりにも早すぎた別離だった。
彼には、民を背中に刀を振る責務がある。
緑と赤い紅葉と、朱い月明かり。
狐は目を閉じる。月の光を浴びてその命を延ばし、幾星霜もの年月を積み重ねてきた。「朱い月」は不吉と言うが、どちらかと言うと、悲しみを彷彿させる。今夜も、あの時と同じような朱い付きだが、どことなくあの時と違う気がした。
あの時は、別離だった。しかし、今更別れて惜しむような存在は無い。狐は命を脈々と、続けていく。いったい何処まで自分の命は続いていくのか。――多分、月の光が続く限り。
随分と感傷的になっている気がする。
風が吹き付ける。
「あっ」
思わず、狐は声を漏らした。気付かなかったが、一人の少年が狐を唖然と見下ろしていた。
失態だ。月の光を浴びて、狐の体は黄金色に光り輝いていた。狐が人語を解した事より、その現象の方が驚愕に値したらしい。少年は口をぱくぱくとさせていた。その隙を見て、狐は全速力で駆け出す。
失態だ。大失態だ。まさかこんな場所に人間が入り込むなんて。
妖と人間の距離が、時代を進む毎に近くなってきている。それは実感していたが、この山はその現代においても禁域であったはずだ。その為に
否――初めてじゃない。二回目か。二回目だ。走り去りながら、後ろを振り向く。少年は信じられないという顔で呆然と狐を見て、そして逃げ出すように走り出した。
あの顔が、あの時の少年と似ていた。懐かしさにも似た苦い感情が、自分の喉元にこみ上げてきたて――我に返る。少年が向かった方角は、山の深層だ。たいして深くないというのが地域の人間達の見解だが、それは表通りを通ってきた場合のみに適用する。
標高700メートル。そんなに高くはない。だが、この山は深い。森の奥底が、迷宮のようですらある。【きつねつき】の伝承から、この山に入り込もうとする奇特な人種はいなかったが、時代も時代か。綺船の宮司の言葉を思い出す。
どちらにせよ、放っておけないか。
狐は小さく息を漏らす。今夜の月は明るい。当の【きつねつき】としては、都合が良いとも言える。
狐は少年の後を追い、軽やかに森の奥底へと駆け出した。
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