2

 パン屋から逃げるとき狭いほうへ狭いほうへと走ったのは覚えているが、今自分がどこにいるかはわからなかった。どのみち来てから数日の街だ、大して覚えてもいない。だが、初日に思った「裕福な街」は一面だった。貧富の差が激しいのだ。


 薄暗く狭苦しく、時折悪臭が漂ってくる。建付けが悪そうな家が並び、なかには窓が壊れているところもある。すれ違うとき、じろじろ見られるのはこの場に似つかわしくない服のせいだ。ここでは盗んだ服は上等過ぎた。


 今まではお屋敷の庭の片隅に忍び込んでそこで夜をしのいだ。茂みの中は思いのほか暖かい。夏場は毒虫に悩まされていけないが、冬が目の前の今の時期ならそんなこともない。


 しかし今夜は冷え込みそうだ。ひょっとすると雨が降るかもしれない。空き家があればいいけれど、なければ馬小屋に忍び込もう。まずはこの辺りから……


 窓が割れているところなら、と思い覗き込むが奥で灯が揺れている。取れそうな扉の前で耳をすませば人の気配がある。どうやら貧しい人たちが貧しいまま肩寄あって暮らす一角のようだ。


 ここでは無理か、よそに向かおうと思い始めるころ、薄暗闇の中にたたずむ幼い少女を見た。近寄ると壁にぴったりと体を寄せて隠れているつもりのようだ。その様子があまりにも可笑しくってつい声を掛けてしまった。


「こんな時間にどうしたんだい」

少女は聞こえないふりをしている。


「そこにいるよね、わかってるよ。かくれんぼ、下手だね」

怖がっているのか、しゃがみ込んでしまった。


「ごめんなさい、たないで」

べそを書いているようだ。


「誰が打ったりするものか。それともいつも殴られているのかい」

おいらと同じだ、と思ったがそれは口にしなかった。


「母ちゃん、今、お客が来ているから、あたし、見つかったら怒られる。いないことになっているから」


なるほど、やっぱりおいらと同じ ―― 母親はおいらの母親とご同業だ。


「客はいつ帰るって?」

「聞いてないけど、いつも朝までいるお客」


「それじゃ、いつも此処で朝まで立っているのかい。この家がキミの家なのかい」

「ううん、お客さんとはちわせしたらまずいから家の前にはいられないの。あたしの家はあそこ」


 指さす方を見れば曲がりくねった道の先にみすぼらしいドアが半分見える、あれがこの子の家なのだろう。なるほど、ここなら客が帰ればすぐにわかる。


「母ちゃんは優しいかい」


「うん、いつもお客が帰ったら走って帰るんだ。すると『すまなかったね』ってギュっと抱きしめてくれるの。母ちゃん、大好き」


にっこり笑う顔は素直だ。


(おいらだって母ちゃんのことは大好きだったさ。だから客にどんなことされても我慢できたんだ。なのに……)


ここでいう『客』は母親の客じゃない。


(なのに、おいらは売られちまった)


 母ちゃんに連れていかれた先にいたのは、何日か前に『客』として相手をした男だった。今日からこの旦那さんがお前の世話をしてくれるよ、お前にとっても、よい話なんだよ ―― 男は母ちゃんに何かを渡していた。金の入った袋だろう。もうすぐ七つの誕生日を迎えるころだった。


 いったいオイラ、いくらで売られたのだろう。そしてそれっきり ―― 母ちゃんには会えていない。


 男に手を引かれ連れていかれた先は大きなお屋敷で何人も使用人がいた。商いは酒造で、酒蔵や店は別のところにあるらしい。そちらでは別の使用人を使っていると言っていた。


 『旦那さん』は優しくしてくれた。打たれたことは一度もない。屋敷の使用人たちが日常の世話をやいてくれ、『坊ちゃま』とオイラを呼んだ。


 ちゃんとした『食事』を食べさせてくれ、清潔で上等な服や寝床(旦那さんと一緒ではあったけれど)をくれ、風呂も毎日入れてくれた。でも家に帰してくれることはなかった。


 読み書きも教えてくれて『いい若いモンになるんだよ。その時は、今度は店の働き手になってワシを喜ばせておくれ』とよく言っていた。飽きたら捨てる、なんてつもりはなかったのだろう。


 屋敷の使用人たちは、旦那様は随分前に奥様を亡くされ、お子もいない。お坊ちゃまは正式な養子ではないけれど、この先、立派に成長すればひょっとしたら跡継ぎになれる可能性もある、だからしっかり勉強して旦那様に気にいられるよう頑張るんだよ。


 今までの子も器量よしばかりだが、その中でもお前は数段見栄えがいい、あとは知恵が回る子だと思われればよいのだ、跡取りとまで行かなくてもお店の支配人くらいにはしてくれる、と口々に言った。もし、だめだと思われれば辛い肉体労働で一生こき使われるよ、と。『お坊ちゃま』と使用人たちが呼ぶのはオイラが初めてではなかったようだ。


 旦那様の留守に時々菓子を持って使用人が『内緒だよ』と忍び込んでくる以外、『客』が来ることはなかったし、昼間は家庭教師について勉強、夜は旦那様のお相手、文字を覚えてからは暇に飽かして書庫の本を読み漁ることくらいしか、オイラにやることはない。


 楽な暮らしだった。母ちゃんと一緒にいるよりきっとずっとマシな生活だったんだろう。だけど……


 母ちゃんに会いたい ―― その思いが消えることはなかった。


 2年辛抱した。2年が過ぎようかと言うころ、我慢ならないことが起こり、こっそり屋敷を抜け出した。


 母ちゃんと暮らした家は別の誰かが住んでいた。オイラを売った金でもっといいところに越したのか、それとももっと落ちぶれたのか ――


 屋敷に連れ戻されるのが嫌で、母ちゃんを探すこともせず、そのままあの街を飛び出した。あれからどれくらい時は過ぎたんだろう。


 今、目の前に立つ少女は五つを過ぎたころか。この子の母ちゃんはいずれこの子のところにも『客』を連れてくるのだろう。ほかに生きるすべがないのだ。なにも持たぬ者は己を売ってしのいでいくしかない。


 胸が押しつぶされそうな感覚に戸惑いながら盗人ガキは少女に言った。

「ねぇ、この辺に空き家はないかい。今夜は雨が降りそうだ、二人でそこに潜り込んで朝までいようよ」


「一緒にいてくれるの?」

少女の顔がパッと明るくなったように見えた。


「夜はいつも一人きりなの ―― 空き家なら向こうの角を曲がった奥にあるよ。あ、でも雨漏りするかも」


今夜の寝床は決まったようだ。

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