幸せな少女

寄賀あける

1

 薄暗い裏路地の隙間という隙間を、なるべく狭い隙間を選んで走り抜け、やっと追跡を振り切った。


 隙間に入り込めず追って来られなかったパン屋の主人、きっと地団駄じだんだ踏んで悔しがっていることだろう。これでやっと盗んだパンを噛み砕き飲み込むことができる。できれば水が欲しい。が、そんな贅沢は言っていられない。盗人は行き止まりのその路地の壁の一角を背に、体を小さく丸めるように地面に座りこむと、懐からパンを出してかじり始めた。


 何日ぶりの食物だろう。昨日は捕まって袋叩きにされたっけ。あの『リンゴ』というものはどんな味がしたんだろう。


 おいらを殴る蹴るするうちに肝心のリンゴは粉々に砕けていたが、それすらあのおニイちゃんは拾い集めて持って行ってしまった。なんだかいい匂いがあたりに漂っていたっけなぁ。


 遠い国から運んできた甘ぁい甘ぁいリンゴだよ、そう言って客を集めていたおニイちゃん。苦労して持ってきた商品を薄汚いガキに盗られたんじゃ、そりゃあ腹も立つだろう。折檻せっかんに手加減なんか感じなかった。


 通りがかりの誰かが、それくらいで許してやりなよ、と声を掛けてくれなきゃ、おいら、殺されていたかもな。


 その時の傷が痛むのにも構わず一心にしゃくした。食べなければ死ぬのは同じだ。飢えて死ぬのと殴り殺されるのと、どっちが余計に辛いのだろう。取り敢えず今日のところは飢え死にするのは免れそうだ。


 狭い路地の奥まった一角、まだ昼間なのにどことなく薄暗い。袋小路になっていて陽が差すのは真上に空いた僅かな隙間だけだからか。見上げるとその隙間からスズメがこちらをうかがっている。盗人ガキが食べこぼしたパン屑を狙っているのだろう。


 この街に来て何日か。十日は経っていないと思う。


 最初の日に服を盗んだ。割と裕福な街と見え、みすぼらしい形は目立ちすぎると思ったからだ。一旦、街の外にでて山の泉で体を洗って着替えた。盗んだ服は少しブカブカだったけれど、小さいよりはマシだ。また盗まなきゃならなくなる。


 翌日にはまた街に戻り次には間抜け面したヒヒじじいふところかすめ取った。見た目で商売女とわかる、そいつには不釣り合いな若い女の気を引こうと必死なヒヒ爺。すれ違いざまにつまずいた振りをして体にしがみついても、うるさそうな顔をしただけで巾着が切られているなんて思いもしなかった様子だ。が、銭入れだと思ったその巾着は煙草入れで、肝心の銭はなかった。値打ち物に見えた巾着もパン二つ分にしかならない。


 古道具屋の親爺おやじ煙草たばこ道具はくずだといい、巾着もありきたりと、おいらから受け取ったらポイっとごちゃごちゃ色々入った箱に投げ入れていた。


 こんなモンどうした、と聞かれたとき、拾った、と答えたら、フンと鼻を鳴らした。信じちゃいない。だけど買い取ったのは巾着か煙草道具、どちらかが売り物になるからだ。


 だが、それを言って何になる。下手に騒いで役人を呼ばれるよりはパン二つを手にした方がよっぽどましだ。


 それで二日をしのいだ後は、なかなかチャンスに恵まれなかった。ほかの街と違ってこの街は、広場にいちが立つということがなく、商人はみな店を構え、店には当然、扉があった。扉があれば逃走の妨げになる。


 昨日はたまたま店先に棚を出して『リンゴ』を売っているのに出くわした。赤くてツヤツヤ光る、初めて見たが「甘い」と言うからには食べ物だ。売っているのは若いおニイちゃん一人。うまくいけば追ってこない……いや、追ってくる、気の強そうな若い男が追ってこないはずはない。


 やめた方がいい、そう思ったが気が付いたら手がリンゴをつかんでいた。足が必死に走っていた。案の定、すぐ追いつかれ首根っこをつかまれた。つかまれると同時にリンゴにかじりついていた。


「こいつ、齧るな」


 怒鳴り声を聞くと同時に頬に熱を感じた。口の中を噛んだ感触もあった。そしてリンゴは口から飛び出し、口の中は血の味で満たされた。ちゃんと考えて動かなければ巧くいかない、いつも自分に言い聞かせてきたはずなのに ――


 気が付くとすぐそばでスズメが地面をつついている。さっき、屋根からこちらをうかがっていたあのスズメだろうか。無心にパン屑をついばんでいる。こんなに人間に近寄ったスズメを見るのは初めてだ。人馴れしているのか、それとも ――


「うまいか。おまえも相当腹をすかしていたんだね」


盗人ガキがささやくとスズメは逃げる様子も見せず、ちゅんちゅんと答えるように鳴いた。


 指先ほどの大きさにパンを千切って置いてやると、スズメはガキの肩に乗りツンツン頬をつついてからサッと地面に舞い降り、千切って貰ったパンをくわえてどこかへ飛び去った。あっという間の出来事だった。


(誰か仲間にでも運ぶんだろうか。それともオイラに取り返されないように逃げたんだろうか)


 仲間がいるならいいな、食いモンを運んでやる相手なら大事な仲間だよな。うらやましいよ。最後の一欠けらのパンを口に押し込み咀嚼そしゃくする。


「さてと、今夜の寝床を探さなきゃ」

立ち上がり、手をパンパンとはたくと盗人ガキは歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る