僕とケバエの二十分戦争
和菓子辞典
和菓子辞典と哀れなケバエ
洗濯物を取り込み、タオルからクローゼットにしまい込んだところ、「ぶン」といったのが事の始まりである。
僕は確信とも言っていい予感を持ち、ちょうど綺麗に畳んだばかりのタオルを二枚、芸事のようなユッタリ具合で引き出した。内実は視野狭窄、汗腺大拡張といった具合である。
一度振る。何も落ちない。別のタオルかと思った。
そんな油断があって第二度目、ぼとん。
僕は低音声で情けなく、「うおぁあ!」とおののいた。黒いハチのような虫で、多分に大き目のケバエであった。また「ぶぶぶぶン」と言うので、またおののいた。
当時の僕(約十分前)の混乱度合いは常軌を逸しており、「これは無視できないな、虫だけに。ハハッ」などと田舎の両親もドン引きなひどい駄洒落を繰り出したりした。現実逃避である。むろん、やつが飛ぼうとして蠢くたび「うおぁあ!」である。そのうえ洗濯物を畳み畳み、普段面倒くさがることを必死にやって、とにかく対処を後回しにした。視線はやつに釘付けだった。
逃げられないと思った。勝手に出て行ってくれるのを遠距離から待ちたかったが、窓は開けていないし開けに行ったら近くを通る。水攻めしようにも近くに本が数冊、これを濡らすのは物書きとしてどうか。理性の端っこが僕にそう言った。
けれど洗濯物を畳み終わると、逃げ口を失い、もう決意した。側にあった午後ティーをひっつかみ、ふたを開け、もう本なぞ知らん(最低至極)といきり立った。
一歩迫る。「ぶン」はない。
もう一歩迫り、「ぶン」がない。
かけた。
やつめ「ぶぶぶぶぶぶン」といって仰向けのまま大回転し、そのあまりのおぞましさに僕は尻餅をやらかしそうになった。しかもしぶといもので、午後ティー沼を抜け出した。
しかし好都合である。本から離れた。僕は使い切った午後ティーに今度は水を入れ(最初からそうすればよかったとこの時思い至った)、移動したやつにもう一発食らわせた。だがしぶとい、そのうえついに飛び上がる。飛来を恐れたが、濡れすぎて飛びきれないようだった。
このとき僕は後悔した。もう少し待ってやれば、上手いこと移動して、僕も窓なり何なり開けてやれたのではないか、と。しかしもう無理で、やつにそんな気力はなく、ただそこで呻くばかりである。
慚愧の念が湧き上がった。僕たちはもう少し、わかり合えたのではないか。上手いこと距離をとり、互いが互いに寛容になり、待ってやることが出来たのではないか。
早く楽にしてやりたいと思った。今度は粘性のある洗剤を引っ張り出した。もう、躊躇なくかけてやった。けれどやつはでかすぎた、うまいこと洗剤沼に埋まらず、呼吸が続いている。もう潰してやる他にない。
何故か泣きそうな思いを抱え、下宿のトイレへ駆け込みモップをかっさらった。そこからは早かった。ごろごろ転がるだけのケバエに、フンと全力で圧をかけた。もう少し早くしてやればよかった。
僕は死骸をくたびれたタオルで包み、燃えるゴミの袋に放り込んだ。
脱力感があった。その脱力が僕に見せたのは大惨状であった。
ドロドロになったモップと午後ティー・水攻撃に巻き込まれた布団とよく見れば近くにあった名刺入れ。幸い本は無事だったし、先日36080円にて本体交換したばかりのiPhone7も無傷だった。近くにあるのを気付かなかったし、何かあったらと思うだけでぞっとする。
ともあれ本日、残りの予定が埋まった。洗濯掃除だけである。
洗濯物を取り込んだばかりだというのに何をしているのか。あのケバエに残酷なことをして、これがその末路か。呆れるなどと、無関心でいることすら出来ない。どうにか悼まねばならないし、今日という日をただの一日で終わらせてはならない。
そんなわけで、あらゆる予定をすっとばしこれを書いた。布団が濡れているから、今日はケープと地べたで眠る。
僕とケバエの二十分戦争 和菓子辞典 @WagashiJiten
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