三章 京都府京都市『茨木童子、鵺、そして百鬼夜行』⑥
茨城は目を覚ます。
すると、視界に子どもの顔が飛び込んできた。
「……あの、大丈夫ですか?」
声を掛けられて、茨城は思考を巡らす。
誰だコイツ。
数秒考え、茨城は思い出して吐き捨てるように言う。
「……なんだ、てめぇ。早く家に帰るか警察に行けっていったろ。まだウロウロしてんのかよ。死にてぇのか……」
それは昨日、京都駅の前で茨城が助けた子どもであった。
状況を確認する。
茨城は、京都タワー付近の地面に倒れこんでいた。どうやら展望室から転落した様子だ。上空には赤白い球体、空亡が浮き、昼間の様な明るさを放ち市街を照らしている。百鬼夜行は全て焼き払われ、京都市街は元通りの風景を取り戻していた。
同様に茨城に憑いていた『茨木童子』の怪異の気配も消えている。もう何の妖術も使えず、普通の人間に戻っていた。
百鬼夜行が消えたところを見ると、鵺も斃されたのだろう。
……ちっ、鵺なんかの提案に乗るんじゃなかったぜ……と内心で毒づく。
「茨城雅羅ッ!」
と、京都タワーから姿を現した蒼子が詰め寄り、倒れている茨城に童子切の切っ先を向ける。
……ここまでか。ゴミみてーな人生だったが、まー良い暇潰しにはなった。
生まれた時から負けている、この社会で失うものは何もない。人生なんてどうでもいい。
そんな社会的に無敵な人間が生まれ続ける限り、再び茨城の様な人間や怪異は生まれ、社会的勝ち組を憎悪して襲い続けるだろう。
……結局、お前ら勝ち組は一生、負け組から怨まれ続ける生涯なんだよ。ざまーねーや。
最後にそう内心で呪詛の様に呻き、斬り殺されるのを確信した茨城は目を閉じた。
しかしいつまで経っても死は訪れない。
「……あの、何するんですか? やめてもらえますか?」
その子どもの声に、茨城が瞼を開く。
すると子どもが、茨城を庇うように割って入っていた。
童子切を振りかぶった姿勢で、蒼子は唇を噛んで暫く震えていたが……ややあって嘆息して刀を降ろす。そして茨城を睨み、
「茨城雅羅。僕はお前を、絶対に許さないからな。一生をかけて償わせてやる」
と告げた。
何も言わず、茨城は口元を釣り上げる。
……いやもう草薙蒼子は本当に甘ちゃんだよな。俺はこいつのこういう所が、本当に嫌いだよ。だがしかし。人間の子どもに庇われるなんて俺もヤキが回ったな、こりゃ……。
もう自身が敗北した事に対して、怒りは湧かない。茨城は敗北に納得する。
誰もが全て終わったと思った――――そんな時だった。
京都駅付近、雑居ビルの狭間から黒い一条の光が伸びた。それは上空に浮かぶ空亡に突き刺さり――――空亡が破壊された。京都市街に再び夜が訪れる。
そして空から、その強大な悪意の塊が落ちてきた。
それは周辺の商業施設をまるごと押し潰し、京都市街に着地する。気がつくと茨城達の目前には、大きな堤防の様な巨大な鱗模様の壁が出現している。高さは目測で 京都タワーの半分ぐらい。即ち七〇メートルほど。
……いや、これは壁じゃねえ……。
茨城が内心でそう呻くと、鱗模様の壁が動き出す。赤い鬼火の様な目と、蛇の頭が見えた。
それはあたかも八つの丘、八つの谷をまたぐかの様な、超巨大な真っ黒い蛇だった。押し潰した商業施設を中心に頭と尻尾を六本ずつ伸ばして、覆いかぶさるように市街を破壊している。
もはやスケールが違う。馬鹿なんじゃねーの、と茨城は思う。この怪異の前では、茨木童子も鵺も、そして百鬼夜行も子どものお遊びだ。
頭が二本足りないが間違いない。茨城はその怪異の名を口にする。
「……これが、八岐大蛇か」
蒼子が悲痛に叫ぶ。
「縁ッッッ! あああああ、僕のせいだ。僕が縁を連れ出さなければ、こんな事には」
珍しく蒼子が真っ青になり、絶望色の表情をしていた。それを見て茨城はざまぁみろ……とは思わなかった。いや、既に嗤える状況でもなかった。それどころじゃない。
茨城は超巨大な怪異、八岐大蛇を見上げて呟く。
「……いやこれ、この国が滅ぶんじゃねーの?」
***
私、枢木縁は夢の中にいた。
セピア色の空間。風景は自宅最寄り駅のプラットホーム。そこに設置された椅子に、私は座っていた。辺りは無音。他人もいなければ、電車もこない。私以外には誰もいない世界。
私の隣に座っている『私』が言う。
『良かったじゃん。楽に死ねて』
そう言った私と同じ風貌をした少女の手には、酒の入った一升瓶があった。それは八岐大蛇の頭の一つ、恐らくいつも最後に『日本酒が飲みたい』と言っていたやつだ。
私は訊く。
「……良かったのかな? これで」
『いつも死にたいって言っていたじゃん。だから死ねて、良かったんじゃないの? 違うの?』
八岐大蛇の言う通りだ。私はずっと死にたいと言っていた。つまり念願が叶ったとも言える。
私の意識の外、外界では現世に降臨した八岐大蛇が、市街を破壊しながら移動をはじめていた。それを私は知覚する。
……蒼子は、ちゃんと逃げられたかな……。
もう私には止められない。どうすることもできない。
私は繰り返す。
「……これで良かった、のかな?」
***
茨城は茫然自失としていた。
否、茨城だけではない。誰もがもう、見守ることしかできない。
エンタメの映画で大怪獣が街を踏み潰すシーンではないが、まさしく完全にそれだ。
八岐大蛇が動く度に、ビルが倒壊して市街が潰される。
もはや怪異というより、天災だ。
蒼子も、後から駆けつけた寧音も何も言わず立ち尽くしている。もはや為す術がなかった。茨城達の場所には今のところ八岐大蛇は動いてきておらず、偶然まだ助かっているというだけの話で、八岐大蛇の気分次第で、茨城や蒼子達は一瞬で潰されて死ぬだろう。
もはや人間や普通の怪異が介入できる次元ではなく『祈る』より他にない。
その時だ。突然、雷鳴が響く。
黒巫女だった。黒巫女は居合いで八岐大蛇に斬りかかったものの――――斬るどころか鱗に傷一つつけられない。八岐大蛇の頭の一つにハエのように叩き落とされ、黒巫女が勢いよく市街へ墜落する。
しかし黒巫女は諦めていない様子で、その後も二度、三度と果敢に八岐大蛇へと挑んでいくが、結果は全て同じであった。八岐大蛇には歯が立たない。
誰もが深い絶望に包まれていた、その刹那――――。
黒巫女が背に、赤色の羽根が生じた。そして黒巫女の色彩が――――変わり始める。
***
飯豊由香は後悔していた。
ついてない。最悪だ。これ、まだ座敷童子の影響があるのでは?
なんて思いつつ、飯豊は考える。どうしてこうなった。
商店街の福引きで京都旅行チケットが当たり、それを無駄にするのが惜しかったから……という安易な欲望に負けてしまった。京都で非常事態宣言が出ているのは知っていたが、正直、風邪のような感染症が流行っている程度の話だと軽く考えていた。しかし現実はそうではなく、完全に怪異であった。
宿泊しているホテルの窓に映る真夜中の光景は、もはや情緒も何もない。滅茶苦茶だ。赤い雨が降ったかと思えば、真夜中にも関わらず明るくなり、それが消えた今度は、京都駅付近の方で何やら蛇のような大怪獣が、市街を破壊していた。
次第に地鳴りが大きくなっており、このままだと飯豊の宿泊しているホテルも危うい。
お願いだから、誰か助けて……飯豊は、そんな祈るような気持ちで破壊されていく市街を見つめていると、宙で何かが赤く発光した。それは少しして橙、黄と色を増やしていく。
まじまじとそれを見つめ、飯豊は光の中心にいる人影に気付く。
間違いない。色が増えているものの、それは黒巫女だった。
……一体、何が起こっている? そう疑問に思った飯豊はSNSで『荒廃神社の黒巫女』を検索。するとSNSでは、黒巫女の投稿が異常なバズり方をしていた。
どうやら誰かが、京都で黒い巨大な蛇と戦う黒巫女の動画を撮り、SNSに投稿したらしい。
数多のSNSのアカウントが、この事態を止めてくれ、異変を解決してほしい、そんな文字列の願いを投稿していき、三百万、四百万と凄まじい勢いでSNSにて拡散。
――SNSを媒体に人間の祈りが、願いが、信仰が収束していく。
***
赤、橙、黄、緑の翼で飛翔した黒巫女が居合いを放つ。それは四色に輝く一閃。その斬撃は八岐大蛇の鱗を突破、ついに頭の一つを斬り落とした。今まで黙殺していた八岐大蛇の残りの頭が、全て黒巫女に向く。
何がどうなってやがる? と茨城が思うのと「え、何が起こっているの!?」寧音が疑問の声をあげるのは同時だった。
一人、驚いた様子のない蒼子は、スマホを見ながら口を開く。
「……SNSで『荒廃神社の黒巫女』がバズってるんだ」
寧音が蒼子に聞く。
「SNSでバズるのと、黒巫女の色が変わって強くなった事に、何の関係があるの?」
「要するに信仰だよ。知っての通り怪異は勿論、神仏の力は人間の畏怖や信仰の規模に比例する。つまり黒巫女は、SNSで信仰を集めていたんだよ」
茨城は思う。そんな馬鹿な。いやっつーか、そんな事が可能なのかよ。確かに蒼子の理屈は正しい。怪異の強さは人間からの畏怖、信仰に依存する。とても信じられる話ではないが、実際に目前で八岐大蛇と戦う黒巫女は、明らかにその力が増していた。信じるしかない。
寧音がどこか呆れたように、座り込んで言葉を紡ぐ。
「にわか信じがたいけど、実際の目の前で起きていたら信じるしかないじゃない。まぁ確かに言われてみれば、そう考えるとSNSって共感や祈り、信仰を集めるには人類史上最高の装置よね……こんなやり方、一体誰が思いついたの……?」
そして蒼子が、その名を口にする。
「鬼一佑雁だよ」
「あーまぁ、なんかアイツらしいわ。本当に、強かな子よねえ。信仰を集めるのが目的で『荒廃神社の黒巫女』なんて願いの叶うネットロアの形をとっていたって訳ね。腑に落ちたわ」
蒼子が空笑いを発する。
「しかし凄いな。海外にまで拡散が始まった。もうじき拡散数が七百万に届く」
「……日本刀とか忍者とか、外国でも人気あるもんね。まぁ巫女だけど」
蒼子と寧音がそんな会話をしている間にも、黒巫女と八岐大蛇の戦いは続く。
青、藍、とさらに色と翼を増やした黒巫女は、八岐大蛇の攻撃を躱しながら、二本目の頭を刎ねた。そして偶然にも、茨城達の付近に着地する。
黒巫女が蒼子を一瞥する。
「おい白い陰陽師! 何を突っ立っているんだ! 君の友達を助けてやるから、手を貸せ!」
蒼子は無言で頷き、黒巫女に駆け寄る。
そして紫の翼が増え――――黒巫女は七色となった。
星空に、虹が翔け抜ける。
***
私の風貌をした八岐大蛇が言う。
『早く死なないの? 縁は、ここで何を待っているの?』
解らない。だから私は何も言えない。私は誰を待っているのか。そもそも私を迎えに来てくれる人間なんているのだろうか。
八岐大蛇はマイペースに酒を呷る。
『質問を変えようか。どうしてこの夢は、駅のプラットホームなの? ここに誰が来るの? 縁はここで、誰と出会ったの?」
それも解らない。私は沈黙する。
『縁は何がほしかったの?』
この質問に、私の感情が溢れる。
「……たぶん。私は誰かに認められて、必要とされたかった。愛されたかった」
『少なくとも、縁は草薙蒼子に愛されていたじゃないか。愛のない嫌いな人間に、友達になってほしいだなんて言う人間はいない。それで縁は、何がしたいのさ』
「――――もっと旅がしたい。私はいろんな所に行きたい。蒼子と」
八岐大蛇は盛大に吹き出した。
『なんだよ。それって生きたいってことじゃないか。それに縁はここで草薙蒼子を待っているんだろ? だからこの夢は、この場所なんだ」
ああ。
そうか。
私は、生きたいんだ。
本当は死にたかった訳ではなく―――自分が変わりたかっただけだ。
そして私は、ここで蒼子を待っている。
蒼子といると、自分を変えられる気がする。
だから、私は蒼子と一緒に旅がしたい。
私の夢に亀裂が入り始めた。セピア色のプラットホームが割れていく。
八岐大蛇が酒を呷りながら続ける。
『迎えが来たみたいだ。ほら、早く行きなよ。まだ間に合うからさ。それでもう少し、蒼子が縁を愛するように、自分で自分を愛してよ。そうすればもっと前にいける。……しかし外に出た六人は負けたらしい。烏が憑いた巫女程度に負けるなんて不甲斐ない。こりゃ戻ったら酒を飲みながら反省会だね』
私と全く同じ顔の八岐大蛇が、無垢な笑顔を浮かべる。それを見て、私ってこんな風に笑えるんだ、などとどこか他人事の様に思った。
どこからか蒼子の声が聞こえたような気がして、私は椅子から立ち上がる。
酒を飲む八岐大蛇に後ろ手を振り、私は走り出した。地上へと伸びる駅の階段を昇り、その先の虚空へ手を伸ばす。
そして夢が壊れた。光が溢れる。
「縁ッ! 頼むから返事をしてくれ! おい!」
私が意識を取り戻すと、すぐそこに蒼子の泣き顔があった。
顔に冷たいものを感じ、私は言う。
「……蒼子、なに泣いてるの?」
「五月蠅いな! 僕だって人間で女の子だぞ! 泣くことぐらいある!」
蒼子は珍しく怒っていた。
袖で顔を拭っている蒼子を尻目に、私は上半身を起こした。空を振り仰ぐ。
天空は日の出の直前。星空と青空の入り交じった色が、頭上に広がっている。
周辺は瓦礫の山と化していた。
地面に座る寧音と葛城の姿があり、何があったのか経典でぐるぐる巻きとなった茨城雅羅がいた。それと見知らぬ子どももいる。
鵺に貫かれた胸部を触ると、服は破れているものの傷は完全に回復していた。傷跡も残っていない。
周辺を見て改めて思う。
……これ全部、私が全て壊したんだろうけど。ヤバいな私。完全に化け物じゃん……。
私は蒼子に、ずっと抱えていた疑問を訊ねる。
「ねえ。蒼子にとって、私は何なの?」
「……何を今更。大事な友達だから、という解答では不服かい?」
「本当に?」
私がそう疑問符を返すと、蒼子が怒気を強める。
「僕の姿を見てくれ! そうでなければ、こんな完膚なきまでにボロボロになってまで助けには来ないだろ!」
言われてみれば、蒼子の姿は酷い状態だった。私以上に酷い。全身が傷だらけで白い装束は半分、焼けていた。
普段の格好良い蒼子からは想像もできないほど、ボロボロだった。
……というか、初めて蒼子に怒鳴られてしまった。これはこれで辛い。
「変なことを聞いて、ごめん」
そう短く謝り、私は蒼子を抱きしめた。
かくして日が昇り、朝が訪れる。
怪異の夜が終わる。
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