一章 岩手県遠野市『マヨヒガあるいは座敷童子』⑤
世の中は金である。
彼女、飯豊由香は少し前まで本気でそう考えていたが、誤りであったと思う。
いくら現金があったところで幸福にはなれない。むしろ身に余る資産は不幸を招くだけであると、この数週間で嫌というほど思い知らされた。
一連の現象はあの民家から持ち出した鍋が原因で、マヨヒガと呼ばれている怪異らしい。
飯豊は独り言を呟く。
「……そもそも。何で私は、こんな目にあったんだろう……」
それが謎だった。
どうして自分はマヨヒガという怪異に遭ったのか。何が原因なのか。
蒼子達と別れた後、飯豊は一人でそんな事を考えていた。
人気のない自宅。日が暮れて夜が訪れたため、リビングに電気を点ける。当然だが部屋には誰もおらず、一抹の寂しさを感じた。
そういえば久しく両親の顔も見ていない。もうお金はいいから、帰ってきてほしい。
飯豊が夕飯の準備を始めようとした頃だ。
外からバイクの音がして、玄関扉の郵便受けの開く音がした。
……手紙か何かだろうか?
飯豊は夕飯を用意する手を止め、玄関へ確認しに向かう。
そして郵便受けの中身を見て……吐き気がした。
郵便受けの中には、大量の現金、札束が突っ込まれている。
まだ、終わっていない。
胃から酸っぱいものがこみ上げてくる感覚。頭も真っ白になる。
遅れてこみ上げてきた感情は、単純な恐怖だった。
現金が怖い。見るのも嫌だった。
……何で。どうして、こんな目に遭わなきゃいけないのか?
足が震えて、飯豊はよろめいた。そのまま玄関先の床に尻餅をつく。
すると生暖かい感触があり、我に返って床を見る。
飯豊の下敷きとなり、そこに圧死した蛇がいた。最近、家の中に入ってくる白い蛇である。
スカートに朱い染みが出来ており、生暖かい感触は蛇の体液だった。
……蛇を、殺してしまった。
しばらく放心状態で座り込んでいると、玄関でピンポンが鳴った。そして玄関扉の向こうから「すいません、宅配便です」という野太い声がした。
特に疑いもせず、飯豊は玄関を開ける。そして視界に、金属バットを振りかぶった男が飛び込んできた。
気づいた時には金属バットで殴られ、飯豊は床に倒れる。痛みで呼吸が出来ない。
その目前の男に見覚えはなく、真っ黒い服装をしていた。男は野太い声を出す。
「金を出せ。どこにある?」
強盗だ。
恐怖で声がでない。飯豊が震えて黙っていると、男は再び金属バットを振り上げた。
「――――た、たすけ――」
かろうじて飯豊が悲鳴を上げる。
刹那。
突然、何かが飛来して男の頭に直撃。甲高い音を立てて、それは砕け散る。
それは日本酒の一升瓶だった。その直撃を受け、男が床に沈む。気絶したらしく、ピクリとも動かない。
飯豊が一升瓶の飛来した方に顔を向けると、そこには男と同じ黒い服装の――――いや、それよりも深い漆黒の人影が在った。
それは黒い巫女装束の少女だ。髪と衣服は夜で濡れたように黒いが、眼だけは月光に近い黄金色で異彩を放っている。巫女装束の上半身は束帯の様にオーバーサイズで、逆三角形の様なシルエット。黒という色もあり、それはあたかも烏を連想させた。そして腰には刀の様なものを帯びている。
その黒い少女が屈み込んで飯豊に視線を合わせる。
「やぁ、こんばんは。大丈夫かな?」
不思議と怖い雰囲気はなく、飯豊は声を出す。
「……えっと、貴女は誰ですか? 助けてくれたんですか?」
すると黒い少女は不機嫌そうな顔になって言う。
「そうさ。そもそも君がSNSで助けてくれって書いていたから、来たんだろうに。全く、失礼な話だな」
言われて飯豊は気づく。
外見的特徴から察するに、彼女こそがネットロアで有名な黒巫女なのだろうか。
「……もしかして貴女が、荒廃神社の――――」
飯豊の声を黒い少女、黒巫女は遮る。
「そんな話は後だ。というか君、このままじゃ次の朝日を拝めないよ。この状況が解っているのかな? 君、今晩で死ぬよ」
「え、でも……今の強盗は……」
「あんな強盗はどうでもいいさ。もっと厄介なのがいる」
飯豊が戸惑っていると、黒巫女は有無を言わさず飯豊をお姫様だっこの形で抱きかかえた。飯豊と同じぐらいの体格の少女であるが、かなり力はある様だ。
黒巫女が告げる。
「端的に話すけど、君に憑いていたのはマヨヒガと座敷童子。珍しい話だけど、二重に憑かれていた訳さ。マヨヒガは白い陰陽師が何とかした様子だけど。そもそも君は、座敷童子ってどういう怪異だか知っているかな?」
「えっと。座敷童子って、憑いた家に富をもたらす的な話だったと思うんですが……」
「その通り。じゃあその座敷童子が去った後は、どうなるか知っているかな?」
知らず飯豊は沈黙した。
ややあって黒巫女が失笑する。
「――――座敷童子が去ると、全員死ぬのさ。君も両親も兄弟も、下手すれば親類一族、一人残らず根こそぎ。君が考えている以上に、座敷童子という怪異は厄介なんだ。元々顰蹙を買っていたようだけど……さっき氏神の使いだった蛇を殺してしまって愛想を尽かされたみたいだね。今まさに座敷童子は、ここから去ろうとしている。……ところで君。自分で、どうしてこんな事になったのか解っているかな?」
訊かれ、飯豊は考える。
どうしてこんな事になってしまったのか。
いくら考えても解らず、飯豊は首を左右に振った。
黒巫女が溜息を吐く。
「ならいいけど。僕の使命は現世での死者を一人でも減らすことだ。助けてあげるから感謝してほしい。それじゃ行くよ」
飯豊を抱きかかえたまま黒巫女は玄関から外に出た。
周辺に外灯はなく、宙には星空の海が広がっている。
「座敷童子。まだ付近にいるようだね。――――よっと」
そんな軽い掛け声で、飯豊を抱えた黒巫女は跳躍する。――――否、跳躍なんて領域ではない。黒巫女は――――翔んだ。
視界が暗転、思わず飯豊は息を呑んだ。
夜空が落ちてくる。
肌に風を切る感触。夜を貫き、暗い雲を抜けて黒巫女は天空へ駆け上がる。その先にある星空の海には、丸い黄金色の船が漂っていた。眼下に広がるは遠野の町並み。
ややあって再び強い風に晒される。それが天空から降下しているからだと飯豊が気づいた時には、既に黒巫女は地上に着地している。
場所は飯豊の自宅裏手にある山中の河原。月明かりに照らされた川は、夜にも関わらず依然として水が流れ、せせらぎを発している。
黒巫女は飯豊を河原で下ろし、そして川の方に向かって声を張り上げる。
「――――座敷童子、そこにいるのは解っている。出てきてくれ」
川から水飛沫があがり着物の童子、座敷童子が現れる。姿はやや透けており、どう見てもこの世の者ではない。性別は不明。表情が抜け落ちた顔で黒巫女を見据えていた。
黒巫女が続ける。
「悪いけど見逃してもらえないか。今、冥界は定員過剰で死者が溢れているんだ。このままだとオーバーワークで閻魔が過労死する。一人でも死者を減らせというのが神仏の総意だ」
座敷童子は応じない。
黒巫女が目尻を釣り上げる。
「――――面倒だな。閻魔の逆鱗に触れない方がいいと思うよ」
座敷童子は何も言わない。
黒巫女が優しく微笑む。
「――――お願いだから、僕に刀を抜かせないでくれ」
しばらくの間をおき、黒巫女は肩をすくめて続ける。
「残念、交渉決裂か。これだから昔の堅物な怪異は嫌だ。話が全く通じない」
それが合図だった。
座敷童子が河原にあった大木を掴み――そして力任せに大地から引き抜いた。全長五メートルはありそうな大木。自身の身長よりも遙かに巨大なそれを、座敷童子はぶっきらぼうに持ち上げ……飯豊と黒巫女に向かって、ぶん投げた。
大木が川を飛び越え、飯豊と黒巫女に飛来。
黒巫女が宙で手刀を切った。五芒星の光の円陣が宙に現れ、壁となって大木を阻む。大木がバラバラとなって川に落ちていく。
二本、三本と座敷童子が大木を投げてくるが、全て黒巫女の創る五芒星に阻まれた。
すると座敷童子は大木ではなく河原にあった大岩を持ち上げ、投げつけようとする。
黒巫女が、腰に帯びていた刀の柄に手を掛ける。
「――――往生してくれ」
瞬間、黒巫女の姿が消え、川の上を金色の一閃が駈け抜ける。
気づくと黒巫女は抜刀した姿勢で川の対岸、座敷童子よりも後方に移動していた。
遅れて『神鳴り』に似た爆音が轟き響き、黒巫女は刀身を鞘に納める。
それは音よりも速い、居合いだった。
座敷童子は胴体を切断され、上半身と下半身が別々に川へと落ちた。持ち上げていた大岩も川に落ち、水飛沫をあげる。
さすがに身動きがとれないらしく、座敷童子は微動だにしない。
座敷童子に黒巫女が歩み寄り、
「別に僕はお前に何の恨みもないけど。悪いね」
最後にそう謝罪した後、黒巫女が再び刀を抜く。
すると座敷童子が、口を動かした。
――どうして?
それは鈴のような声。
飯豊には聞き覚えのある声だった。マヨヒガに迷い込む以前、神社で『お金がほしい』と願った時に聞こえてきた声だ。
そして飯豊は思い出した。どうしてこうなったのか、パズルのピースが合う様に理解する。
……つまり座敷童子は、私の願いを叶えていただけなのだ。
飯豊は黙っている事ができず、黒巫女に向かって叫ぶ。
「止めて下さいッ、お願いします!」
黒巫女の顔が向き、飯豊は告げる。
「思い出しました! たぶん、その座敷童子は私の願いを叶えてくれていただけで、ぜんぶ私が悪いんです!」
黒巫女が振り上げていた刀を降ろす。
「……君。どうして座敷童子がここまで怒ったか、解っているのか?」
飯豊の中で、その答えは出ていた。
座敷童子の視点で考えれば、簡単と解る。
「……除霊とかで、私が強引に追い払おうとしたからですよね。折角、座敷童子が私の願いを叶えてくれたのに。にもかかわらず、お金があっても幸せになれないことに気づいた私は、一方的に気味悪がって、妖怪退治とか除霊に頼ったんです」
言葉にして飯豊は改めて思うが、本当に酷いのは自分の方だった。勝手に願い、それが叶ったら思い通りにいかず、一方的に願いを消そうとした。身勝手で激怒されても当然だ。
「――――悪いのは全部、私です! ごめんなさい!」
月明かりに照らされた河原で飯豊は、そう叫んだ。
ややあって、黒巫女が座敷童子に言う。
「……だそうだ。どうする?」
座敷童子は何も答えない。最後に少しだけ微笑んで、そのまま夜の闇に溶けて消える。
黒巫女が刀を鞘に収め、鍔が金属音を奏でた。
「良かったね。許してもらえて」
その言葉を聞き、飯豊は脱力して河原に座り込んだ。
……本当に疲れた。目蓋を閉じると、急速に意識が遠退いていく。
「おい君、こんなところで寝たら風邪をひく。あとこの山、クマも出るんだが。 おい寝るな」
飯豊は意識を失う直前。最後に、そんな黒巫女の声が聞こえた様な気がした。
***
私、枢木縁は思う。
やはり、大きいお風呂はいい……。
宿泊するホテルには最低限、大浴場はほしいなと思う。
今晩部屋をとったホテルには大浴場があった。風呂からあがり上機嫌で部屋に戻ろうとしていた時だ。
ホテルのフロントで血相を変えた蒼子を見かけ、声を掛ける。
「あれ。蒼子、どうしたの?」
私に気づいた蒼子が足を止める。
「あぁ縁か。今から飯豊さんの家に行ってくる。部屋で先に寝ていてくれ」
「どういうこと? 何かあったの?」
「今ようやく飯豊さんのお兄さんと連絡が取れたんだけど……どうやらお兄さんにも同じ様な現象が起こっているみたいなんだ。つまり飯豊さんに憑いているのはマヨヒガだけじゃない。座敷童子も憑いていた可能性が高い」
「……なるほど。でももう夜だし。明日にしたら? 特に緊急性はないんでしょ」
「飯豊さんに連絡がつかないんだ。とても嫌な予感がして。ちょっと見てくるよ」
蒼子がホテルの外へ出て行く。
風呂上がりのため寝間着であるが、気になって私は蒼子の背中を追いかけた。
道中、私はスマホで飯豊に電話を掛けるが、一向に繋がらなかった。
夜のため道路は空いており、すぐに飯豊の自宅に到着。私達は玄関を叩くが反応はない。
玄関に鍵は掛かっていなかった。私達は恐る恐る扉をあけ、そして玄関の惨状に驚く。
見知らぬ黒づくめの男が、床で気絶していた。周辺にはガラス片が散乱している。
訳がわからない。一体、何があった……?
異常事態に間違いはなさそうで、蒼子を先頭に私も飯豊の家に上る。
リビングの電気をつけると、そこにはソファで寝息を立てている飯豊がいた。
蒼子が慣れた様子で手首の脈など、飯豊の状態を確認する。
「……死んではいない。寝ているだけか……」
私は胸を撫で下ろした。
どうして蒼子が慌てていたのかは分からないが、取り越し苦労だった様だ。
すると頭の中の声が、何かに気づく。
『なにあれ』『面白そうなのがいるな』『烏だ』『現人神?』『いやこれは神懸りっぽい』『見に行こう』『酒が飲みたい』
家の外に強い妖気を感じた。
不思議と頭の声に同調して興味が抑えられなくなり、私は飯豊と蒼子から離れて一人で家の外に出る。
周囲には真っ暗な闇が広がり、川のせせらぎが遠くから聞こえた。
『どこにいる?』『右みぎミギ』『河原のあたりじゃない?』『遭って斬りかかってきたらどうすんの?』『戦えばいいじゃん』『やられる前にやるでしょ』『死んだら酒が飲めない』
頭の声に誘導され、私は妖気を感じる方へ向かう。
そして河原に辿り着いた私は、その怪異と遭遇した。
大きな岩の上に腰を下ろしているのは、真っ黒い巫女装束を着た少女だった。頭から爪先まで夜を背負う様に真っ黒。唯一例外があるとすれば、その瞳だけは月の様な金色をしていた。
私はこの少女、黒い巫女に心当たりがある。
彼女こそがネットロアで有名な『荒廃神社の黒巫女』なのだろう。
黒巫女の手には日本酒の一升瓶があった。酒を呷りながら、黒巫女は不機嫌そうに言う。
「――――こんなにサケが美味しい時代なのに。どうして自殺が絶えないんだか。僕としては理解に苦しむね。君は何故だと思う?」
突然、問われて私は返答に窮した。
特に私の返答に期待していた訳ではないらしく、黒巫女が話を変える。
「ふぅん。白い陰陽師と一緒にいるから何かと思ったけど。君はとんでもなく禍々しいね」
黒巫女が露骨に嫌そうな顔を、私に向けてきた。
意味が解らない。何故、禍々しいなんて言われないといけないのか。
「……貴女が荒廃神社の黒巫女なの? 白い陰陽師って誰の事?」
聞きながら私は、黒巫女に近寄ろうとした。
すると鋭い声が飛ぶ。
「近寄るな、寄らば斬る。まだ人間だから見逃すが、現人神になったら終わりだと思ってくれ」
黒巫女から静かな敵意を感じる。
……一体全体、私が何をした。
黒巫女が咳払いをする。
「まぁいい。で、話を例の座敷童子に変えるが。あの子と暴漢を一緒に寝かしておけないから、誰かが来るまでは待っていようと思って。しかしまさか白い陰陽師が来るなんて。案外、僕がこなくても君達で解決できたかもしれないな」
「いやだから。白い陰陽師って誰のこと?」
「草壁蒼子の事だ。後の始末は任せたよ。それじゃ、よしなに」
黒巫女は腰を上げ、そして跳躍した。黒巫女が身につけていた鈴が鳴る。
次の瞬間、もう黒巫女の姿はない。
夜の闇に溶けて消え、気配も完全に途絶える。
私はしばらく、余韻に浸るように黒巫女が消えた虚空を眺めていた。
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