22
「すみません、そういうわけには……流石に……」
「お願いします」
「いや、ねえ、君……」
いややっぱりそうですよねすみませんを飲み込め。
不適切で人から睨まれるようなことをしかし勇気を持ってしろ。
それはとても痛々しいけれど勇気と呼べ。
今度こそ悪人になれ。
なれよ。
「お願いします」
「……身分証見せてもらえる?」
「っはい」
俺はそのご老人に、学生証を提示した。
「……ん、ありがとう」
「じゃあ」
「高校のほうに連絡させてもらうね」
ああ、そうか。
「……あの」
「ごめんねぇ、厄介な人捌き慣れてるの」
いま俺は正しく打倒される側の愚凡だ。警察に連絡すれば大事になる、警備員に頼れば荒事になる、だから地元の方に連絡しますよとそういう、優れた機知によってスカッと打倒される格好悪い側になっている。
そしてそういうやつは、「それでも俺は必死だったんだ」と自分を正当化する、より自己の内面に引きこもって独りになってつまらない理屈を練り上げ青年に、成人に、老人になる。DQNとか老害とか、それぞれの段階で様々な呼び名を付けられる。
「帰ってもいいよ」
優しいご老人の声音。
嗚呼、俺はどうしようもなく、果てなく、気を遣われる人間的敗北者だ。
「――入江」
聞き慣れた声だった。
「先生」
貴橋正和。
「おまえ来んのかよ……」
先生は俺の肩を、およそ教師と思えないくらい乱暴にどけて、社務所のご老体へと歩み寄った。
「あの、どちら様で……」
「そいつの教師だったものです。ご迷惑おかけしました」
「はぁ」
「それと……」
――。
――。
――。
「あやぁ、その節は大変お世話になりまして……」
「いえ。うちのが大変失礼しました」
舞台に立ってしかし、何も見えなかった。寒々と夜風が吹く。
「先生なんで来たんすか」
「おまえが言うな」
同じ事情らしかった。心胆はともかく。
「清水の舞台から飛び降りるってな」
「やりませんよ」
「やるだろ」
たばこを吸えないからかもしれないが、機嫌悪しげで、それこそ主流煙を吹き出すみたく細い息を吐いている。その間の沈黙が居やすくて、しばらくぶりに何も考えていないで、俺もふぅと嘆息をした。
「なんで来た」
「先生が言います?」
「そっちじゃない。……手紙」
「読みました」
「じゃなんで来た」
「いや来るでしょ」
「そういうノリだから、ガキだ」
一陣の風が吹いた。
「もう京都から出られんぞ」
「は」
「はじゃねえよ。お前がこっちに来なきゃうまくいく作戦だったの」
「……書いて下さいよそれ」
「うちから出す手紙なんぞ全部検閲されてんだよ」
「わけわかんね……日本ですよねここ」
「現代日本にもまだあるんだよ、そういうの」
「……」
「もうどうしようもない。終わりだ……」
覚悟を決めに来た人はしかし、ポケットに手を突っ込んで夜空を仰ぎ、また細い息を吐く。
そして俺は落胆をしていて、そこらへんがどうしようもないのだ、要するにそれが悪意たりうることを性根のところでは承知していないわけだ。
「すみません」
「終わりなんだから、へこむな」
「……何するつもりだったんですか」
「澄川の致命的な話を色々、お暴露する予定だったわけだ。お偉方の干渉ものける準備があって……色々ってのはお嬢の色々な」
「なんですそれ」
「おまえは聞くな。秘密は秘密のままがいいだろ」
「はい」
もう大体は予想できるけれど、それにその約束をもう幾分か侵害しているけれど、秘密は秘密のままがいい。
「で何で俺が」
「その前におまえを人質に取られたら終わり。お嬢はおまえを守るために自白してくれるんだからな。その条件がひっくり返ったら、お嬢は動かん……てこでも動かん。なんなら俺を殺す」
「……アパートにこもってればどうにかなったんですか」
「なった。あそこ一帯は貴橋のもんだ。なにがしか仕向けられても3日守れた。その前に計画は全部済んだ」
「京都は」
「澄川が強すぎる。計画開始から達成まで……1日間、とても守り切れん」
「……」
「現代日本にも、殺し屋ってのがね……」
「……」
「沈黙の意味はそっちじゃねえと」
それで。
ドンと背を押された。
清水の舞台から飛び降りる方へ。
「っぶ……!」
「落ちねえよ加減してるんだから」
「あんたな」
「どうせ飛び降りてみる気だったんだろ」
「まあ……先生もでしょ」
「おまえほど要領悪くねーよ。我を捨てるのも我のためだって分かってる。一番大事なとこは絶対に捨てん」
言葉尻に意地が生じていて、肘の微かに張るのも見えて、風に吹かれる貴橋先生はほんの一瞬だけくたびれた成年ではなかった。
きっとこの何も見えない舞台から、見える限りのあらゆるものを見下ろしていて、それが今この人の挑むべきすべてなのだ。
その姿がすぐまたくたびれて、呆れた。
「……で、なんで押したんです」
「頭すっきりしたろ」
「真っ白でしたけど」
「お前が悪いんじゃなくあの連中が悪い。少なくともおまえの立場では、あの連中が悪い。わかるだろ。判断が悪かったんであって事態に責任はない」
「わかってますよ」
けれどそのくたびれ方は、いつものクールな貴橋先生だと、まさか言うまい。
「つか、あんまり受け容れんなよ」
「なんです」
「自分がそれほどじゃないとか、悪人だとか、そういう話。
せめてなぁ、自分はそれほど善くもないが悪くもないって、そんくらいにしとけ。じゃなきゃ辛いぞー」
「先生も」
「あったよそんな時期。中にあるもん一切吐き出されねーし、増え続ける、みたいなやつ」
「吐き出したら無責任でしょ」
「誰に負うんだそれは」
「自分に」
「自分をぼろ切れにしといて責任どうこう言うかよ」
「じゃ、社会に」
「どっちー……まず自分だ、自分。誰ぞのために何ぞするのは自分のためだと、そこまではわかってんだろ?」
「……わかって、考えて、承知してるんですよ」
「きれんな」
「……」
「そこにお前の精神環境を数えた方がいいんじゃないの」
「……」
「偏見というのは自我を守るためにあるという話だ。さてどうするか……」
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